奨励
 
主 の ま な ざ し
                             鈴木 望長老
 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(ルカによる福音書226162
 この出来事については、ほかの3つの福音書にも書かれていますが、主が振り向いて…という語句は、ルカによる福音書にだけあることです。主が振り向いたことが事実かどうかは、私にはわかりませんが、この語句が書かれていることによって、ペテロの悲しみがより深く伝わってくるように思われます。この主のまなざしがなければ、ペトロの慟哭は、ただ自責の念と悲しみにあるだけように思われます。このまなざしについては、讃美歌2432番ではその作者は主のゆるしのまなざしと表しています。私もまったく同じ思いで、ペトロの弱さを受容された、主の愛が示されているのだと思います。だからこそ、主イエスの召天後のペトロの活動があったのだと思います。
 イギリスのバークレーという神学者の書かれた『新約聖書案内』という本のあとがきに、ある無神論者の言葉が紹介されています。その無神論者は残念ながら、世界が神なしに完全に説明がつくという結論に達した人だということです。その人は「神がひとりひとりを配慮され、関心をもたれ、愛されるという思想は、人間の思考力がこれまで達した、もっとも壮大な概念であるように見える。それゆえ、心から信じることができれば」と願っていたというのです。
 よく私たちは、キリスト教の罪ということがわからないと言われます。私はそのことを、このようにもとらえています。家族や身近な人を自殺、または事故などで失った人は罪の意識にさいなまれる、戦友の死を体験した人は、自分だけ生き残ったという呵責の念にとらわれるということを聞きます。私は、そのような意識が、家族や友人、知人といった範囲をとりはらった時に生じるのが罪だと思うのです。多くの人(究極的にはすべて)の生に責任を感じ得ない、愛し得ないということが罪だと思うのです。このことは人間の思考力ではどうしても達し得ないことで、神の赦しがあってはじめて達することで、赦しがなければ、罪意識をもった人間は生き続けることはできないでしょう。
 「いわしの頭も信心から」という、うがった諺があります。それを言う人たちから見れば、私たちはいわしの頭を信じていることになるでしょう。罪の赦しについても、勝手に罪というものを創造し、勝手に赦されたなどと、いわば自作自演に陥っているように見えるかも.しれません。しかし、他者と関係を深くとらえる社会と、そうでない社会では、どちらが人間的な社会か、どちらがより高度な社会かはいうまでもないことだと思います。
 今私たちは新しい讃美歌を与えられました。讃美歌21563番です。主イエスは多くの人と関わってきた、そしてあなたは?という呼びかけが繰り返されます。私は、この‘あなた’という呼びかけを歌う度に、ペトロに向けた主のまなざしを感じるのです。私たちの弱さを十分知りつくされた主です。どうしても立ち上がることのできない弱さ、立ち上がっても途中で引き返してしまう弱さをもつ私たちをも、主の仲間として見つめ、励ましておられる主のまなざしです。この呼びかけがないということは、主が私たちとのつながりを断たれたことになるように思われます。
 私は今、このことを強く感じています。これが先に述べた無神論者の願いに対する私の解答であり、感謝でもあります。(完)


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