横手教会       礼拝説教1                2017.4.2(日)

     「十字架を背負って」  牧師:戸井田 栄

聖書箇所:マタイによる福音書162128


皆さん、おはようございます。皆さんから招聘を受け、こうして横手教会の牧師として礼拝を共にできますこと、心より感謝いたします。欠けの多い、至らぬ者ですが、主に喜ばれる教会形成に誠心誠意励みたいと決意しております。皆さんの祈りと支え、宜しくお願い致します。本日は家内と娘が礼拝に出ています。宜しくお願い致します。


さて、今日は受難節第5聖日です。マタイ16章から「十字架を背負って」と言う題で御言葉を取り次ぎます。今イエス様は、弟子たちとガリラヤより北の方に位置するフィリポ・カイザリヤを旅しています。群衆から離れた静かな町、しかしながら全く異教的なこの地で、主は弟子たちに質問します。「あなた方はわたしを何者だと言うのか」その問いに弟子たちを代表する形で、ペトロが答えます。1616節、「あなたはメシア、生ける神の子です」。ペトロの答えは百点満点でした。主は大変喜ばれて、17節、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と絶賛されます。この信仰告白を受けて、「時が来た!」と察したイエス様は、本当のメシアがどのような道を辿ることになるのか、弟子たちに打ち明けます。21節によれば、主はエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから殺され、しかし三日目に復活する。しかも「必ず」。このように主はご自分の受難が神の御計画であることを明らかにされます。ところがこの後ペトロにまことにかわいそうなことが起こるのです。この受難の予告を聞いたペトロは、メシアが殺される、という言葉に強く反応します。3日目に復活する、という言葉は理解できないので聞こえないのでしょう。それで「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめ、忠告します。「イエスをわきへお連れして」とありますから、イエス様の肩に手を回し、ひそひそ話をしたのでしょう。その時、「サタン、引き下がれ」と叱られるのです。聖書の中でいろんなことを主に言われた人物が出て来ますが、サタン、悪魔と言われたのはこの時のペトロただひとりです。神の代弁者として百点満点と激賞されたと思ったら、零点、いや零点以下のサタンとして厳しく叱られるのです。上げられたり下げられたりです。


でも、ここで「サタン、引き下がれ」と言われたイエス様の真意を考えてみます。この言葉は直訳すると、「引き下がれ、私の後ろに、サタンよ」
×2となります。主がペトロたちを弟子として招かれた時、「私について来なさい」と言われましたが、これも直訳すると「従いなさい、私の後ろに」となります。ですから「サタン、引き下がれ」という大変厳しい叱責の言葉には、実は主の招きがあるのです。ペトロを「お前はサタンだ」と断罪しているのではなく、むしろペトロが本来いるべき場所に立ち返らせようとされたのです。弟子が本来いるべき場所、それは「主の後ろ」です。弟子とは、信仰者とは「主の後ろ」につき従っていく者です。ところが、ペトロは主の前に立ちはだかっている。だから、主は「あなたは私の邪魔をする者、サタンと同じだ。私の前でなく、私の後ろについて従う者となれ」と言われたのです。


そして、そのことは24節に繋がります。「私について来たい者は」という所です。ここも直訳すれば「私の後ろについて来たいと望む者は」となります。イエス様の弟子とは、信仰者とは、主の後ろに従っていく者のことです。そして弟子の歩むべき道が示されます。それは「自分を捨て、自分の十字架を背負って、主に従う」ことです。このように主は弟子たちにも自分の十字架を背負う覚悟を求められます。私は、ここを読むと長崎の日本26聖人を思い出します。豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者です。彼らは文字通り自分の十字架を背負って主に従いました。この福音書を読んでいた人々も、迫害を身近に感じていたでしょうから、文字通り殉教の覚悟をこの御言葉から固めていたことと思います。


私たちにも主は「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と勧めておられます。では、現代に生きる私たちにとって「私たちが背負う十字架」とは何でしょうか。このことについて考えたいと思います。まず第一に、イエス様を信じ、主の後ろに従っていく時に起こってくる苦しみです。色々な妨害やこの世の常識、無理解からくる苦しみです。これらの苦しみを私たちは背負っていくのです。具体的な話をしたいと思います。信仰を持ち洗礼を受ける時、ご家族の皆さんが喜び祝福してくれる家庭は本当に幸いです。でも、逆の場合もしばしば起こります。信仰に入った時、親にずいぶん厳しく当たられ、悲しい思いをした、そのような方もおられると思います。

私事で恐縮ですが、私もまったく同じで、高校2年の時、親に洗礼を受けたい、受ける、と告げたら、父親から「子供を一人亡くした」と言われました。(私は3人兄弟の長男です)「俺は親不孝者になったのか」と本当に悲しい思いをしました。(父はその後教会で葬儀をして天に召されました!)でも、洗礼を受け、素晴らしい世界に目が開かれ、あまりに嬉しく「よし、俺は伝道者になる!」と献身の決意をし、友人たちに証ししました。でもここから私は自分の十字架を背負うことになりました。それは友人たちからの手痛い批判から始まりました。「戸井田、お前は神が人間を造ったというけれど、そうでなくて人間はアメーバみたいなものが長い時間をかけて進化して存在するようになったのでないか」「そう学んだじゃないか」私はそれまで教科書に書かれていることを疑うことはなかったので、なんと「自分もそう思う」と答えてしまいました。神による創造が信じられなくなりました。心には救いの喜びがあるのに、頭は分裂状態です。結局献身は延期して、私は進化論や唯物論、あるいは無神論や共産主義、そして自由主義神学に悩み、およそ25年近くの歳月を費やしました。この世の常識、この世の思想との対決、これが私の十字架でした。

でも、主は御言葉をもって私を解放してくれました。進化論の本質が物質の偶像化にあるということです。物質が長い時間をかけて自己組織化するというのですから、これは物質に栄光を帰することです。神に帰すべき栄光を物質に帰しているのです。つまり、進化論の本質は物質の偶像化にあるということです。この確信を得て、私は献身の道に踏み出すことができました。ですから、私にとって教会の牧会は第一の使命、そして進化論の虚構を暴き、創造の確かさを伝えることが第二の使命となりました。それゆえこの2つの使命を私の十字架として担ってきました。これからも担っていくつもりです。皆さんにもお一人お一人に信仰によって生ずる苦しみ、十字架があろうかと思います。共に担い続けていきましょう。

一方、信仰によって生じる苦しみ以外の苦しみもあります。特に人間関係における苦しみです。人の罪によって傷つけられ、苦しみを受ける。あるいは、逆に自分の罪によって人を傷つけ、苦しめてしまう。このような苦しみは、主に従うことによって生じるわけではありません。でも、主の十字架の苦しみと死が、罪のゆえに苦しむ私たちの赦しのためであった、そのことを思う時、私たちは人の罪を赦すこと、あるいは自分の罪の赦しを願うこと、それが主に従っていく者の負うべき十字架になるのではないでしょうか。


さらにそれだけでなく、人間の罪とは直接関わりのない苦しみもあります。老いや病気、いろいろな障害があります。なぜ自分にこのような苦しみが降りかかるのか、説明のできない苦しみです。信仰とはかかわりなく降りかかってくる苦しみです。でも、神は私たちの命を惜しむあまり、御子の命を十字架に渡したのです。ここに、私たちの命は神様が本当に大切なものとして導き、支えていて下さるものだ、ということを信じることができます。神が愛して止まない私たちの命。それだから私たちは自分の命に係わる苦しみを忍耐して生きるのです。この時、この苦しみは主に従う者が背負う十字架と言えるでしょう。


イエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と招いておられます。「ご一緒なら死んでもいい」と勇ましい返事をしたペトロでしたが、皆さんもご存知のように、大祭司の中庭で3度も主を知らない、主の弟子ではないと誓って否定しました。その時、ルカの福音書によると、主は振り向いてペトロを見つめられた、と記されています。主のまなざしに気づいたペトロは外に出て激しく泣きます。背負うべき十字架を投げ捨てたペトロ。しかし、ペトロのために祈って下さっていたのです。ペトロの信仰が無くならないように。ペトロが立ち直ったら兄弟たちを励ますように。主のまなざしにペトロは主が祈ってくれたこの祈りを感じ取ったことだろうと思います。


私たちも「自分の十字架を背負い従います!」と告白しつつも、ペトロと同じように、日常生活においてイエス様を知らないふりをすることがあるのではないでしょうか。世の中を生きる時、その方が都合がいいからです。時には知らないふりどころか、本当に自分が主に従う者であることを忘れてしまっていることがあります。そんな時でも、振り向いてペトロを見つめられた主は、私たちをも見つめられて「私はあなたを知っているよ。いつも忘れないよ」と愛のまなざしを送り続けておられます。だからペトロは立ち直り、改めて十字架を背負い、主に従ったのです。私たちも主の愛のまなざしに励まされて、もう一度担うべき自分の十字架を背負って歩みたいものです。


まとめます。私たちには自分が背負うべき十字架があります。それは信仰によって生じる苦しみであったり、罪のゆえに生じる人間関係の苦しみであったり、あるいは老いや病、障害など命に係わる苦しみがあります。すべての苦しみは主に従う者の背負う十字架です。時として挫折する私たちですが、いつも主の愛のまなざしが注がれていることを信じて受け止め、再び立ち直り、主の後ろについていく者になりたいと思います。最後に御言葉を聞き、祈りを合わせましょう。

「それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』」(マタイ16:24-25