十六講 律法の能力
− 第三章十九節、二〇節の研究 −

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 前講において説きしごとくパウロは舊約書の引用をもつて萬人有罪の主張を裏書きせしめしのち、左のごとき強き語をもつてこの箇處を結んだ。
 
 19 それ律法の言うところは、その下にある者に示すとわれらは知る。こは各人の口ふさがり、また世の人こぞりて~の前に罪ある者と定まらんためなり。20 このゆえに、律法の行いによりて~の前に義とせらるるもの、一人だにあることなし。そは律法によりて罪は知らるるなり。
 
 これロマ書にある重大なる語の一にして、眞に革命的なる思想の發表と言うべきである。そしてこれは第一章十八節より始まつた人類皆罪の説論の總括または結論と言うべきものである。實にパウロはこの二節を言い得んがために今まで筆を進め來つたのである。彼、いかでゆえなくして異邦および自國の民のみにくき姿を描き出そうや。彼はこの重要なる結論に導き至らんために、かのみにくき姿をあえてその畫布の上にのぼせたのである。今これを左のごとく改譯したい。
 
 19 それ律法の言うところは、律法の下にある者に語るとわれらは知る。これすべての人の口ふさがりて、全世界の、~の前に罪に定められんためなり。20 何ゆえとなれば、律法の行爲によりては、肉の人は一人だに~の前に義とせられざればなり。そは律法によりて罪の認識あればなり。
 
 「義人一人もなし云々」とは、十八節までのパウロの主張であつた。しかし一〇節 〜 十八節の引用句は多く異邦人に關せるものである。然るときは、ユダヤ人はこれらの聖句によりて罪を定めらるる理由なしとの反駁が起るかも知れぬ。その反駁に對する答えを兼ねて、今までの處説に結論を與えたものがすなわちこの十九節、二〇節である。
 
 十九節の「律法」は何を指すかについて、三つの説がある。第一は、廣く道コ律(イスラエル以外をもふくめて)を指すと見、第二は、モーセ律またはそれをふくめる『モーセの五書』を指すと見、第三は、舊約聖書を指すと見るのである。この場合は、前後の關係上、第三説を採るよりほかに道がないと思う。そは前の一〇節 〜 十八節の引用が、詩篇、イザヤ書、箴言等からなされたものであるからである(もつともこの節を前の引用に直接の關係なしと見るときは、この「律法は、モーセ律または『モーセの五書』を指すとも見得るのである)。「律法」が舊約書全體を指すことのある例として拳ぐべきは、コリント前書十四章二一節である。そこに「律法にしるして」と、イザヤ書より引用してある。またヨハネ傳第一〇章三四節である。そこに、詩篇より一句を引きて「汝らの律法に‥…と、しるされしにあらずや」とある(その他、ヨハネ傳第十二章三四節、同第十五章二五節等も、よき例である)。
 ゆえにいま十九節の前半を「それ聖書(舊約)の言うところは、聖書の下にある者に語ると、われらは知る」と書き直すと、意味は明瞭となるのである。パウロの引用句が多く異邦人攻撃なるを機(しお)として、「ゆえにわれらユダヤ人は罪人ならず」との言いのがれの起らんことを氣づかいて、彼は言うのである。聖書にしるさるるすべての言句は、すなわち聖書の下にある者──すなわちユダヤ人──に對して語られしものである。よしその外形は異邦人を責めしごとき語にても、同時にユダヤ人にも反省をうながさんためにしるされしものである。すなわちユダヤ人が異邦人とともに誡められたのである。律法の下にある民と、彼らはつねに誇稱してゐる。然らばその律法の言うところに伏すべきではないか。そこに罪が責められてある以上、よしそれが異邦人の罪を責めたものであつても、彼らもまた深くこれに鑑み、これを自己に引き當つべきではないかと。これ十九節前半の意味であると思う。マイヤーはすこぶる簡潔にこの意味を言いあらわして言うた、「律法の範圍内に生を保てる者は、律法が何と言うとも−−もとはそれがユダヤ人に對して言われたものでも、異邦人に對して言われたものでも−−自己に對して言われたものと見なすべきである」と。これたしかにパウロの眞意をうがちし語であると思う。
 
 これを今日のことをもつて例示しよう。新約聖書には人の罪が責めてある。信者のある者は、それは不信者の罪を責めしものであるとして、安んじてゐるかも知れぬ。そして自己をもつて聖き岩となして誇つてゐるかも知れぬ。そのとき、ある人ありて彼に告ぐるに、聖書は聖書の下にある者、すなわち信者のためにしるされたものであるゆえ、よし不信者の罪が責められしところをも、信者は自己に當てはめて反省せねばならぬと語つたとせば、これ正にパウロのこの態度に酷似せるものとたるのである。
 
 十九節後半は言う、「これすべての人の口ふさがりて、全世界の、~の前に罪に定められんためなり」と。自己の無罪を主張するすべての口ふさがりて、何ら抗辨の餘地なきに至れば、全世界は~の前に罪人と定まるのである。まず異邦人の口ふさがり、次ぎに、言いのがれに巧みなるユダヤ人の口もふさがりて、全世界が−−すなわち異邦人もユダヤ人も−−誰も彼も、~の前に罪人と定まること、これすなわち舊約律法の目的である。ゆえに舊約聖書は、異邦人の罪を責めつつ、同時にイスラエルの罪を責める。「こは、世の人こぞりて~の前に罪ある者と定まらんため」である。すでに異邦人の罪は明らかである。さればユダヤ人さえ同じく罪人なることがわかれば、全人類が罪人と定まつたわけである。然るに舊約聖書はその下にあるユダヤ人に示すものであれば、やはり彼らの罪を示したものである。さればここに聖書の光に照さるるとき、すべての世の人は罪人と定まるのである。−−これパウロの論法である。彼もし今日に生れしならば、まず聖書に照して不信者の罪を責め、次ぎに聖書はその下にある信者のために書かれし書なる理由をもつて、同樣に信者の罪を定め、そして全人類が−−信者、不信者ともに−−~の前に罪人なることを斷定するであろう。
 
 「~の前に」である、「人の前に」ではない。人の前にはいかように見えても.パウロの問題とするところではない。あるいは聖人もあり、君子もあり、あるいは聖き信徒もあり、偉大なる信仰家もあるであろう。あるいは人格の高貴、識見の深奥等の姿もあるであろう。しかしそれはいずれも「人の前に」である。人の限に映ずる範圍のことである、「~の前に」ではない。すなわち地の一角より同じ地上に動く諸象(しょしょう)を見たのであつて、天より地を俯瞰したのではない。しかし「エホバ、天より人の子を望み見」るときは、人はみな罪人なのである。「~の前には」世の人こぞりて罪人なのである。
 
 二〇節は十九節の理由提示である。「何ゆえとなれば、律法の行爲によりては、肉の人は一人だに~の前に義とせられざればなり」と、その前半は言う。「律法の行爲」とは、モーセ律の命ずるところの行爲を意味する。「いまイスラエルよ、わが汝らにヘうる法度(のり)と律淀を聽きてこれを行え、然せば汝らは生くることを得」(申命記四章一節)とは、舊約律法の根本的基調であつた。
 
 しかしながら、誰人か、すべての法度(のり)と律法を完全に守り得よう。よし形において全く守り得るとも、心において全く守り得る人のあるはずはない。そして心において行い得ぬものを形において強いて行うは、決して純眞なる道コ的行爲ではない。~の光は探照灯のごとくわが心を照す。我の義ならざるはきわめて明らかである。律法的行爲において人は全き能わず、ゆえに律法の行爲によりて~の前に義たり得る人は一人だにないのである。他に、人の~に義とせらるる道あらばすなわちよし、しかし律法の行爲によりては、一人も~の前に義とせられないのである。ゆえに律法はむしろ萬人を罪人と定めんためのものである。律法は人に行うべき行爲を示す。しかしこれを行うに要する力をすこしも與えない。人は律法を與えられてかえつて自己の罪をさとるのみである。そしてこれ實に律法の主目的である。律法は罪に沈める全世界の人を~の前に弾劾するものである。さればパウロは二〇節前半の理由として、後半において言う、「そは律法によりて罪の認識あればなり」と。律法の鏡に照されて、人は自己の罪を認識する。すなわち律法は人をして罪をさとらしむるものである。ゆえに律法的行爲よりて~の前に義たらんことは、望み得べくもあらぬことである。
 
 以上は、十九節、二〇節の大意である。靜か覧のふくむ思想を味わうとき、その革命的大思想なることを誰か思わぬことを得よう。パウロはこの語をもつて、その萬人有罪説の結尾をかざり、ここに本論の第一段を結びて、いよいよ次節より新局面を打開して救いのiケを提示せんとするのである。道窮すればおのずから通ず。律法的救濟の全然不可能なることがかく強く斷定せられて、ここに新たにiケ的救濟の新局面が展開し來らんとするのである。この意味において、この兩節のロマ書において占むる位置ははなはだ重要なることを我らは忘れてはならない。
 「律法」とは如何。十九節におけるごとく、舊約聖書を指す場合もあるが、多くはモーセ律(またはモーセ律の主要なる内容とするモーセの五書)を意味するのである。「律法は、能(ちから)ある権威によつて命ぜられ、かつ必要の場合には罰をもつて強ゐるらるるところの行爲の規則である。これ聖書におけるところのこの語の主なる意味である」(デービス氏の聖書字典より)。能(ちから)ある権威とは、イスラエルにおいては勿論エホバ~を指す。律法は由來彼の命令に出ずるものである。これ律法の聖く正しくかつ善なる處以である(ロマ書七章十二節)。そして罰をともなうが律法の特色である。すなわちこれを守る者はゆたかなる祝bノあずかるに反して、これにそむくものはある罰を加えられる(エホバ彼自身より、または彼より王の手を經て)。これユダヤ律法の特色であつた。すなわち賞罰の豫示をもつて命ぜらるる行爲の規則──換言すれば、恐れと望みとを豫期せしむるところの命令の一束 ── これすなわち律法である。
 
 されば律法はすなわち道コである。ゆえにこの律法に關してパウロのここに言うところは、廣く道コ律に關しても同樣である。彼はモーセ律に育てられたる人にして、かつキリストのiケはモーセ律にかわるものとしてユダヤの國より生れ出でたるがゆえに、彼はもつぱらモーセ律についてのみその論述を行(や)るのであるが、彼のこの處説そのものは、勿論原理としてすべての道コ律に適用さるべきである。換言すれば、彼はここにモーセ律について語つて、すべての道コ律について語つてゐるのである。異邦にも勿論道コ律がある。ある民族においては、それが一の形ある條文またはヘえとなつており、他の民族においては、それが單に良心の本誰的實感として不文律となつてゐる。そしていかなる民族の一員にても、その道コをもつては義とせられないのである。さらに一般的に言えば、人という者は、誰人といえども、道コの行いによりて~の前に義たることはできないのである、すなわち眞の意味において救いに入ることはできないのである。何となれば、人は道コ的に完全なることを得ないからである。道コによつて人の罪は知られるのである。道コは「世の人こぞりて~の前に罪ある者と定まらんため」に、~より人類に與えられたるものである。これ道コを貶(へん)するのではない、かえつてその本性を明らかにして、その價値を定むるのである。
 
 我ら日本人はことに道コの窟内に育てられし民族である。かつて然り、今も然るのである。社会においてもつとも濃厚なるは道コ的の空氣である(かく言うは、わが民族が道コ的に優秀であるという意味ではない。そはあたかも宗ヘ的空氣の濃厚なる歐米各民族がかならずしも宗ヘ的に優秀でないと同樣である)。從つて萬事萬物に對する判斷の尺度は主として道コ律である。忠孝仁義は、家庭ヘ育および學校數育の基調である。これ道コが──たとえ表面においてのみなりと──わが社会の最上者である證據である。然るにここに「道コは人の罪を示すものにして、人を救うものにあらず」との提言あらんか、その革命的思想の提供なることは言わずして明らかである。もしこの提言にして眞なりとせんか、道コを根柢とせる家庭ヘ育、道コをもつて人を救わんとしつつある學校ヘ育および社会ヘ育は、むなしき努力の蓄積として、土臺なき家屋のごとく土崩瓦解し去ることであろう。すなわちそは道コ本位の社会に對する靈的革命の提唱である。道コの救世主たらぬを示して、これをもつて立つ人とその社会をその根柢より改め、信仰の上にこれを再建せんとするのである。果たして然らば、パウロのこの言は、道コを基礎として立つ人と社会とにとつては輕々に見すごしがたき大問題の提出である。
 
 しかしキリストヘの主張はきわめて明瞭であつて、いささかの疑義をはさむ餘地がない。「キリストヘのみが、道コによつて人は救われずと主張するヘえである」と、ある學者は言うた。まことに至言である。キリストヘは要するに最高道コの提供であると言うて、iケの最大特徴をその優秀なる道コ觀に置くは、これ世の誤解を避けんとしての妥協的態度である。キリストヘの優秀なる道コは、その附随物にして、決して主體でない。人は道コによつて救われぬものゆえに、人を救うところのiケは、いかにしても道コ本位であり得ないのである。人は道コ的に完全なる能わず、ゆえに道コ行爲において~の前に義たる能わずとの主張は、救いを中心義とするiケの極力主張せざるを得ざるところである。げにパウロはこの主張のために幾度かの執拗なる迫害と讒誣(ざんぶ)中傷とに接した。彼の敵は彼のおもむくところに影のごとくしたがい來つて、陰に陽に、彼と彼の説ヘとを打ち碎かんとした。しかし彼は萬難を排してその主張を維持し、かつ高調した。
 
 暗きは光に追いせまらんとするも、光はますますその輝きを増し進んだ。彼は人を救わんがために−−然り、人を救わんがためにこそ−−この心靈の炬火を、たえず焔々として點報じつつあつたのである。
 
 ある~學者は言う、「パウロは、キリストの單純なるヘえを化して複雑なる~學的ヘ義となしたのである。彼もしなかりせば、キリストヘはユダヤの山地に擧りたる美わしき道コヘとしてのこつたことであろう」と。果してそうであろうか。我らは今これについて長き論議をする時を持たない。ただ人生の實驗として見るとき、パウロのこの主張の、活ける事實そのままなるをみとめざるを得ないのである。道コは聖にして正しきものである。しかしこれを完全に行わんとして我らはその不可能なるを發見し、その標準に照して、自己の義ならざるを實感するに至るのである。
 
 「十誡」のごとき、道コ律としては實に完全なるものながら、人は決してこれによつて救われるにあらず、かえつてこれに審かれて、律法的行爲においては義たり得ぬことをさとらしめらるるのである。このとき我らを襲うものは實に罪の悶えである。そはあたかも魂の奥底より湧き出でしがごとくして、拂わんとするも拂い得ざる心靈のうめきである。ゆえに、小なる理窟をもつてこの實感を打ち消すことは不可能である。
 
 完全に律法を守る聖浄の生活を送らんとの決心は牢固として我にあれど、同時に律法を守り得ざる我の道コ的不能の姿のあさましく映ずるを如何せん。決心と實状、理想と實際との距離は、天空にきらめく星と星とのそれのごとく遠くある。ゆえに道コは決して人を救いのよろこびに至らしむるものではない。道コ律は、優秀であればあるほど、かえつて人をして及びがたきを感ぜしむるものである。ゆえに律法の行爲によつて救われざることは、人の實瞼上きわめて明瞭なる事實である。
 
 然らば道コの要は何であるか、いわく、それは人をして罪の認識を起さしむるにある。「そは律法によりて罪の認識あればなり」とパウロは言うた。勿論道コの目的の一半としては、人と人との問の行爲の標準の擧示を見ないわけには行かない。けれども道コの目的としては、罪の認識の生起を充分にみとめねばならない。キリストヘを知らんとしてまず「山上の垂訓」を讀み、その實に打たれてこれを實生活において實現せんと試みてその不能なるを見出すや、キリストヘを至難の冬となしてはなれ去る人がある。これキリストヘを單なる道コヘと思いあやまりしためである。「山上の垂訓」は天國の律法にして、救われし者の守るべき道を示すとともに、また實にこれを讀む者をして己れの罪をみとめしめんことを目的としてゐる。然り、律法は人をして「律法の行いによりて~の前に義とせらるる者一人だにあることな」きを知らしむるを目的とする。すなわち道コは人をして罪をさとらしむるに有力であつて、人を救うには全然無力である。然り、道コの力と無力とはここに明らかである。道コは人を罪人と認むるにおいてきわめて有力である。しかしその他の點においては全く無力である。これパウロの力をこめて主張せしところ、そして人の實驗において−−まじめに道コを行わんとせし人の實驗において ── 白日のごとく明らかなる眞理である。ただかの道コを淺く外部的に見、從つて自己をその外面においてのみながめて、淺くかつ輕く道コ家をもつて任ぜる人々のごときは、あまりに輕佻、あまりに浮薄、到底ともに人生の根本問題を語り得ざる人たちである。
 
 ここに思うべきは、わが日本國の既往數十年のヘ育の失敗である。今や明治、大正の忠君愛國を基調とせる道コ的ヘ育の失敗に歸せしは誰人もみとむるところである。ためにヘ育は行きづまりの状態にありて、いかにかして新生面をひらかんと苦心しつつある有樣である。げに現代の日本人ほど、至れりつくせりともいうべき倫理的ヘ育を受けたものはないのである。歐米の識者は明らかにこのことをみとめてゐる。然るにその結果は如何。今や國を擧げて腐敗と不義と荒濫の濁水におぼれんとするがごとき状況の下にあるではないか。不良少年、不良青年と相競うがごとき不良壯年、不良老年の跋扈を如何。節義、地を拂い、コ操、跡をかくすは現代の實状である。げに道コ的破産の淵に瀕せるのは現代のわが社会である。
 
 ああこれかのすべての道コ的ヘ養の結果なるか。然り、これかのすべての道コ的ヘ養の結果である。道コはこれを行わしむる力を本具していない。ゆえに道コだけのヘ養は、人をして惡を避けしむる何らの力ともならぬのである。道コは人をして罪を識認せしむるものである。ゆえに道コ的ヘ育の結果は、人をして自己の罪をさとらしむるとともに、また他人の罪をも悟識し得るに至らしむるのである。自己の罪惡をも充分にみとむるとともに、他人の罪惡に對してするどき眼を向けて、その指摘に没頭しつつある現代の状態は、まことによく道コ的ヘ養の性質およびその結果を實證するものである。すなわち道コ的ヘ義は、人をすこしも道コ的に向上せしむることはなくして、ただ自己および他に對する道コ的批判を鋭敏ならしむるまでである。まことにパウロの斷言せしとおり、律法によりて罪の認識が生れるのである。
 倫理道コの標準に照すとき、全世界は~の前に罪人と定まるのである。律法的行爲によつては一人だに義たり得ぬのである。然らば人は全くここに行きづまつたのであるか。然り、ここに人は道コ的には行きづまつたのである。換言すれば、道コをもつて救われんとする人類の企畫はここに行きづまつたのである。しかしながら、人の行きづまりは~の行きづまりではない。~は人を救わんために新局面を打ち開きたもう。すなわち次節以下において強調するごとく「律法のほかに~の人を義としたもうこと」があらわれたのである。これすなわち信仰の道である。かくて律法において窒死せる我らは信仰においてよみがえるのである。律法的には義ならざる者が、信仰によりて義とせらるるのである。ここに救いは人に臨み、歡喜の露はその靈をうるおすのである。
 パウロはこの新原理を提唱せんために、人類皆罪の主張を第一章十八節よりかかげ來つたのである。面をそむけたき人類の罪をわざと摘出せしも、實にこの結論に導かんためであつた。そのためには障礙となるべき途上の大石小石をはねのけつつ、ついに第三章十九節、二〇節に至つて、ひとまず第一段の目的に到達したのである。そして凱歌を奏するがごとくにこの兩節を高らかに叫んだのである。何ゆえの凱歌ぞ、言うまでもなし、そはiケ的救濟の山にみちびくべき野の最終點に達したからである。
 

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