パウロはその靈的經驗において、あるときこのことを痛切に味わつたに相違ない。パリサイ學徒としての彼は、律法厳守をもつて唯一の生命となした。彼が後年みずから「律法にあるところの義によれば、缺(かけ)なき者なり」と誇稱したのを見れば（ピリピ章三章六節）、彼の律法恪守(かくしゅ)がいかに厳粛をきわめたかを察知し得るのである。しかも形の上に律法の規定を守るにおいては缺なかりし彼も、兩刀の剣よりも利くして心の念(おもい)と志意(こころざし)を見分くるところの�~の言に接しては、律法の行いによりて�~の前に義たらざるを知り、同時に、自己の罪人たることを明らかに示されたのである。そして彼はこの窮地におちいりてのち、一轉して救いの道を示されて平安に入つたのである。彼は自己のこの經驗を囘想しつつ第三章二〇節の言をしるして、律法を人類の弾劾者と定め、そして二一節よりは律法以外に救いの道あることを述べんとして、ここに言いがたき安慰を味わつたことであろう。

　

　パウロは人類みな罪あることを強調して、ついに律法の眞性質を斷定し、それが決して人類を救うものにあらざることを明言した。然り、律法はたしかに人を救うものではない。これを社会を治むる道であるところの法律について見るも、文明諸國が毎年毎年新しき法律を作るにもかかわらず、その社会が惡化こそすれ、毫も善化せざるによつても、律法が人と社会との救濟たらざることは明らかである。由來、新約の根本的基調は、律法による救いならで恩惠による救いである。しかし誰人も一度はこれを律法的に見るゆえ、律法の行いによつて救われんと努力する。しかし全き聖き信者たらんとの切なる願いは朝に抱きて努力するも、夕べには一日を囘想して懺痛の涙を流すがつねである。かくて同一の決心と同一の努力と同一の懺痛を、幾度も幾度も繰り返すだけをもつて終るのである。これ實に行きづまりである。そして良心のするどき者は、かならずこの行きづまりを經驗するのである。アウガスチンがそうであつた。ルーテルがそうであつた。バンヤンがそうであつた。その他、無數の人がそうであつた。そして悲しむべきことは、この律法による行きづまりまで來つて、新局面の打開を見ざるうちに、早くすでに�ｉｹと自己とに失望して、ついにキリスト�ﾍを捨て去る人の決してすくなからざる一事である。彼らは何ゆえにロマ書を第三章一〇節まで讀みて中止したのであるか。何ゆえに二一節以下の救いの�ｉｹを味解せんとしなかつたのであるか。惜しむべきことである。

　二一節に言う、「今律法のほかに�~の人を義としたもうことはあらわれて、律法と豫言者はその證をなせり」と。これを原文に從つて正しく譯すれば

　

　然れども今、律法をはなれて�~の義はあらわれ、律法と豫言者とによりて證せられたり。

　

となる。「然れども今」とまずしるして、局面の一變が暗示せられるのである。今までは律法の束縛の下に暗黒の彷徨をつづけていた者が、ここに俄然として全く別の世界あることを示されるのである。その暗き世界より明るき世界への轉移の境い目が、「然れども今」の一語である。短き語である（原語 Νυνι δε 英語 But now）。しかし重大なる語である。實にロマ書第三章二一節の「然れども今」は、その前と後とをあまりにあざやかに截別(せつべつ)してゐる。前は、他の壊亂、罪の詰責、律法による滅亡である。後は、罪の赦免、義の顯揚、�ｉｹによる救拯である。この兩者を、明暗の差異のごとく明らかに区別したのが「然れども今」の一語である。まことに「然れども今」である。かつては罪の認識のみあつた。然れども今は罪のゆるしが臨んだ。かつては律法による暗黒のみあつた、然れども今は�ｉｹによる光明が臨んだ。「然れども今」は、實に新世界の暁を告ぐる鐘の音である。

　

　そしてこの新世界出現はキリストの降臨にもとづくのである。彼の降臨ありて初めてふるき律法の束縛は失せ、自由の救濟は我らの間に臨むに至つたのである。彼、世に來りしがゆえに、人の心は一變し、從つて人の人に對する道は一變し、從つて社会が一變したのである。これ實に新しき紀元の開始であつた。これが眞正の改造をうながしたのである。またうながしつつあるのである。これに比すれば、今日世界にかまびすしき「改造」の叫びのごときは言うに足らざるものである。今日の改造の叫びは、今の統合の律法より解放されて、別の律法を立てんとすることである。ゆえに解放と言うも、實はふたたび他のある束縛に身をまかせることである。改造と言うも、ふたたび他の律法にしばらるることである。これに比して、キリストの救いはあまりに相違してゐる。キリストの救いは律法と全然絶縁することである。道�ｺおよび律法より全く解放せらるることである。然らば無政府状態におちゐるか。否な、儀文につかうるをやめて靈につかうるに至るのである。死せる形式の束縛を脱して、活けるある靈に、活けるある原理に從うに至るのである。

　

　ゆえに「然れども今、律法をはなれて�~の義はあらわれ」たのである。律法を全くはなれて── 律法以外に ── 律法に全然無關係にて、�~の義はあらわれたのである。律法というものの支配してゐる世界を全く離脱して、別に�~の義があらわれたのである。大改革である。根本的の大改革である。律法をことごとく無用とし、道�ｺを全く無視して、しかも決して亂れず、活ける靈に導かれて、おのずから節にかなわしめんとするは、すなわちキリストの救いである。人の意(おもい)にすぐるある特殊の大改革である。しかし�ｉｹはこれである。これ以下のものではない。

　

　多くのキリスト�ﾍ信者はこのことをさとらずして、�ｉｹを律法と同一視して、全然律法につかうる身となつてゐる。または信仰に立つ人といえども、これに律法を加味して、信仰を抱きて律法につかうるをもつて正しき道となしてゐる人が多い。これ無用なる軛を自己に加うることである。かのキリスト�ﾍ道�ｺと稱するものは、決して律法として我らをしばるものではない。靈において活くる者の行爲の標準を示すものたるにすぎない。全く律法をはなれて信仰だけの人となつたのが眞のクリスチャンである。信仰の偉人らを見よ。彼らはみなひとしく思いきつて律法を脱して全き恩惠の世界に移つた人々である。これは危険と見えて決して危険ではない。放膽なるがごとくして實は愼重である。子が親に頼るに、律法のその間に介在する要はない。律法はかえつて信頼の純粹を濁すものである。他の何者をもまじえないところの全く純なる信頼 ── これが徹底した信仰である。功を要しない、功を條件としない、ただの無邪氣なる信頼である。律法は人をして自己を見つめしむるものである。しかし自己を見つめて、人は罪のほか何ら良きものを見出し得ない。上を仰ぐこと、�~の義を仰ぎ見ること、これ唯一の救いの道である。

　

　律法をはなれて�~の義はあらわれたと言う。「�~の義」とは何を意味するか。またそれが「あらわれ」たとは何のことを指すか。學者は種々の意見を提出してゐる。しかし人の義（律法による義）の立ちがたきを明示したるのちの語であるゆえ、�~より人に賜う義であると見るが正しい。

　

　人がみずから義たらんとする努力はむなしき努力である。人は到底義を實現するを得ない。ゆえに人の義たり得る唯一の道は、他の者より義を與えらるることである。�~は實に悔いし碎けたる心をあわれみたもうて、義をその人に賜うのである。自己によりて義たり得ぬを知りて、我に何の善きをもみとめざるに至り、しかも義たらずしては心靈の空虚滿たしがたきに懊惱せる人に向つて、�~はその義を賜うて彼を義としたもうのである。さればここに言うところの「�~の義」は、�~より人に賜う義である。換言すれば�~が人を義としたもうことである。この�~の義が今やすでにあらわれたのである。そしてそれがキリストの十字架の贖罪に依據することは言うまでもない。

　

　空氣や日光は人の生存に缺くべからざるものである。しかし人力をもつて造り出すを得ざるものである。されば造物者より與えられてそれをわがものとするほかに道はない。�~の義もまたこれに似たるものである。人の努力をもつてこれを得ることはできない。�~より與えられて、人がこれを享受するのである。ゆえに人はただ空氣を充分に吸い、日光に充分その身をさらせばよい清い空氣と輝く日光ほど、人の肉體を健康ならしむるものはない。同樣に、�~の義の中に己れを投げ入れて豐かにこれを享受するほど、靈魂を健康ならしむるものはないのである。

　

　かの狭き暗き室内につねに陋居して、汚れたる空氣と薄き光線の中にあることが、肉體の健康をそこなうことであるならば、律法の陰鬱なる窟内に蟄居することは、我とみずから心靈の健康を破ることである。戸を排して外に出でよ、そこに日はうららかに輝き、風は清く流れてゐる。この日を浴び、この風を受けて、肉體はとみに生氣を囘復する。律法の窟内にありては、魂は錆び腐るばかりである。出でよ、出でよ、出でて恩惠の光と風とに觸れよ。然らば苦悶は失せ、心靈はよみがえり、歡喜の膏(あぶら)は魂の骨と髄とをうるおし、十絃の琴をもつてする感謝は高く天に向つて發せられるであろう。これ己れの力によるにあらず、全く恩惠の救いの中に投げ入れし結果である。これを、あまりに良すぎて信じがたしと言うか。しかし父が子に對していかに多く恩惠ほどこすも、誰かこれを怪しむものがあろうか。まことにそうである。事は實に簡單にして明瞭である。然るに、この簡易なるそして唯一の救いの道に來る者は、暁の星のごとくすくない。世の多くの人は、道�ｺと律法と事業とを高唱する。そして人の努力の總積の上に人類の救いは成ると考えてゐる。今日のキリスト�ﾍ団と稱するものがまた實にこれより以外を知らぬのである。その結果は、事實が幾度も示すとおり、決して決して人類の救いとはならない。今や人類は事業の強調、道�ｺの高揚と速かに絶縁して、�ｉｹの單純に歸るべきときである。ここに眞正の救いがあるとともに、また眞正の事業、眞正の道�ｺも随伴するのである。これ今日の人類にとりて最緊要なる眞の信仰復興である。

　

　二一節の最後の句は「律法と豫言者とによりて證せられたり」である。上述せしところの�~の義の顯揚は、その證明者として、律法と豫言者を持つというのである。「律法をはなれて�~の義はあらわれ」と言うかと思えば、たちまち「律法と豫言者とによりて證せられたり」と言う。律法を全然はなれ去りしことを高調して、ふるき束縛の律法を全く彼方に投げやりしごとくにして、たちまちまたこの律法を�~の義の證明者としてたずさえ來るのである。例によつて端睨(たんげい)すべからざるパウロ式論法である。さきに彼は第一章一節において、自己が�ｉｹのために選ばれしことをしるせしのち、二節に入りて「この�ｉｹは從前よりその豫言者たちによりて聖書に誓いたまえるものにて」と言うた、彼は大なる進歩家であるとともに大なる保守家であつた。人の義の新たなる顯揚は、全く律法をはなれたる純恩惠のそれである、しかしそのことを證明するものとしては律法と豫言者があると、これパウロの主張である。彼は聖書を�~の書として重んずる人であつた。

　ゆえに聖書の裏書きを得て初めて安んじて新眞理を唱道するのである。

　律法と豫言者と言えば、舊約聖書の全部である。然らばいかにして舊約はこの新しき�~の義の宣揚を證するか。言う、舊約は舊き新約にして、新約は新しき舊約である。舊約の中に、新約は未完成の形において−−その萌芽において−−存し、新約の中に舊約は、完成の形において−−その美わしき成熟において−−存してゐる。舊約の進み來つて圓成せしものが新約であり、新約のいまだ圓成せざるものが舊約である。一は大人であり、一は小兒である。しかも同一の生命の連続である。ゆえに律法と豫言者の中に、�ｉｹの義を豫表せしところあるは自然のことである。

　モーセの五書に、イザヤ書に、エレミヤ記に、その他の諸書に、この豫表は決してすくなくないのである。パウロが第四章において、この�~の義を證すべく用いしアブラハムの故事のごときはその一例である。のみならず、これを全體の上よりながむるも、律法が罪をさとらしめて�ｉｹの義の準備をなし、豫言者が主の救いを幾度も幾度も豫言せるごときは、ともにこれ新しき義を直接間接に證明せしものと言い得るのである。全く新しくしてしかも古きに萌芽を置く、全然新たなる啓示なるとともにまた古き豫言の完成である。これ實に�ｉｹの�ｉｹたる處以である。