◆説 教
「 聖 餐 と は 」

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。(コリントの信徒への手紙一11:23〜28)

横手教会では聖餐について、2008年2月10日、17日、24日の聖日礼拝にて3回に渡り、特にコリントの信徒への手紙一11:17〜34の御言葉を与えられました。

ここで使徒パウロは、コリントの教会の信徒に対して、主の晩餐について指示を出し、また主の晩餐の制定について、あるいは主の晩餐への与り方を記しました。コリントの教会では当初、愛餐と聖餐がはっきりと区別されていなかったのです。すなわち、聖餐に与るにあたって、その心構えがしっかりしていなかったのです。愛餐のように聖餐に与っていたのです。コリントの信徒は夕食をいただく際、それぞれが夕食を教会に持ち寄っていました。信徒同士で分かち合って、主にある兄弟姉妹が皆で仲良く愛餐の席について夕食をいただいていれば何の問題もなかったのです。そしてそのただ中で行われていた聖餐も、信仰をもって、信徒の一同が聖別されたパンを食し、聖別されたぶどう酒を飲んで、真にキリストを覚えることができていれば恵みだったのです。でも、コリントの教会はそうではなかったのです。信徒には経済的に裕福な者もいれば貧しい者もいます。また愛餐においては主にある兄弟姉妹が互いに分かち合うことなく、まだ皆が集まっていないのに、自分が持ち寄った夕食を早々と食べてお腹がいっぱいになっている者がいました。皆が夕食の席に揃う前に、既に自分の食事を終わらせてしまい、貧しい者に分け与えることもなく、ぶどう酒を飲んで酔っぱらっている者もいました。それで信徒の中には、教会にやってきたら既に愛餐の席に着くことができず、食べ物がなくなっていて、腹ペコのままの貧しい信徒もいたのです。

 またそんな調子で行われていた愛餐のただ中で聖餐が執り行われていて、信徒の皆が揃うことなく聖餐も終わり、行き着くところ、腹ペコの信徒や聖餐に与れない信徒がおり、コリントの信徒同士で仲間割れが起こったのです。そこでパウロは、皆で仲良く愛餐を行えなかったり、真に信仰をもって聖餐を行うことができないでいるコリントの教会の信徒に対し、指示を出しました。

 その指示というのは、正しい聖餐のあり方について、また愛餐の取り扱いについてです。第一に、教会でなぜ聖餐を行わなければならないのかについて、パウロは記しました。それはパウロの自分の思いからではなく、パウロ自身が主イエスからエルサレムの教会によって受けたものでした。エルサレムの教会では聖餐が行われていました。それはもともとはといえば、主イエスご自身が最後の晩餐にて示されたことでした。それは福音書(マタイ26章、マルコ14章、ルカ22章)に記されています。聖餐は、主イエスに由来するのです。主イエスは「わたしの記念として」聖餐を行うように弟子たちに言われました。それは十字架の上の主イエスを思い起こし、主が今も生きて働いておられることを確証することができるために、ということです。すなわち、主イエスがご自分の弟子たちの罪のために死なれた出来事を弟子たちが思い起こし、弟子たちがいつも主にある救いの確かさにとらえられて永遠の命を約束されていることを、主イエスは聖餐によって弟子たちに伝えておられるのです。

 パウロは、主イエスによってもたらされた新しい契約の民たちに、主イエスの再臨の時まで、聖餐を度々行うべきことを記しました。聖餐はパンとぶどう酒によって主イエスの十字架を指し示す恵みだからです。したがって、聖餐に与るにあたって、与る者に対し、もちろん信仰をもって信仰的に与るようにと、パウロはコリントの教会の信徒にお勧めしました。聖餐に与るためのふさわしさとは「信仰をもって」ということです。(ハイデルベルク信仰問答の問76の答え)

パウロは、主イエスに対する畏れをもって聖餐に臨むことを求めています。愛餐のように聖餐に臨んでパンを食べぶどう酒を飲むようであってはならないのです。聖別によって、パンが主イエスの裂かれた体そのものになったり、ぶどう酒が主イエスの流された血潮そのものになったりするわけではありません。でも聖餐は聖なる食事であり、聖霊の注ぎにより、正しく聖別されたパンとぶどう酒に信仰をもって与る者に、御子が十字架の上でご自身の弟子たちの罪のために裂かれた肉、流された罪なき貴い血潮を思い起こさせ、罪の赦しの出来事を豊かに思い起こさせてくださるのです。だから、そのような聖餐に対し畏れを抱かずに臨むなら、主イエスの体と血に対して罪を犯すことになってしまいます。

それは聖餐に与る際、信徒に対して信仰的な態度を求めているだけにとどまりません。未受洗者は、口でイエスは主であると公に言い表す信仰を与えられていないため、どうしても「信仰をもって」聖餐に臨むことができないため、聖餐に与ることができないことになります。それが御言葉によって神が伝えておられることなのです。パウロはコリントの教会の信徒を愛し、少しずつ信徒の聖餐に対する理解を深めていきました。こうして、パウロは律法主義者としてではなく福音宣教者として、コリントの教会を整えていったのです。

パウロは、愛餐も聖餐も、それらの食事をする時には皆で揃ってからにするよう、互いに待ち合わせるようお勧めしました。また比較的に裕福な信徒が教会に愛餐の食べものや聖餐のためのパンとぶどう酒を持ち寄っても、皆が揃うまで待てないほどにお腹がすいているなど、そのような気持ちで聖餐に与るくらいなら、愛餐の食事である夕食は自分の家で済ませて、それから聖餐のためのパンとぶどう酒を携えつつ信仰を整えて教会に向かい、みんなで揃って、かつ信仰をもって、聖餐に預かるようお勧めしました。

ここからわかることは、聖餐は教会に絶対に不可欠なものである一方、愛餐は教会に絶対不可欠なものではないということです。宗教改革者は、まことの教会のしるしとして「御言葉の説教」とともに「聖礼典(洗礼と聖餐)の正しい執行」を挙げています。愛餐は皆で分かち合っていただけるなら教会に持ち込んでもよいけれども、愛餐によって教会の中に仲間割れが起こるようなら、それはむしろ教会に持ち込まない方がよいということです。

 わずかの字数で聖餐について漏れなく記すことはなかなか難しいことです。今回、横手教会では3回に渡って聖餐について御言葉を分かち合いました。再確認したことや、新たに知らされたことがあったかと思います。さらに機会を得て、皆で聖餐理解を深めていければ幸いです。神の言葉は、生来の人間の知恵では決して理解できないものです。御言葉をくださる主イエスを信頼し、その御言葉に委ねて「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と主の祈りに導かれていきたいと思います。


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