教会員からのメッセージ
横手教会で発行している『教会通信』から抜粋して掲載しています。



 信仰生活を振り返って 

Hさん(女性)

私は恥ずかしいことに礼拝にもあまり出席していませんし、私の信仰は細くて今にも切れそうな一本の糸で、かろうじてつながっているような弱く頼りないものです。ただ、聖書だけはできるだけ読むようにしています。神様のみことばは私の疲れた心を慰めて下さいます。礼拝に出席したときには大きな恵みに満たされますので、なるべく出席しようと思っているのですが、仕事に疲れたりするとやっぱり休んでしまうという意志の弱い情けない人間です。こんな私ですが神様が常にとらえていてくださるように、そして絶えず正しい道へと導いてくださるように、と祈っています。もし神様のみことばがなかったら私はどうなっていただろうかと想像してみたら、糸の切れた凧が勝手にどこかへ飛んで行ってしまった場面が浮かんできてぞーつとしました。
 
 神様に感謝。どうか、これからも離さないで下さいますように。



 人生の秋に

Hさん(女性)

 この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、働きたいけれど休み、しやべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架を担う。
 若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くことよりも、謙虚に人の世諸になり、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。老いの重荷は神様の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。

 おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。
 神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
 すべてをなし終えたら塩終の床に神の声を聞くだろう。「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

 この詩はヘルマン・ホイヴルズの「人生の秋に」の一篇です。年を重ねるにつれ、精神的にも肉体的にも失われていくものが実に多くなっていく事を感じる今日この頃です。そんな時、落ち込んだ時この詩にめぐり逢い慰められました。70有余年を振り返ってみますと、7才で母と死別し、戦争中に育ち自分の希望していることは何一つ出来なかったけれど、しかし、私に適した生き方を神様は備えていて下さっていました。仕事をしながらも「里親」という仕事を与へられ、子供達を育て、送る事ができました。苦難の時には「自分はバプテスマを受けたんだ」とそれを信じる事で心が明るくなり、乗り越える事が出来ました。それは信仰を持つ者の恵みであり力であり慰めであります。これからも主に委ねつつ、祈りと感謝の日々を送る事ができます事を願っています。




 聖書研究会に参加して 

Iさん(男性)

私は今、入院中です。病名は躁鬱病です。医師の判断で、礼拝と聖書研究会に出席することを許されています。今は軽い鬱状態にあります。ですから心の悩みが少しあります。でも日曜日と木曜日が来ると、私の個人的気分にかかわらず、出席できます。これは私にとって大きな恵みです。そして今、閉鎖病棟から開放病棟に移る話も出ています。主のみ言葉を聴くことはたいへん大きな恵みです。この私に許された特権を生かして、主の大きな恵みに与りたいと、必死に祈りながら過ごしております。牧師先生はじめ教会の皆様には、ずいぶんご心配をおかけしていると思いますが、もっと明るい気持ちで教会に出かけられるよう祈っています。

星野富広さんの詩画集の中に、こんな一枚があります。茎の傷ついた植物の絵に次の言葉が添えられています。

”私は傷をもっています。でも、その傷のところからあなたのやさしさがしみてくる。”

私も心に傷をもつ者として、そこから優しさがしみてくるよう祈っています。


 
 新年度を迎えて
 Sさん(男性)

この年も坦々と1日3章ずつの聖書通読を続けています。昨年の10月末に3回目を完読し、現在4回目の「ヨブ記」を読みすすめているところです。傍線を引くこともなく、書き写すといったこともいっさいせず、唯々読むだけですが、一人のキリスト者として、日々聖書に親しむ事は他にかえ難い喜びのひとつではあります。
受洗後二十余年を経たもののいまだに心許ない信仰というのが実感で、前述のとおり、聖書をまともに読み始めたのもここ数年のことです。迷いながら、疑問を抱きつつ『ただ主にすがり日ごと夜すがら‥』と、讃美歌の歌詞さながらの生活です。
年があらたまり、年度がかわっても、大それた何かができるというものでもありません。聖日礼拝を重んじ、守り続け、そのことを中心に御言葉に聞き、主につながるものとして共に祈りをあわせていきたいと願っています。
 

 『信徒の友』を読んで
 Eさん(女性)
信徒の友の最初のページ「祈り」。この祈りにいつも勇気づけられ、励まされています。
日々の生活に流され自己嫌悪になり、身動きできないような時、この祈りの中に自分を見つけることがあります。また自分と同じ悩みを持つ人を見つけることができます。かたくなで信仰の薄い私はこのように素直に自分の罪を認め赦しを乞うということが出来ずにいます。
それどころか今、自分がどのような状況にいるのかもつかめずに悩んでいることがあります。そういう時、いつもこの「祈り」が赦しを乞い、希望を持って生きる姿勢を示してくれます。いつの日か私にもこのような祈りができますように。そして共に主の道に従っていけますように。今年もまた、息子の記念日が近づいてきました。この7年間、皆様のお支えに心から感謝しております。



 「クリスマス」に想うこと
 Nさん(女性)
クリスマスとは、この日本では賑やかな楽しいお祭りのようになっていますが、そうではないことを教会学校でお話を聞いていた私は、一応知っているつもりでした。それでも毎年毎年同じようにクリスマスを迎えていました。迎えられることが感謝であることとは気づかずに。
大人になり、家庭を持つようになり、最近では、気持ちに余裕がないと目の前にあるモノ(物)もコト(事)もよく見えてはいない‥‥ということを思わされています。
余裕とは何でしょう。私なりに思うのは「神様を信じること」です。日々の暮らしで精一杯な自分、忙しいことを言い訳にしている自分。その中でもしっかり結びついていなければ、弱いもので、本質が見えてこないのではないかと思いました。そうして知っているイエス様のご誕生は、「赤ちゃん生まれておめでとう」だけではなく、その方は救い主であるという、もっと深い大きな喜びであり、感謝であることを強く感じております。

 
 信仰生活に思うこと
  Hさん(男性)
年とともに失われることの何と多いことか、その一方いろいろと思い悩むことは増えるばかりである。十数年前、長野の善光寺で「御戒壇めぐり」なるものを経験したことがある。「どんなことがあっても左手を壁から離してはいけませんよ」と言われ暗闇の中を進むのである。ところが手が壁に触れなくなるときがある。そのとき「おや、手を触れるのは右手だったかな」などと迷いが生じ慌てる。そして右へ左へとまさに「さまよえる人」となる。何か自分の信仰にも通じるものがあるような気がする。
信仰をもつということは「神がいつも共におられる」ことを信じ、苦しみをもこれを試練と感じ受け入れることと言われるが、なかなかそのような境地に達することができない。しかし迷いながらも残された日々、ひたすらにこの道を歩んでいきたいものである。
 
 
 教会学校に関わることを与えられて
  Sさん(女性)
「教会学校の手伝いをしてほしい」と、声をかけられた時、とても不安でしたが、教会学校の実状を知らされたことと、子ども達と接することができる喜びもあって、手伝いをさせてもらうことにしました。
当日の日の準備では、いつも、とまどいがあり、悩んでしまいます。それだけ、聖書に触れる時間を与えられたことを覚えますし、作業をしながら、楽しんでいる時間にもなります。当日は朝から緊張しますが、子ども遠から、励ましの言葉を多くもらいます。準備していった物について、話し方や時間の長短、子ども達の希望など、また、私が知りたいと思う事にもはっきり応答してくれることが、何よりも私を助けてくれます。そのおかげで、子ども達の思っていることを知らされるからです。子ども達の会話には、労わりが見られ、教会に繋がっている恵み、集いの中で豊かさを与えられているように思います。
教会学校をお手伝いさせていただいて、本当に多くのことを教えられましたし、喜びも与えられました。感謝です。
 

 信仰の成熟を祈り求めて

  Kさん(牧師夫人)

横手で生活するようになり3年目になりました。教会の牧師館で暮らすようになり、「これが神様の御心だったのか」と不思議な気持ちになります。振り返ると、日本基督教団古川教会の幼稚園に通いましたが、その後、社会人になり仙台YWCAの英会話グループで宣教師の先生に出会うまでは、聖書に触れることはありませんでした。1992年5月に、近くの教会に通い始め、2000年のクリスマスに洗礼を受けました。

仙台市内で自宅敷地内に“一麦学寮”を建てて学生の伝道に力を注いだ宮田光雄氏の聖書研究会で、宮田先生のおっしやつた言葉が、心に浮かびます。「誰でも、自己の救いから信仰生活に入る。それは当然なのだけれど、いつまでも自己の救いばかり追い求めていると、自己の倒錯に陥ってしまうでしょう。信仰の成熟が大切なのです。」仕事などのストレスで八方ふさがり的になっていた私には、ズシンと響いた一言でした。

常に聖書の御言葉に立ちかえり、信仰の成熟を祈り求める日々を過ごしたいと思っています。



  私の信仰
  Tさん(男性)
みことばが肉体となったとは、創世記の第六日、「『我々に似せて、人を造ろう。』…神はご自分にかたどって人を創造された」、このことだと私は信じます。新約聖書には神様の顔が書かれていると思います。
神様は「私が、代わりに死のう。」と何時でも言ってくれます。
私は、時々なら汗を流してもいいかなと思っています。また出来るだけ自分の秤縄(はかりなわ)で人の考えを計らない事を目標に生きていきたいと思います


 新年を迎えて
 Sさん(男性)

受洗前、私は高校生の修学旅行で京都の本屋で聖書を買った。定価はいくらかと思って聖書の後ろを見ても書いてなかった。そのことを後で牧師に尋ねたら、聖書は金で買えないくらい値打ちがあるものであるから書いていない、とのことだった。ひと夏かけて聖書66巻を読み終えた。あまりよくわからなかったが「伝道の書」を読んで感動した。当時、私はニヒリステック(虚無的)な状態だったから。「空の空、いっさいは空である」で始まる伝道の書は私の心をとらえた。

人は神か、さもなければ偶像を持つ、と本にあった。真の神を持たず、金が神となっている現状こそがこの日本を滅ぼすことを、人々は知らないのではないだろうか。人生の意味、なぜ自分がこの世に生まれ出たのかも知らず、ただ、食欲、性欲、名誉欲を満たすためなら、下等動物以下である。

新年を迎えて、人生の意味をまた問い続けようと、私は思う。
 

信仰生活を振り返って

Kさん(女性)

幸せなことに(今は素直そうに見えますが、かつてはそうでない時もありました)母の胎内にあった時から信仰を与えられ、受洗して半世紀近くになりました。よちよちした歩みでしたが、ここまで支えられてきたことに本当に感謝しています。余りに自然にあった信仰に甘え、一人では聖書を読んだり、祈ったりすることの少ない私にとって、礼拝と聖書研究会に連なることは、命の糧を得る大切な時となっています。でなければ、怠け者の私はとっくに信仰の道から離れてしまっていたのではないかと思います。

今、ご高齢になられた方が毎週の礼拝を守られている姿を拝見するたび、本当に力と慰めを与えられます。何も教会のためにできなくて、とおっしゃいますが、ただ礼拝に出て座っていてくださるだけで、どんなに励まされるか知れません。体は不自由になっても信仰という無限の自由と喜びをもって、私も年を重ねていきたいと願っています。



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