第十二講 ユダヤ人の罪(一)
− 第二章の研究 −

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 前講および前々講に述べしごとく、第一章十八節以下三二節までは、もつぱら異邦人の罪惡を指摘せしものである。パウロの強剛なる言をもつて、ギリシア人の智慧とロマ人の力とを打ち碎いたのである。かくして彼は進んで第二章においては、自己の同胞たるユダヤ人の罪惡を擧示せんとするのである。勿論彼は憎んでその同胞を惡しざまに言うのではない。愛するがためにこれが道義の法廷に訴えるのである。彼は、その兄弟、その骨肉のためならんには、「あるいはキリストよりはなれ、ほろびに至らんも」あえて厭わなかつた。同胞の救われざるうちは、彼に「大なる憂い」と「心に耐えざるの痛み」とがあつた。そして人は救われんためにはまず罪を示されねばならぬ。罪人救濟のよろこびを傳えるiケは、罪人たるを自認せる人にのみ受得せられる。パウロはその愛する同胞をiケの滋雨に浴せしむべく、まずこれを弾劾するのである。まして彼は「世の人こぞりて~の前に罪ある者と定まらん」(三章十九節)ことをその立論の第一段とするのであれば、すでに異邦人の罪惡を指摘したる今は、當然ユダヤ人の罪惡を指摘すべき順序となつたのである。

 このことが今日の我らの心にあざやかに映らんためには、我らはここに想像のつばさを借りて、千九百年のむかしに歸り、大使徒パウロが、多島海の周邊に雑多の種類より成る聽衆と相對せし姿を心に描かねばならぬ。聽衆の種類は雑多であつたが、これをその國籍よりして、ユダヤ人、異邦人と二大別することができたであろう。その異邦人に向つて、パウロはまずその罪惡の深重と頽敗の激甚とを、豪宕激越なる語調をもつて摘示したであろう。この激烈なる叱責を浴びて、彼らは一言もなくして面を伏せたであろう。その間(かん)、聽衆中のユダヤ人はいかに小氣味よく感じたことであろう。平生「選民」をもつてみずからを高うし、~と律法あるをもつて誇り、これなきゆえをもつて異邦人を蔑視しいたる倨傲にして執拗なるユダヤ人は、パウロのこの異邦人排撃に接して、心ゆくばかりの痛快さを味わつたことであろう。しかしながら、パウロはここにもまたその慣用手段なる局面一變を用いたであろう。そしてこのたびは聽衆中のユダヤ人に向つて、そのするどき鋒(ほこさき)を向けたであろう。みずからを聖しとして異邦人の罪を責むる彼らが、實は同じく罪を犯しつつある事實を指摘して、かえつて彼らの罪惡が聖善の假面を装えるだけ、それだけなお深刻なることを論斷したであろう。そのときユダヤ人もまた首を垂れるほかに道がなかつたであろう。そしてパウロは異邦人、ユダヤ人兩者の罪をかく斷定したる上、人類全體を心の前に置きて、「義人なし、一人もあるなし」と高らかにかつ力強く叫んだことであろう。
 
 右のごとき姿を心に描きたる上にて、我らがロマ書第二章に對するときは、その前後關係の上に明らかなる光が投げられるのである。パウロは第一章後半にて異邦人を責め、ここに舞臺を一轉せしめて、第二章においてユダヤ人を責めるのである。そして然るのち、人類全體に對して罪人たるの烙印を押したのである。ただし第二章において、我らはパウロの特異なる論法に注意する。この章はその十七節に至つて、明らかに筆の調子が變つてゐる。十六節までにおいては、パウロは「これらのことを行う者を審きて、同じくこれを行う人」を責めてゐる。誰人と特定的に言わずして、ただ一般的にこの種の人々の矛盾と僞善を指示してゐる。そして十七節以下においては、眞正面よりユダヤ人を責めてゐる。前半も暗にユダヤ人を責めたものであることは、學者間に強いてこれを否定する者あるにもかかわらず、きわめて明白のことであると我らは思う。然るときは、パウロの論法は、まず砲撃をもつて敵の陣営を毀(こぼ)ちたるのち歩兵の突撃戰に移る近世の攻撃法のごときものである。まず原理を掲出して、然るのちこれをユダヤ人に適用す。まことに彼らの死命を制する論法である。ここにパウロの周到なる用意と、聖用せられたる技巧を我らはみとめざるを得ない。のみならず、その勇氣、その公平なる態度 ── まことに~の忠實なる僕たるにふさわしきものである。
 
 まず一節より三節までを、左にしるして見よう。
 
 1 このゆえに、およそ人を審くところの人よ、汝、言いのがるべきなし。汝、他人を審くは正しく己れの罪を定むるなり、そは審くところの汝も同じくこれを行えばなり。2 かくのごとく行う者を罪する~の審判は眞理にかなえりとわれらは知る。3 これらのことを行う者を審きて同じくこれを行う人よ、汝、~の審判をのがれんとおもうや。
 
 一節の最初に「このゆえに」とありて、前との連絡を保たせてある。第一章末節には「すべてこれらを行う者は、死に當るべき~の判定を知りて、なおみずから行うのみならず、またこれを行う者をも喜べり」とあつた。みずからこれらの罪を行うほか、さらにこれを行う者を喜ぶのは、實に律法を知らざる異邦人の罪の特色である。然らばあえて問う。これらの罪を行う者を審きながら、實はひそかにみずからこれを行うは、なお大なる罪ではないか。かかる人は單に罪を行うのみならず、その上になお僞善という虚僞をかさねるのである。これ律法を知れる者の犯す罪である。知識を有し、倫理を學び、惡の避くべくして善の行うべきを知れる者のおちゐる罪はすなわちこれである。矛盾と虚僞とをともなうだけ、それだけかえつて深刻なる罪である。
 
 第一章末節には「行う」の語が三つあり、第二章に入りても、三節までにこの語が四つある。邦譯聖書においてはつねに同一の語を用いてあるが、原語聖書においては、二つの異なつた文字を使いわけてゐるのである。すなわち πρασσω(プラソー)と、ποιεω(ポイエオー)の二字を用いてゐる。そして英譯聖書は、前者を practise と譯し、後者を do と譯してゐる。プラソーは、習性としての行爲にかかわる語であつて、習慣的にある事を行うことを意味する。すなわちある期間つづくところのその人の状態について言う語である。これに反してポイエオーは、外にあらわれしその時その時の外部的行爲にかかわる語であつて、ある事を事實的になすことを意味する語である。すなわち前者は人の行爲を線として見たもので、後者はこれを點として見たものである。もし漢字の「行」が前者に當り、「爲」が後者に當るとするならば、まず第一章三二節を左のごとく改めることができる。
 
 すべてこれらを行う(習性として)者は、死に當るべき~の判定(さばき)を知りて、なおみずからこれをなす(個々の行爲として)のみならず、またこれを行う(習性として)者をも喜べり。
 
 以てこの節の意味を明らかにすることができるのである。今、第二章の一節より三節までのあいだにおいて「行」と譯せられし文字を、原語聖書または英譯聖書によつて二種に分けて見るときは、その意味が明確になるのである。すなわち一節最後の「その審くところの汝も同じくこれを行えばなり」は、習性としてのユダヤ人の惡行を言うたのである。また二節の「かくのごとく行う者」も、同樣である。次ぎに三節は「これらのことを行う(習性として)者を審きて、同じくこれをなす(個々の行爲として)人よ」となる。すなわちユダヤ人は異邦人が習性的に行う罪惡を責めながら、自分らも個々の行爲として同一の罪惡をなすのである。
 
 パウロは三節後半において「汝、~の審判をのがれんと思うや」と、暗中に匕首(あいくち)をかざすがごとく、同胞に向つて肉迫した。そしてこの肉迫は四節、五節に至つてさらに力を増して來た。彼は、彼らが~の「ゆたかなる仁慈(めぐみ)」に狎(な)れて、その仁慈のゆえに、彼らの罪惡も無限にゆるさるるがごとく思惟し、またはその仁慈たるをさとらずして、~に罪を罰する力なしと誤想せる彼らの淺愚と驕慢とを責める。彼らは~の仁慈が彼らを悔改せしめんがための聖慮に出ずるをさとらずして、ますます心を頑なにして、罪を悔い改むることをしない。彼らは愛をしりぞけて、罪の底なき谷に向つて、一歩は一歩よりふかく落ちゆく。かくして「己れのために~の怒りを積みて、その義しき審判のあらわれん震怒(いかり)の日におよぶ」のである。~はやがて彼らを罰したもうであろう。その震怒の日ひとたび來らば、彼らはみずから蒔きし種よりの實を刈り取るよりほかなきに至るであろう。ああかの恐るべき審判の日よ!そのときに潔けるわが同胞の悲惨なる運命よ!ああそのときわが眼盲(し)いてそれを見ざらんことを!わが耳閉じてその叫びを聞かざらんことを!しかし~の律法は厳乎として存する。來るべきものはついに來らねばならぬ。パウロは同胞のためにふかく憂えつつ、しかも天空のごとく明らかなる~の眞理をおごそかにかかげ出ずるのである。
 
 次ぎの六節において、彼は「~は人の行いにしたがいて、各人にその報いをなすべし」との強き斷定を與えたるのち、次ぎの七節、八節において左のごとく言う。
 
 7 耐え忍びて善を行い、榮光と尊貴と不朽とを求むる者には永生をもて報いん。8 されども争闘をなし、眞理にしたがわず、不義につく者には、報ゆるに憤りと怒りと患難辛苦とをもつてす。(このうち患難辛苦の語は九節に屬すべきものであるが、便宜上八節の中に含めておいた)。
 
 七節は右の譯にてあやまちなしと思わる。ただ「報いん」の譯字が ── 六節の「その報いをなすべし」とともに ── やや報賞的の臭味を傳うるを遺憾とする。永生は決して善き生涯の報酬として與えられるものではない。永生の賦與は徹頭徹尾「恩惠」である。しかしこの節においては、永生の賦與が報酬であるか恩惠であるかは問題としていない。問題はただ善き生涯を送りたる者に父より永生を與えらるることを主張するにあるのである。

 しかしなお注意すべきは八節である。右にかかげしごとき現行譯によるときは、~は惡しき生涯を送れる者に向つて、その當然の報いとして「憤りと怒りと患難辛苦とを」與うるものであるごとく見える。然らば~は罪人をあわれむことなくしてこれに患難辛苦をのみ報ゆる~なるか。然るときは「それ天の父はその日を善き者にも惡しき者にも照し、雨を義しき者にも義しからざる者にも降らせたまえり」という主の貴き語(マタイ傳五章)と矛盾しないであろうか。また人の患難辛苦はことごとく自己の罪惡の結果であろうか。かくて罪惡と患難の關係についての面倒なる問題がここに生起せんとするのである。これは現行邦語聖書の誤譯より起つたことであつて、この節は改めて正に次ぎのごとく譯すべきものである。
 
されど争闘をなし、眞理にしたがわず、不義につく者には、憤りと怒りと患難辛苦とあらん。
 
 ~は不義者に憤りと怒りと患難辛苦とを報いようとはしない。しかし不義者には不義の自然の結果としてこれらが臨むのである。~は有意識的に彼らを苦しめようとなしたまわない。しかし不義はその本性上、おのずと~の憤りと怒りと患難辛苦を招くものである。特別に刑罰が降らずとも、自然と刑罰が不義にともなうのである。不義者は~に罰せられずとも、自分で自分を罰してゐるのである。永生は~より與えらるるもの、刑罰はみずからこれを招くものである。これ八節、九節の解釋上、大いに注意すべき點である。

 「眞理にしたがわず不義につく者」は、大體において良譯であるが、むしろ「眞理にしたがわず不義にしたがう者」とするには「偏視なければなり」と言いて、その理由を與えてゐる。異邦人といい、ユダヤ人という。事は千九百年の昔に屬して、今日の我らにかかわりなしと言うか、または「眞理つかず不義につく者」とするを可とする。すなわち同一の動詞を、否定と肯定に用うべきである。英譯聖書は do not obey と obey を用いてゐる。眞理つかず不義につくというのは、單に個々の行爲を指して言うた語ではなくして、その人の生活原理を指して言うた語である。すなわちその人の生活の根本方針が不義に隷屬せるものなることを示すのである。不義を主として、奴隷のごとくこれに從屬するのが「不義につく」である。すなわ自己自身を罪の毒酒にひたし、人生の原理として不義にその身をまかせることである。これ實に罪の中の罪であつて、諸惡の根源である。これよりはなれて眞理につくに至るが悔い改めである。眞理につくか不義につくか、人はいずれか一を採り得るのみである。憤りと怒りと艱難辛苦とは、「ユダヤ人をはじめギリシア人、すべて惡を行う人におよぶ」のである。これに反して「ユダヤ人をはじめギリシア人、すべて善を行う人には、榮光と尊貴と平康と」が與えられるのである(九節、一〇節)。「榮光」は天の光にかがやく全き潔き状態、「尊貴」は父の嘉賞の下にとこしえの譽れを持つこと、「平康」は右兩者にともなう魂の状態であつて、この世において味わうもののさらに進展完成せるを指す。すなわち三者とも來世において實得せらるるものである。そしてさらに注意すべきは、惡を行う者と善を行う者との受くる各々の結果は、人の國籍によつてすこしも左右せられない一事である。ユダヤ人なりとも、善者は賞せられ惡者は罰せらる。異邦人なりとも、善者は賞せられ惡者は罰せらる。ここに人類は善惡の二つに分たれて、各々その運命を異にすと言われる。國籍の相違は、小さき誇りと侮りとの處因たり得べきも、人の永遠の運命に對しては全くかかわりなきものである。このことについては、彼がいかなる民族の一員であるかはすこしも問われないのである。そしてパウロは十一節において「これ~には偏視なければなり」と言いてその理由を與えてゐる。

 異邦人といい、ユダヤ人という。事は千九百年の昔に屬して、今日の我らにかかわりなしと言うなかれ。~を有しその律法を持てる者は、いかなる時代にありても「ユダヤ人」である。~を知らず、その律法持たざる者は、何時の世にありても「異邦人」である。然らば今のユダヤ人は誰ぞ、これいわゆる「信者」である。今の異邦人は誰ぞ、これいわゆる「不信者」(または未信者)である。使徒パウロにして現代に再生せんか、彼はまず「不信者」の昏冥(こんめい)と罪惡とを責めるであろう。しかしもしこれに對して信者が快哉を叫ぶならば、そはあまりに早計である。何となれば、彼はただちに鋒(ほこさき)を轉じて、「信者」の虚僞と罪惡とを責めるであろう。そして信者たると不信者たるとの別なく ── 洗禮を受けたと受けぬとの別なく ── ヘ會員たると然らざるとの別なく ── およそいかなる人たりとも、善を行う者には永生與えられ、惡を行う者には滅亡來ると論斷してはばからないであろう。今日の信者が、~を知るということ、iケを持つてゐるということ、ヘ會に屬してゐるということなどをたのみとして、天國の榮光期して待つべしとなし、不信者を蔑視して地獄の子となすがごときことあらば、そは迷いふかき驕慢である。人の環境は決してその人に榮光または滅亡を與うるものではない。人をとこしえに活かしまたは殺すものは、その人の心のあり場處、およびそれより當然生るる生活の状態である。我らは今日パウロの語を己れに當てはめて三思すべきである。然らば人は行いによつて救わるるか、パウロは左のごとく言う。
 
~は人の行いにしたがいて、各人にその報いをなすべし(六節)。
…すべて善を行う人には、榮光と尊貴と平康とをもつて報ゆべし(一〇節)。
およそ律法なくして罪を犯せる人は、律法なくして亡び、律法ありて罪を犯せる人は、律法によりて審判を受くべし (十二節)。
~の前に義とせらるるは律法を聽く者にあらず、義とせらるるは律法を守る者なり(十三節)。
 
これらの語については、學者のあいだに種々の見方がある。それが、「信仰によりて義とせらる」というロマ書の根本義と表面矛盾せるためである。そしてフリッツェのごとく、到底この矛盾は調和し得ずと斷ずる學者もあるが、多くは何らかの解決を與えんとつとめてゐるのである。我らはここにこのむずかしき問題について煩瑣なる解説を試みようとはしない。ただ率直に我らの信ずるところを述べておきたい。まず注意すべきは行いによる審判が聖書的原理の一なることである。「そはわれらはかならずみなキリストの臺前(みまえ)に出でて、善にもあれ惡にもあれ、おのおの身においてなししところのことにしたがい、その報いを受くべき者なればなり」(コリント後書五章一〇節)とあり、パウロ文書のほかにも「彼らおのおのその行いにしたがいて審判を受けたり」(ヨハネ黙示録二〇章十三節)などの語がある。またイエス自身のヘえとしても、ヨハネ傳には「善事をなしし者は生(いのち)を得るによみがえり、惡事をなしし者は審判を得るによみがえるべし」(ヨハネ傳五章二九節)とあり、かつ最後の審判を描くや、かならず行いによる生と死とを説くのである。マタイ傳第七章二一節以下を見よ。また第二五章十四節以下の比喩、および三一節以下の審判の光景を見よ、このことはきわめて明瞭ではないか。行いによる審判が聖書的原理の一なることは一毫の疑念をはさむ餘地もなく確實である。
 
 次ぎに注意すべきは、ロマ書第二章前半が、ユダヤ人の濛をひらくをもつて處記の目的とせる一事ある。ユダヤ人といえば、~を信じおるをもつてたのみとせる民である。しかしその信仰は眞の信仰でない。彼らは信仰ありと誤想しまたは誇稱して、罪惡の底なき沼におぼれてゐるのである。かかる人に向つてその罪をさとらしむるには、「行いによる審判」の原理を説くをもつて當然の順序とする。彼らもしまず信仰による義を説かれんか、ますますその抱ける誤れる信仰に滿足して、いやが上にも罪のふかみにおちゐるであろう。行いによる審判は、僞りの信仰にたのめる人に向つては、ことに強く説かれねばならぬのである。まことにそうである。
 
 すなわち行いは信仰の試金石である。信仰の眞僞を知るには行いをもつてするほかはない。樹はその果をもつて知らるるのである。眞の信仰はかならず善き行いを生み、僞りの信仰はこれに反す。然り、人は信仰によつて救われる。しかし僞りの信仰によつては救われない。眞の信仰によらでは救われない。そして眞の信仰はかならず行いをともなう。この意味において、人は行いによつて救わると言い得る。審判は行いによつて加えられるのである。「それキリスト・イエスにありては、割禮を安くるも受けざるも益なく、ただ愛によりてはたらくところの信仰のみ益あり」とパウロはガラテヤ書において言うた(五章六節)。また言うた、「それキリスト・イエスにおいては、割禮を受くるも受けざるも益なく、ただ新たに作られし者のみ益あり」と(六章十五節)。愛によつてはたらくところの信仰 ── すなわち善行としてあらわるるところの信仰 ── これが眞の信仰である。この意味において、人は善行によらずしては救われないのである。すなわち不義につく生活を去りて眞理につく新生活に入り、その新たに作られし結果として、當然善果を結ぶこと ── このことがあつて人はついに救われるのである。信仰が善き行いを産むに至らぬうちはむなしき信仰である。偏りの信仰でなくば、死せるまたは眠れる信仰である。眞の信仰は眞の行いをともない、眞の行いは眞の信仰にともなう。畢竟これ同一事象の表と裏である。ゆえに人は信仰によりて救わる、また人は行いによりて救わる。ともにこれ眞理である。何となれば、要するにこれ同一の原理の異なれる表現たるにすぎぬからである。
 
 右の意味において、人はその行いをもつて審かるるのである。例を擧げてこれを説こう。人をゆるすは至美にしてまた至難なることである。さりながら、人をゆるし得ざる者が果して~の赦免を贏(か)ち得るであろうか。人をゆるし得るに至らずしては、まだ眞に救いに浴した者とは言い得ない。厳密なる意味においては、人をゆるし得ざる者はキリスト信者ではない。「~は人の行いにしたがいて、各人にその報いをなす」ところの~であれば、人をゆるし得ざる者は、おそらくは榮光の中に攝取せられないであろう。しかし憂うるを要せず、我らに眞の信仰與えらるるときは、人をゆるすにおいて難くないのである。キリストに義とせられて、彼の靈が我に宿るに至れば、我は人をゆるし得るに至る。自己一人の努力抑制をもつては到底人をゆるし得ないものが、このキリストの靈、心に充つるときは、おのずからにして人をゆるし得るのである。問題は、彼の靈が我に宿るか如何にある。彼の靈が我に宿るときは、我の難しとすることを我にもあらで行い得るのである。これ汝がこれを行うにあらず、彼が我にありて行うのである。されば彼はヘえて言うた、「われは葡萄の樹、汝らはその枝なり。人もしわれにおり、われまた彼におらば、多くの實を結ぶべし。そはもし汝らわれをはなるるときは何事をもなし能わざればなり」と(ヨハネ傳一五章五節)。また同一のことを、使徒パウロはその實驗として言うた、「われはわれに力を與うるキリストによりて、すべてのことをなし得るなり」と。パウロのキリストはまた我らのキリストである。我ら眞の信仰を抱き、眞に彼を我が心に迎えまつりて、彼にありてもろもろの善をなし得るに至らねばならぬ。我らひとえに彼を仰ぎ見て、彼の靈を眞正面よりゆたかに受くる者とならねばならぬ。~はかならずこの願いを充たしたもうのである。
 
 

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