秋田地区教師会    開会説教    2017.11.21(火)   

 「野の花を見よ」     戸井田栄

聖書:マタイ6:28-30          讃美歌21  361,226


皆さん、おはようございます。先日、家内の買い物に付き合い、横手にあるイオンをぶらついていたら、目を奪われました。それが今、皆さんに見ていただいているカリフラワーです。ブロッコリーともいいますね。ロマネスコという種類で、雄物川産です。数学的に見て綺麗なフラクタル図形を描いています。フラクタルというのは、一見複雑に見えるデザインなのに、実は簡単な図形を何度も繰り返して出来ている図形のことをいいます。このロマネスコ、あまりに感動して、今日の日のために冷蔵庫に保管しておきました。帰ってから食べます。


6月の教師会の時も証させていただいたように、私は高校2年生のとき初めて教会に行き、素晴らしい救いにあずかり、クリスチャンになりました。嬉しくてすぐにでも牧師になりたいとまで思いましたが、友達と議論する中で、進化論にぶつかり、神が世界や人間を創造されたということについて疑いが生じました。それで、この問題が解決されるまで・・・と牧師の道は先延ばしにして、高校の教師をしながらこの問題と取り組んできました。幸い約20数年後、職業としている数学を通して、「ああ、この世界は偶然ではなく、設計されたものだ。確かに偉大な創造者、偉大な数学者がいらっしゃる!」そう確信できるようになりました。ここに主の確かな招きがあると信じて、56歳の時早期退職して伝道者の道に踏み出したわけです。今日はその確信に至った一端を、お話ししたいと思います。


ある時、私は教科書の指導書にガリレオ・ガリレイの次の言葉が載っていることに驚きました。「宇宙は、数学という言葉で書かれた書物である」宇宙は書かれた書物、しかも数学という言葉で書かれている。この世界が偶然か?設計か?を考えるとき、もし自然が数学の言葉で書かれているならば、それは設計されたものといえるのではないか!そのような思いが湧き上がってきまして、夢中になって調べてみました。今日はその2つについてお話しします。


はじめにアンモナイトのデザインを調べました。(アンモナイトの実物を提示)この螺旋はどんな式で表されるのだろうか?パソコンに対数螺旋というこのような方程式をいれて描いてみました。するとほぼぴったりの螺旋ができました。それではということで、かたつむりやサザエなどを調べると、この方程式の変数k,aをちょっと変えるだけでほぼ一致することがわかりました。驚きました。


2つ目は植物のデザインです。ここに一本の幹に2本の枝があります。いまこの2本の枝を幹に見立ててこれらの上に、同じ角度・比率で2本の枝を付けてやります。こんな感じです。この操作を2回・3回というふうに11回やると、こんなデザインができます。御覧のようにこれはケヤキです。簡単なパターンを繰り返し操作すると、このようなデザインができるんですね。


もうひとつのデザインを紹介します。一本の幹に3本の枝があります。いまこの3本の枝を幹に見立ててこれらの上に、同じ角度・比率で3本の枝を付けてやります。こんな感じです。この操作を2回・3回というふうに8回やると、こんなデザインができます。これはシダです。このような単純なパターンの繰り返しによってできる図形を、フラクタル図形といいます。先ほどのロマネスコもフラクタルの実物です。


このように自然は確かに数学によって表されると確信できます。偶然か?設計か?日本では進化論が浸透していて、このようなデザインも、長い時間と偶然の連続による結果だといいます。自然が偶然に、自分のなかからこんな素晴らしい数学的プログラムを生み出し、自分自身を作りだしたというのです。自然の自己組織化と言います。でも、どうでしょう。自然は基本的に物質です。アンモナイトもけやきもシダもロマネスコも物質です。アンモナイトが対数螺旋の方程式を知っているのでしょうか。ケヤキやシダやロマネスコはフラクタルというシステムを知っているのでしょうか。物質が意志を持っているとは思えません。また、物質が物理的力や化学的力のみで対数らせんやフラクタルを身に着けたのでは?可能性ゼロではないかもしれませんが、かなりの強い信仰が必要だと思います。むしろ、物質の外に、自然に先立って意志があって、その意志が物質を、あるいは自然をデザインした。対数らせんやフラクタルを知っている存在が物質に働きかけてデザインした。そう考える方が合理的でないでしょうか。偉大な数学者・デザイナーがいらっしゃって、この宇宙・自然を設計され、造られた、そう考えるほうが合理的ではないか?考えるごとに、ますます私の中で「絶対そうだ!!」という確信が深まっていきました。


今日初めに読んだ聖書箇所は、とても有名なところで、「野の花を見よ!何を着ようかと思い悩むな!」と教えられたイエス様のみ言葉です。これまで皆さんも聞かれたことのある御言葉だと思いますが、ある時、ピン!と閃きました。それは、28節の「野の花は働きもせず、紡ぎもしない」というイエス様の言葉です。ここには、野の花は自らこうありたいと思って自らをデザインしたのではない、つまり自己組織化ではないということです。では何か?イエス様はこう言われました。30節「神はこのように装って下さる」つまり神様が自分のイメージした通りデザインされた、ということです。野の花のデザインは花自身によるアイデアではない、神様のアイデアであり神様の知恵と力によるということです。このみ言葉を思いめぐらしていたら、ふっとこんな思いが湧いてきました。物質が自己組織化して人間まで進化したというのは、物質を神とすることではないか?そんな思いが湧いてきたのです。そして今、私は進化論というのは物質の偶像崇拝であると考えています。


先日、興味深い記事を見つけました。アントニー・フルーという哲学者についての記事です。彼は“世界で最も有名な無神論者”といわれた哲学者だそうです。その彼が2004年にID理論を受け入れ、神の存在を信じるようになったというのです。81歳の時です。フルーは、その理由をこう述べます。「DNAに関する研究の目覚しい発達によって、生命の遺伝情報が記録されているDNAの途方もなく複雑な構造を、DNA自体が発達させてきたとはとても信じられなくなったからである。」つまり、DNA自体がDNA自身を進化させる、つまり自己組織化は考えられないということです。彼は「進化論的倫理」、「ダーウィン主義者の進化論」という本をも書いた唯物論的進化論者です。その彼が無神論から転向したことを公表したのです。それは、これまで自分の主張に影響された人たちに対して責任を感じたからだというのです。そして彼は、「自分はこれまでの人生において、プラトンが伝えるソクラテスの言葉、『証拠の導く所へ、どこへでも行け』に従ってきた」と言って、転向は学者として誠実な選択であったとしています。私は勇気あることだと思います。


また、興味深い本を見つけました。『「大発見」の思考法』という本です。Ips細胞でノーベル賞をもらった山中伸弥先生と同じく物理学賞をもらった益川敏英先生の対談を書いたものです。このなかで山中先生はこう述べています。「なぜか日本人は、人間はみんなサルから進化したと信じていますが、証明されていない。」それに対して益川先生が「「ヒトはサルから進化したのか、それとも神が作ったのか」と聞かれれば、日本人はなんとなく「サルから進化した」というほうを信じますが、それは何の根拠もないわけです。」と応じます。そして、山中先生が「そのうち、ダーウィンの「進化論」は間違いだったということになるかもしれません。」とご自身の考えを述べているのです。生命科学の最先端で活躍している科学者の発言だけに、ネット上では戸惑う人たち、批判する人もいます。それだけインパクトのある発言だということです。



私たちは神様の最高傑作であり、野の花よりもはるかに価値ある存在です。創造の神は熱情の神です。だから神様が御子イエス様をこの世に送ってくださったのです。造られた喜び、救われた喜びを確かにして、お互い牧会・伝道に励みたく思います。