今月の一言(2024年)

■2024年3月 『教会役員って、何ですか?』

 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。(マルコによる福音書 1章30~31節)

 3月17日に定期総会があります。この席で役員選挙が行われ、10人の役員が選出されます。そこで「教会役員」について説明したいと思います。
 聖書では「ディアコニア」という言葉を使っています。「奉仕」「仕える」という意味です。教会の中でこの役割に選ばれた人を「ディアコノス」といいます。聖書では「執事」と訳しています。これが今日の役員に相当する人です。役員は「教会で奉仕をする人」のことです。問われるのは奉仕の内容でしょう。
 第1に求められるのは、礼拝を整えることです。言葉をかえれば礼拝の充実に努める人。1週間の暮らしの中で礼拝のために祈ります。礼拝堂にゴミが落ちていたら拾う。新来会者がいたら隣の席に座る。礼拝が命の喜び。礼拝に信仰の軸を持っていることが大事です。
 第2に求められるのは、教会の運営全般に関わることです。行事の立案、準備、調整、当日、すべてに関わります。財務の計画を立て実務を執行します。業者に費用を振り込み、銀行へ行ってお金を預け、教会員に対しては献金のお願いをする。その他もろもろです。
 そして3番目は、他者の心に配慮することです。いつもとは違う様子に気づいて声をかけます。心に寄り添うことはしても、他者の事情に介入することはしない。そして秘密は守る。これだけのわきまえが求められます。以上が、ディアコニアの主な内容です。

 「あぁ、大変だ〜」と思う方も大勢いると思います。大変なのです。なので役員は1人では務まりません。牧師と役員たちが協力して、皆で奉仕を担っていきます。そこには、教会全体の理解と協力、祈りが必要なのです。
 そして重要なことがあります。役員は、能力が高いからなるのではありません。キリストに引き起こされた人がなります。主に手を取られて引き起こして頂いたから、この務めに就くことができるのです。ペトロの姑は高熱でした。危なかったのです。主に救われたので、彼女は一同に仕える者になったのです。
  
 主のお召出しと教会の信任を受けて選出されます。悩むところではありません。応えていくところです。主イエスの助けとお導きは必ずはあります。共に前進していきましょう。


■2024年2月 『主の教会を造ろう』

 神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(コリントの信徒への手紙一 12章24~26節)

 1月の役員会で予算総会の準備をしました。この席で「責任役員選挙内規」3-①の変更を検討し、次回の総会に上程することにしました。変更の内容は次のとおりです。
 〈現行〉役員選挙内規3-① 
 「役員定数は10名で、その任期は2年間、選出された年の4月1日から始まり2年後の3月31日をもって任期満了となる。再選を妨げないが、連続2期(4年間)を超える重任は認めない。
 現行内規のうち下線部分を次のように変更します。
 ○「連続する再任は認めない。」
 加えて、規則変更に伴う措置として次の事項を提案します。
 ○「規則の変更に伴う措置として24年度選出役員の任期は、当選順位のうち奇数当選者の任期を1年とし、偶数当選者の任期を2年とする。」
 これまでは、役員に選出されると実質的に4年間奉仕することになりました。4年は期間として長いと思います。規則の変更によって奉仕の期間を2年にとどめます。また毎年半数を改選することで、奉仕に支障をきたさないことを考えています。

 役員は神さまのお召出しと教会の信任によって選ばれます。プレッシャーに感じることがあるでしょう。もろもろの事情を抱えている私たちです。「無理〜。」と言いたくなることもあると思います。しかし役員になることは、神さまの起こす出来事です。応えていきましょう。
 牧師は厳しいことをお願いすることがあるかもしれません。しかし無茶なことは申しません。役員に就任して信仰がしおれるようでは意味がない。私たちの教会はトップダウンの教会ではありません。何が最善か話し合って決めます。牧師の願いは、役員一人一人が活かされていくことです。信仰生活は一人ではできません。互いに愛をもって配慮し合うときに実現します。役員が元気なとき、キリストを主とする信仰共同体は造られます。
 信仰と愛と思慮を集めて、主の教会を造っていきましょう。みんなで労苦と喜びを分かち合って、主と共に歩んでいきましょう。


■2024年1月 『出会いのクリスマス』

 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイによる福音書 2章10~11節)

 少し感動することがありました。恵泉のラ・パーチェが奉仕に来てくれた日です。二階の電子ピアノを礼拝堂に下ろしました。夕方になって「そうだ、二階に上げなくては・・・」と思いました。ところが人手がないのです。夕方になって人は帰ってしまいました。残っているのは、六十代のオジサン(私のこと)と、五十代のオジサンとオバサンでした。「次の日曜日にしようか?」とも思ったのですが、「上にあげちゃおう」ということになりました。この電子ピアノがとても重いのです。怪我をしてもいけないし、ピアノは傷つけたくないし・・・。そこで三人が力を合わせました。すると、持ち上がるのです。ピアノを台車に乗せます。エレベータへ運んで集会室に下ろす。凄く上手にできました。大げさですが、三人で力を合わせてできたことがとても嬉しかったのです。
 二人の力が一人を支え、一人の力が二人を支える。力を合わせるとはこのようなことでしょう。ピアノはゆっくりと動きました。

 東の国の学者たちが登場しています。これは、当時のユダヤ人にとってはとても挑発的な出来事です。彼らは外国人を汚れた者と考えていました。未来を予見する学者たちを忌み嫌います。ユダヤ人にとっては、最も嫌いな人たちが出てきたわけです。しかも彼らが、この世で最初にキリストを礼拝しました。ここに大きなメッセージがあります。
 御子の降誕は、人間が抱く敵意や偏見を超えさせるのです。人種、言語、地域、文化、互いの違いを超えてひとりのキリストを拝む者に変えていきます。神が人と出会ってくださるとき、人間は新しく隣人を見出すことができるのです。

 たくさんの人に助けられて生きています。私の力が誰かの役に立つなら嬉しい。人はひとりで生きるものではありません。活かし合って生きるものです。自分の事ばかりを心配していると、人の心は貧しくなります。キリストに心を合わせましょう。人と人とが繋がっていきます。この中で、自分一人では動かないピアノも動きます。神と人、人と人とが出会い、新しく結ばれるのがクリスマスです。