第五十五講 日は近し
十三章十一 〜 十四節

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 十三章の十一節以下は、世の終末、キリストの再臨、信者の復活榮化等の大問題に觸るる重要なる個處である。十二章の一節より、パウロはクリスチャンの實践道コを提示し、まず對個人道コとして謙遜と愛とを詳説し、次に對社会道コとして権能服從と愛とを力説する。そしていよいよ最後に至つて再臨の希望に言及するのである。從つて、十三章十一節以下が、十二章一節より十三章十節までに何かの深き關係を持つことは、いわずして明らかである。

 しかして前講の最後において説きしごとく、クリスチャンの道コ實行を助くるものは信仰と愛である。十一章までに説きしは信仰、そして十三章十一節以下は希望である。キリストとそのあがないを信じて、その大なる恩惠に感激するは、人をして愛のおこないに出でしむる根源である。しかしながら、これだけにては、根底の強きあるも激励の足らざるをうらむ。ここに主再臨の希望ありて、その時迫れりとの實感より、強き刺戟が加えられ、おのずからにして緊張せる信仰生涯が生まれるのである。すなわち信望愛は常に相離れずして、信は愛の根底たり、望は愛の激励者たるのである。しかるに現代は、信と望とを~秘不可解となして排し、ただ愛のみを説く。不信者はもちろんしかり。信者と稱する者までがまたしかるありさまである。しかし、ただの倫理ヘほど無力なるものはない。これはただ人に愛を賦課するのみにて、少しも愛をおこなわしめないのである。ゆえに信と望なくしては愛は立ち得ないのである。この事は過去千九百年間の人類の經驗によつて明白である。信と望の稀薄となりし時に、愛の充分におこなわれし例はない。愛の盛んなる處には必ず信と望とが伴う。すべて醇眞(じゅんしん)なるクリスチャンはみなこの事を自己の生涯において實驗したのである。

 十三章十一節以下の趣旨は、暗黒の時代たる現代はすでに終わりとならんとし、今やあだかも夜すでにふけて日のぼらんとするごとき状勢にあれば、クリスチャンはこの主再臨後の時代に適應するよう、暗黒のわざを避けて光明のわざをなすべしというのである。十一節前半は「かくのごとくなすべし。われらは時を知れり。今は眠りよりさむべきの時なり」とあるは、譯としてやや不正確である。改譯聖書(註 − 大正譯)には「なんじら、時を知るゆえに、いよいよしかなすべし。今は眠りよりさむべき時なり」とあるは、多少の改善であると思われる。原意は「なんじらは今の時期が眠りよりさむべき時であることを知れば、以上のごとくおこのうべし」との意味である。すなわち以上に述べしところのすべての道コ的行爲實行の理由として、終末の近接を掲げたのである。

 「われらは時を知れり」という。「時」とは何をいうか。これをただ普通の意味の時と見てはならぬ。英語聖書にこれを time(時)と譯せるを、同改訂聖書は season(期)と改めてゐるごとき、注意すべきである。原語 καιροs(カイロス)は、あるきまつた、短い、はっきりした時期をさす語であつて、聖書においては、キリスト再臨の前のある期間をいうに用いられてゐる。コリント前書七章二十九節に「今より後の時は縮まれり」とあるごときを見よ。すなわちここにいう「時」は、「iケの時代」である。iケの宣傳せらるる時代である。すでにキリスト出現し、その十字架の犧牲成りて、今や舊約時代は去り、新約の時代となつた。しかしこのiケ宣傳の時代は決して永久に続くものではない。これには必ず終わりがある。しかもその終わりたるや、決して長き未來のことではない。比較的近いうちにこれが來るのである。そしてこの時代は、一面においてはiケ宣傳の時代ではあるが、またその眞性よりいえば暗黒の時代である。イエスは、おのれを捕えんとて來たりし祭司長、宮守がしら、長老どもにいうた、「今はなんじらの時、かつ黒暗(くらき)の勢いなり」(ルカ傳二二・五三)と。惡が跋扈(ばっこ)し、不善が横行し、眞と義とがいたつて力なく見ゆる時代である。しかしこの時代は長くはない。すでに間もなく終わらんとしてゐるのである。すなわち黒暗の夜はすでにふけて、東天は早くもくれないを呈し、義の太陽はその赫耀(かくよう)たる輝きをもつて全世界に照り出でんとしてゐるのである。

 されば「信仰の初めより、さらにわれらの救いは近し」(十三・十一後半)である。われらの救わるるその日、キリスト再臨の日、審判の日、恐るべき日、しかしわれらの救わるる復活榮化の日、その日はすでに近づけるゆえ、信仰に入りし初めのころより、われらの救いは近くなつたのである。すなわち「夜すでにふけて、日近づけり」(十三・十二前半)である。暗黒の夜はふけて、光明の時代は近づいたのである。ゆえに、左のごとき誡めが當然キリストを信ずる者に向かつて説かるるのである。
 
  ゆえに、われら、暗きのわざを捨てて、
  光明の甲(よろい)を着るべし。
  おこないを正しくして、昼歩むごとくすべし。
  宴樂、泥酔、また淫亂、好色、また争闘、嫉妬に
  歩むことなかれ。ただなんじら、主イエス・
  キリストを着よ。肉体の欲をおこなわんがために
  その備えをなすことなかれ(十三・十二後半 〜 十四)
 
 日はすでにのぼらんとしてゐる。キリストはすでに來たらんとして幕の彼方に待つてゐる。このゆえに、暗黒の行爲は捨つべきである。そして光明の甲をもつて装い、昼歩むがごとくに、何びとから見ても正しきおこないに歩むべきである。すべての肉欲陶酔を避けよ。肉体の欲にふけるためにその備えをなすなかれ。ただイエス・キリストを着よ。しかり、ただイエス・キリストを着よと、パウロは勧めるのである。

 ここに三種の惡が擧げられてゐる。第一種は宴樂と泥酔、すなわち暴食と暴飲である。これは食欲の放縦である。第二種は淫亂と好色、これは性欲の放縦である。第三種は争闘と嫉妬、これは處有欲または自利中心主義の放縦である。この三種の荒亂に、ある一人がことごとく從うこともあろう。しかし多くの人は、全部をおこなわずして、たいていその一種に從えるものである。すなわち暴食暴飲に從うか、しからずば淫亂好色か、しからずば争闘嫉妬かにおのれをまかせてゐるのである。けれども、全部をおこのうが意であるごとく、一部をおこのうもまた惡である。これはみな夜のおこないである。はや日は近づかんとしてゐる。早く夜のおこないを去れ。早く光明の中にあるごとくおこなえ…かくパウロは叫ぶのである。
 
 終末(おわり)近しとならば、たれもまじめならざるを得ない。終末の近きを明知して、その生活と拐~と共に緊張せざる者はない。自己の死近きを知れば、失望の中にも覺悟して、すべてにおいてりっぱなる態度を示す人が少なくない。信仰の人はもちろん、無信仰の人といえども、そうである。まして世の終末の近接は、單に終末の近接ではない。また實に新しき時代の到來、慕いつつ待ちし主の顯現、自己の救いの完成、復活榮化、光明と榮光と生命との滿ちあふるる時の來ることである。この望みありて、いかなるクリスチャンか不まじめなるを得べき。不信者すら、何かの望みを前にしては奮励し努力する。まして絶大の恩惠を受けんとする大救濟のその日を望む者をや。

 しかしながら反對者はいうであろう、理論としてはまことにしからんも、事實、千九百年間待てども待てどもキリストの再臨なかりしはいかに。これ、むなしき望みをもつて人を誡め、もしくは励まさんとするものではないかと。はたしてしかるか。千九百年とは、人の思うほど長き時であろうか。永遠の時に比しては實に一瞬時にすぎないではないか。されば永遠を手に握りたもう宇宙の主宰者においては、それはわれらの一日にも足らぬのである。「主においては、一日は千年のごとく、千年は一日のごとし」(ペテロ後書三・八)とある。時の長しといい短しというごときは、要するに比較的のものである。一人においても、その經驗において必ずしも同一ではない。苦悶の八時間は幾ヵ月のごとく長く、熟睡の八時間は一瞬間である。キリストの再臨おくれたりとて何かあらん。そのため墓にある時が長くなりたりとて何かあらん。眞に眠れる間は幾千年にても幾萬年にても、目さめ)し時はこれを一瞬時と感ずるに相違ない。ゆえに、待つことはいかに長くも、あえていとわないのである。

 そして今やとにもかくにも世がその終わりに近づきつつある事 − 信仰の初めよりわれらの救いの近くなりし事 − それは明瞭に過ぎるほど明瞭である。世界大戰中に始まりし世界の堕落は、戰後に至つてますますはなはだしくなり進んだ。その荒濫敗頽(はいたい)の實状はげにすさまじき限りである。かかる状態にて世がなお永続するとはいかで信じ得よう。今は世界がその終末に向かつて急速に歩みつつありとは、多くの識者の一致して認むるところである。~、世界を治めたもう。かかる荒濫の長びくはずはなく、さりとて改善の曙光(しょこう)はいずこにおいても發見せられない。世は終末に近づきつつありと認むるが、最も自然の見方である。歐洲各國のまじめなる思想家にして、廣き知識の立場より、また冷靜なる學者的思索の立場より、世の終末近きを認むる者が多い。ましてわれらクリスチャンにして聖書において、主の約束として、また使徒のヘえとして、この事が明白にヘえられあるを知る者においてをや。われら、聖書的のこの希望を疑うことなく、ますますそれにおいて堅くなり、もつて希望に激励せらるる愛のおこないに励むべきである。

 信仰によりてのみ義とせらるるの恩惠、それより起こる愛のみにて事足るか。希望を否認する者は信と愛のみを高唱する。これ、信をまでしりぞけ去る現代においては、少しは良き部類に屬する方である。しかしこれすこぶる不完全の道である。人は弱きものである。あやまちやすきは人である。この、弱くしてあやまちやすき人に向かつて、信によつて救わるるだけにて足るといえば、とかくそのおこないにおいてゆるみを來たしやすい。悔い改めて信ずれば足るとヘうるわが國浄土門のヘえの起こす弊害は周知の事實である。ことに親鸞の浄土眞宗に至つて完成せりといわるるこの他力救濟のヘえは、ついにいかなる放恣(ほうし)邪行をも是認し、人間いっさいの罪を煩惱(ぼんのう)のわざとなして寛假せんとするの傾向におちいり、その極、いかなる醜陋(しゅうろう)の行爲も信仰と並立し得るものとなすに至る。見よ、この信仰または思想中にみなぎれる汚氣を!これ、信だけを立てて望をいだかざるより起こる弊害である。人にしてより良きものならば、信だけをもつてもかなり良きおこないの人となり得るはずであるが、人の弱きや、とうていかくなり得ないのである。ここに望をもつてこれを補足する必要がある。再臨審判の期待によつて畏怖をいだいて、そのおこないに緊張厳誡を加うると共に、主のあわれみによつてその時刑罰をまぬかれて救いに入れられんとの信頼の中に敬虔(けいけん)の態度を取るを得、また希望に伴う救いの喜びにあふれておのずから善行に出づる事、これこの希望の結果である。ゆえに信望愛は、クリスチャンの健全なる生活の三特徴であらねばならぬ。

 世の終わりを信ずるははたして迷愚であるか。今や世は終末に近づきつつありとは、識者をもつてせずしても何となく感ぜらるることではないか。世界の荒亂、全世界に滿つる陰暗なる空氣、すべてのものが病的に過度におちいれるごとき現状、いかなる放恣邪行も何かの美名をもつて是認せらるる今日 −− このすべてははたして終末の豫感を人に與えないであろうか。八年前の世界と今日とを比較して、はたしていかに。今や露独の紙幣のごときは世界においてほとんど無價値のものとなつたではないか。たれか八年前に今日のこの事あるを思つたか。八年以前を囘顧せよ。その時、露國はザールに無限の権能ありて、政権もヘ権も彼の一手にあり、彼の下なる官権は世界無比の権能をもつて民を威壓し、少數の革命運動者を除いては、いずれもこれに褶服(しゅうふく)しつつあつたのである。たれかこの時、露國の帝政が一朝にして崩壊し、勞農政府が起こり、その紙幣が無價値にひとしきものとなるを思い得たであろうか。ドイツ帝國といえども八年前の勢威はいかなりしぞ。そのカイザルの威風と、その整然たる軍國的設備と、その旺盛なる科學的工業とは、もつて世界を風靡(ふうび)するの力を有していたのである。たれかその時において、この大帝國が衰微して、そのマルクが今のごとき低落を示すを豫知し得たか。世の變動は今やかくも急激をきわむるに至つた。さらば今より八年後の世界を今においてたれか豫知し得るものぞ。八年の後、世界各國の紙幣がみな無價値となりて、餓殍(がひょう)全地球の眞に滿つるの日なしと、たれか斷言し得るものぞ。かくてたれか世に終末來たらずといい得るものぞ。

 世の終末とよ!しかり、その時は、今まで貴ばれしものがすべて卑しきものとなり、今まで卑しまれしものがすべて貴くなる時である。しかり、價値轉倒の時、これすなわち世の終わりである。その時は、人の貴べる財寶のごとき、何の値すら持たない。一夜にしてみな形もなく失(う)せ去るのであろう。その時、今の世の権者富者と稱せらるる者−−すなわち暗き夜たる今において跋扈跳梁(ばっこちょうりょう)せるこうもり族、ふくろう族、むぐらもち族等は、東天紅を呈すると共にその姿を隠し、夜においては何の勢力なかりし、ひばり、やまばと、うぐいす等は、義の太陽の登上と共に、歡喜に滿ちて歌いまたおどり、ここに世界は全く轉倒し、新世界は生まれ、人類とその社会と宇宙とはここに一朝にして完成するのである。この世界完成の希望こそ、われら、この世にありて力なき者を励まして愛の行爲に出でしむる最大の助力である。

 世の終末はいかなる形において來たるか。それは明白でない。しかし、いかようにしても來たり得ることは確實である。文明の破壊、地の變動、地球の壊滅、太陽系の變動……いかにしても世の終末は來たり得る。この、いつ變動しいつ覆滅するか測り得ぬ地上にありて、永久の安固を願う人の愚かさよ。このたのみがたき地上に藏を増し加えて財寶をたくわえ、「かくて靈魂に向かい、靈魂よ、多年を過ごすほどの多くの貨物(たから)を持ちたれば、安心して食い飲み樂しめという」者の愚かさよ。かるに、~、これにいいけるは、「無知なる者よ、今夜、なんじが魂、取らるることあるべし」という(ルカ傳十二・十六 〜 二〇)。しかり、まことにしかり。しかるに、たのみがたき地上にたのみがたき物を積み、たのみがたき権力にあこがれて蠢動(しゅんどう)することの愚かなるかな。営々として努力し、紛々として争闘し、そして得るところはついに滅亡あるのみではないか。「かたくなにして悔いなきの心に從い、おのれのために~の怒りを積みて、その正しきさばきのあらわれん怒りの日に及ぶなり」(ロマ書二・五)とは、すなわらこの事である。われら、信によつて義とせられたる者は、希望をあわせいだきて、この信とこの望とに励まされて、この時代にありて「光明(ひかり)の子」として、愛の生活を営むべきである。暗き夜にありて決して失望せず、黎明(れいめい)近きを信じて、光明の中を着て歩むべきである。
 
 
第五十五講 約 説
終末と道コ(十三章十一 〜 十三節)
 
 キリストヘ道コは愛である。しかして愛は信と望との間に立つ。信の結果としての愛である。望に励まさるるの愛である。信愛望の三姉妹は互いに相よりて確立する。パウロは愛を説くにあたつて、「されば」または「このゆえに」(十二・一)の接続詞をもつて始めた。人の救わるるは行爲(おこない)によらず信仰によるとの理由のもとにキリストヘ道コを説かんと欲したからである。信仰の基礎は、~がその子をもつて信者のために遂げたまいし贖罪(しょくざい)の行爲である。「このゆえに」信者は、相互に對しまたこの世の政府と社会とに對して愛の行爲に出づべしというのが、十二章一節より十三章十節に至るまでのパウロのヘ訓(おしえ)である。しかしながら信仰の上に立つ愛は希望をもつて強めらるるを要す。ゆえに「かくのごとくなすべし。われらは時を知れり…」(十三・十一)とある。第十二章一節の「されば」または「このゆえに」は、一章十七節以下十一章までを受けていいしがごとくに、十三章十一節の「かくのごとく」は、十二章二節より十三章十節までを受けていうたのである。パウロの書簡を研究するにあたつて、簡單なる接続詞または代名詞の意味に特別の注意を拂うことが必要である。信仰のゆえに愛すべし、希望のゆえに怠るべからずというのが、十二章と十三章の大意である。

 「われらは時を知れり。」今の時代のいかなるものなるかを知れり。これ、いわゆる「iケの時代」であつて、永久に続くべきものにあらず。やがて主キリストの再臨をもつて終わるべきものである。しかしてその時は刻々と近づきつつある。ゆえに「今は眠りよりさむべきの時」である。今や、われらが初めて信じたりし時よりそれだけわれらの救いは近く、暗黒の勢力が跋扈(ばっこ)する夜の時代はすでにその半ばを經過して、義の太陽が世を照らすべき時は近づけり。ゆえに、われらは暗黒のおこないを去りて光明の服(ころも)を着るべきである。夜はいまだ全く去らずといえども、われらは主にありて光の子ども、また昼の子どもなれば、おこないを正しくして昼歩むごとくすべし。暴飲暴食、淫縦放埒(ほうらつ)、分争結黨等、公明を避け正大をきらう暗黒の行爲に歩むことなかれ。なんじら、夜の衣を去りて、光明の主なるイエス・キリストを迎えんために、彼のまといたもう義の衣を着るべし。彼の再臨と共に過ぎゆくべきこの世のさまにならいて、肉体の欲をおこなわんためになんじの心を奪わるるなかれ。

 ロマ書は特に信仰について論じたる書である。ゆえに希望については多くを語らない。しかし全然語らないではない。第八章は救いの完成について論ずる希望の一章である。しかしてここにまた愛の奨励として世の終末について述べる。また十五章十三節にいう、「希望の~、なんじらをして、聖靈の力によるその希望を大いならしめたまわんことを願う」と。希望なくしてキリストヘはない。しかしてクリスチャンの希望は、キリストの再臨とこれにともなう救いの完成の希望である。無限進化の希望ではない。徐々たる世の改良進歩の希望ではない。「このイエスは、なんじらが彼の天にのぼるを見たるそのごとく、また來たらん」(使徒行傳一・十一)と天使が弟子たちに告げしその約束の成就(じょうじゅ)である。事の眞否は余輩の問うところでない。イエスと彼の弟子たちがかく信じ、しかしてその信仰によつてキリストヘの起こりしことは、疑うの餘地がない。この信仰の上にイエスの山上の垂訓は説かれ、この希望を基礎としてパウロの愛のヘ訓は述べられたのである。キリスト再臨の希望なくして新約聖書は書かれなかつたということができる。

 しかしながら「そんなことがあり得るか」とは、古い舊(ふる〉い問題である。パウロがこの言を發して以來すでに千九百年、しかもキリストも來たらず、夜も明けないではないか。彼のこの希望は事實の裏切るところとなり、今や新世界の出現は、これを遅々たる萬物の進化と、これにともなう人類の努力とに待つよりほかに道なしといわれる。しかしてかく唱うる者はこの世の識者に限らない。多數のキリストヘ会とさらに多數のキリスト信者は激烈にキリスト再臨の信仰に反對する。ロマ書のこの個處のごときは、彼らによつて、いわゆる靈的に解釋せらるるにあらざれば、すでに無用に歸(き)したる古代の迷信として取り扱われる。今やキリスト再臨の信仰を(その他のすべての奇跡と共に)除きたるキリストヘがこの世の流行物である。

 キリストはまことにいまだ來たりたまわない。しかしながら、それがために聖書はこわれない。まことにペテロがいいしごとく、~にありては千年も一日のごとしである。永遠の存在者より見て、すべての有限の時は一瞬間である。(a÷∞=0である)。世の終末は近づきつつある。その事は昔も今も事實である。「われらは時を知る」。この時代の何たるかを知る。これは永久に続くべきでない。始めがあつて終わりがあるものである。しかして「信仰の初めより、さらにわれらの救いは近」きにあらずや。信仰の初めを使徒時代と見て、二十世紀の今日は、さらに世の終末に近きにあらずや。一九一四年に起こりし世界戰争後の世界の状態いかに。世ははたして進歩せしや。人類六千年間のいわゆる進歩の結果はいかに。文明の中心ととなえらるる歐洲今日の状態はいかに。最善のキリストヘ國と稱せらるる米國はいかに。一年間に(一九二〇年の調査による)四百五十億圓をぜいたく品のために消費し、わずかに七千五百萬圓を傳道のために使う米國民は、はたしてその信仰をもつて誇ることができるか。禁酒法は公然として破られ、殺人自殺、今日のごとく多きはなし。まことに今や夜は中央(まなか)である。Oswald Spenglerなる人が Der Untergang des Abendlandes(西洋文明の衰落)なる書を著わして、歐洲人の注意を引きつつある時代である。Vladmir Sorovief ならびに Domitri Mereschkovski ら、歐洲近代の豫言者的哲學者もまた世界の終末到來を高唱してやまない。

 主は近し。ゆえに何びとにも何ものをも負うなかれ。主は近し。ゆえに飲食または情熱または妬みの駆るところとなるなかれ。主は近し。ゆえに、まじめなれ。端厳なれ。「兄弟よ、われ、これをいわん。時は迫れり。妻を持てる者は持たざるがごとく、泣く者は泣かざるがごとく、喜ぶ者は喜ばざるがごとく、買う者は買わざるがごとく、この世を用ゐる者は用いざるがごとき時いたらん。そは、この世のさまは過ぎゆけばなり」(コリント前書七・二九 〜 三一)と。肉体とこの世の事に淡泊なれ。主は近し。萬物の終わりは近づけり。肉体の欲をおこなわんがためにその備えをなすことなかれ。

 健全なる道コに警戒が必要である。愛と恩惠とのみによる道コは放縦に流れやすし。浄土門佛ヘの歴史がそのことを示す。プロテスタントヘの一派にこの頃向あるは、人のよく知るところである。救いはその反面において聖潔(きよめ)である。「~の聖旨はこれなり。すなわちなんじらのきよからんことなり」(テサロニケ前書四・三)とある。「人きよからずば、主にまみゆることあたわず」(ヘブル書三・二四)とある。しかして、きよむるに火が必要である。恐るべき主の日の到來を覺悟して、われらは心の奥底よりきよめらる。われらが~の恩惠になれてゆだんする時に、惡魔の乘ずるところとなる。ここに警戒の必要がある。「されど、主の日の來たること、盗人の夜來たるがごとくならん。その日には、天、大いなる響きありて去り、体質ことごとく焼けくずれ、地とその中にある物みな焼け盡きん……さればなんじら、~の日の來たるを待ちていかにきよきおこないをなし~を敬うことをなすべきや。~の日には天焼けくずれ、体質焼け溶けん。されど、われらは、その約束によりて、新しき天と新しき地とを望み待てり。義、その中にあり。このゆえに、愛する者よ、なんじらすでにこれを望み待てば、主の前に、しみなく、きずなくして、安全ならんことを務めよ」(ペテロ後書三・一〇 〜 十四)とあるがごとし。

 世の終末はいかようにても來る。次に來たらんとする世界戰争によつても來る。あるいはフリンダース・ピートリー氏によつて唱えらるる文明循環期の終結によつても來る。太平洋の周圍に火山國の連鎖(れんさ)を築きしがごとき地中の大變動によつても來る。南極に堆積(たいせき)せる氷塊の融解(ゆうかい)によつても來る。地球と他の天体との衝突によつても來る。太陽系の暗黒星雲通過によつても來る。地球は今日すでに幾囘も大變動を經過して來た。一時は爬蟲類(はちゅうるい)全盛の時代があつた。今や貧弱なるへび類、とかげ類によつて代表せらるる爬蟲類が、世界を横領した時代もあつた。それが今日の人類の占領する世界となつたのである。この世界がこれなりに永久に継続すべしとは信じがたいことである。

 世の終末である。その破壊でない。~はご自身が造りたまいしものをさげすみたまわない。「~の日には、天燃えくずれ、体質焼け溶けん。されど、われらは、約束によりて、新しき天と新しき地を望み待てり。義その中にあり」である。世の終末は「死と陰府(よみ)と火の池」とではない。「新しき天と新しき地」とである。罪人の存在を許さざる正義の世界である。あだかも今の世界が、へびやとかげの祖先たりし醜き恐ろしき大爬蟲の存在を許さざるがごとく、來たらんとする義の世界は、今日世に跋扈(ばっこ)する人たちの活動存在を許さないのである。「今はなんじらの時、暗黒の勢力なり」とイエスのいいたまいし時代である。今は夜であつて、こうもり、ふくろう、むぐらもち等、暗黒を愛する動物の跋扈活動する時代である。されども、鶏鳴(けいめい)一たび暁を告げて、義の太陽ののぼるに至れば、いわゆる夜性の動物……夜間活動の動物は、太陽の光輝(かがやき)を避けて穴と洞(ほら)とに隠れ、これに代わりて、ひばりは天をさしてのぼり、やまばとの聲は林に響き、かわせみは水にたわむれ、宇宙は一變して昼の世界となる。「なんじらはみな光の子ども、昼の子どもなり。われらは夜につける者、暗きにつける者にあらず。されば、われら、他人の眠るがごとく眠ることをせず、さめて愼むべし」とあるがごとし。「なんじら今主にありて光れり。光の子どものごとくおこのうべし」(エペソ書五・八)とあるがごとし。
 


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