秋南教会(横手会堂)礼拝説教       2021.8.29(日)

      「輝かしい恵み」  牧師:戸井田 栄

聖書箇所:エフェソ1:314

 今日、私たちの所属している日本基督教団をはじめ、キリスト教会全体が伝道に対して臆病になっていないか、そんな気がするのです。その原因の一つとして、オウム真理教や統一協会などカルト教団のために、社会全体に宗教に対する警戒感が広がって、伝道しづらくなっていることがあると思います。また、礼拝の在り方や社会の諸問題への対応の在り方など教会内部に不一致があり、大胆に伝道できないのかもしれません。そうした中で、そもそも「輝かしい恵み」である福音が、私たち自身の中にその輝きが見失われつつある、そのことも原因のひとつではないか、と思うのです。そこで今日は、福音そのものがもつ豊かさ、輝きとは何か、基本的なことですが、共に確かめ、その恵みに与りたいと願います。


それでは、今日の聖書箇所を御覧ください。3節、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」。直訳すると「ほむべきかな、神。私たちの主イエス・キリストの父」となります。これは、福音を聞き、救われた人の喜びの叫びです。続けてその理由をこう述べます。「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」。神を讃えるのは、私たちが天のあらゆる祝福で満たされているからです。「祝福で満たされている」という表現は実は、原語では「祝福で祝福されている」なのです。祝福が繰り返されているのです。この「祝福する」という言葉は、ギリシャ語で「ユー+ロゲオー」
euvloge,w「よく+言う」と言う意味で、英語で「good+say」です。ですから神が「良い」と言って下さる。神から「あなたは良い、素晴らしい」と言われる、このことが祝福されるということです。この祝福で満たされる時、私たちは「ほむべきかな、神。私たちの主イエス・キリストの父」と讃えるのです。 


では私たちが「良い、素晴らしい」とはどういうことでしょうか。そのことが4節以下に書かれています。お読みします。4節、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」。続いて5節、「イエス・キリストによって(dia)神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」。ここに私たちの祝福の内容が記されています。それは、私たちが、神の御前で聖なる者、汚れのない者、すなわち、キリストによって神の子にされる、ということです。これが祝福、「ユー+ロゲオー」の「ユー」の内容です。 


でも私たちは自分がそのような祝福に値しないものであることを知っています。それなのになぜこのような恵みに与っているのでしょうか。その理由が7節です。7節、「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」。ポイントは「この御子において」です。9回出ています。「この御子において」の「おいて」はギリシャ語で「
evn」で、英語の「in」です。「〜の中で」です。ですから、「この御子の中で」ということです。イメージとしては、イエス様にハグされ、包まれている姿を浮かべればいいと思います。イエス様にハグされ包まれながら、私たちも裁きを受け、血を流して死んだ者となった。そしてもはや責められ咎められるところのない者にされた、ということです。しかし、死んだままではない。イエス様が復活されたように、イエス様の中にある私たちも永遠の命に生きる者になった。神の子にされている、ということです。これは私たちがこのイエス様を信じてその懐に飛び込んで身を委ね、洗礼を受けた時に始まり、聖餐の度ごとにその恵みを確認するのです。こうして祝福に値しない私たちにもかかわらず、「この御子において」、その血による贖い、罪の赦しを受けたのです。Uコリント5:17節にはこうあります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」「キリストと結ばれる人」とは「evn Cristw/|In Christ」です。「キリストの中にある人」ということで、新しい創造なのです!


実は恥ずかしい話ですが、私は東神大に入るまでこの「罪の赦し」についてその積極的な側面を理解していませんでした。どういうことかと言いますと、それまで私は、罪の赦しというのは、罪を裁かれ、もはや責められるところのない者にされた、つまりマイナスをゼロにしていただいた、借金ゼロと理解していたのです。ところがそうではない。罪の赦しとは、ゼロに留まらない。マイナスからゼロを通り越して、プラス無限大の地点に立たせていただいた、死に至るまで信仰の従順を貫かれたイエス様のような神の子とされた、ということなのです。わかりやすく言い換えれば、神様は私たちを、「あなたはオール5、オール〇、いやオール花丸だ」と評価されている!ということです。東神大のある教授が用いた表現です。たとえ他人から(身近な人から)あなたは1、×だと言われても、自分が自分を1だ、×だと評価しても、神様は「あなたはオール5、オール〇、いや花丸だ」と祝福してくださるのです。キリストにあって神の子なのです。ここが今日のポイントです。ここに立つ時、逆に他人の評価や自分の評価を謙虚に聞けるようになるのはないでしょうか。


『信仰の手引き』という本が、数年前私たちの教団から出版されました。その中で「罪の赦しとは何ですか」という問いと答えがあります。素晴らしい答えです。そのままお読みしますのでお聞きください。「罪の赦しとは何ですか」。答え、「わたしの過去と現在と将来の一切の罪にもかかわらず、神はキリストの十字架の贖いのゆえに、私の罪をすべてお忘れくださり、わたしがあたかも未だかつて一度も罪を犯した事がないばかりか、キリストが神に対して示した完全な義と服従とが、あたかも私自身が行ったものであるかのように、私を義しくきよい者と見なし、そのような者として受け入れ、これから後も、御自分のものとしてお守りのうちにおいて下さる、ということです」。このように、罪の赦しとは、私が一度も罪を犯した事がないだけでなく、もっと積極的に完全な義と服従を行った者であるかのように見做してくれる、ということなのです。私をマイナスからゼロに回復してくれる。それだけでも嬉しいのですが、さらにプラスに、しかもプラス無限大の存在と見做してくれる、つまり、神の子にしてくれる、ということです。

罪の赦しをこのように理解できたのは、東神大の授業でカール・バルトの『福音と律法』を学んだお蔭です。授業後その教授の研究室を訪ね、指導を仰いだところ、その理解でいいよ、と言われ、天にも昇るような喜びを感じて帰ってきたことを思い出します。(教授の部屋に質問に言ったのはこの時1回です)実はその教授がこの『信仰の手引き』の編集者の1人だと知って、あの時の感動がよみがえってきました。さらにその後、カルヴァンの『キリスト教綱要』の授業で同じような表現を発見しました。それはこのような表現です。「キリストは、私たちを律法の遵守者として神と和解させて下さった」。(綱要第2175節)私たちが律法の遵守者だというのです。キリストの様に神を愛し、隣人を愛しているということです。パウロはこの恵みを言い表すのに、「キリストを着る」という表現を随所に使っています。特にガラテヤ3:27です。ですから、神様の目からは、ルターの言い方をすれば「小さなキリスト」のように見えるということです。神に愛されている小さな子供として生きることができるということです。


ここまで私たちに与えられている「輝かしい恵み」について確かめてきました。罪を赦され、神の子にされ、神の子として生きることができるということについてです。そして御言葉はさらに驚くべきことを告げます。私たちを神の子とするこの恵みは、なんと天地創造の前から、御心のままにキリストにおいて前もって定められていた、と告げるのです。そのことが4節、5節、あるいは9節、11節に記されています。9節ではそれを「秘められた計画」と言っています。まだ生まれてもいない、遥か昔から私たちが救いへと選ばれている、という遠大な計画なのです。

ご存知のようにこの4節、5節は、その解釈を巡って激しい論争がなされてきました。というのは、ある人たちは、この箇所を根拠に2重予定説を唱えたからです。神の救済に与る者と、滅びに至る者が予め決められているとするのです。人間の救いは、その人の功績や善行によるのではなく、ただ神の主権的な選び・一方的な恵みによると主張します。ですからこの予定説の長所は、救いに与った人を全く謙虚にし、深い感謝を湧き上がらせます。救いの確かさを強固にしてくれます。だが一方、予定説は、論理として神は滅びに到るものをも予定されるということになります。そうすると十字架の贖いが選びに予定されていた人だけのためになり、すべての人を救おうとされる神の愛と強い緊張関係を引き起こします。難しい問題ですが、今日は深入りしません。

しかしながら、私たちの選びについては、イエス様もはっきり言われました。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」。ヨハネ1516節です。確かに私たちはイエス様によって選ばれています。でもその目的は何か。決して信仰を持っていない人を選ばれていない人だと見下すためではありません。むしろ僕として仕え、執り成し祈るためです。出て行って実を結ぶため、つまり私たちが、すべての人のために仕え、すべての人を救いに招くためです。私たちは選びというアッという恵みの中にいるのです。


私たちは輝かしい恵みを与えられています。罪の赦しを受け、神の子とされたのです。でも、時としてサタンはエバを誘惑したように、「本当に神はそういわれたのですか?」と揺さぶり、み言葉に対して疑いを持たせます。キリストの愛に根差し、キリストの愛に立ちましょう。キリストの御手の中に包まれハグされていることに思いを馳せ、どれほど豊かで輝かしい恵みを受けているか思い起こしましょう。聖霊は、その恵みと選びがどれほど豊かで輝かしいものか、悟らせ、確かにしてくれます。ですから同時に私たちは絶えず聖霊の満たしを求め、3節にあるように、ほむべきかな、私たちの主イエスキリストの父なる神!と叫んで、神の栄光を讃えたいと願います。最後にみ言葉に聞き、祈りを合わせましょう。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ17