説教 「先立って祈る主イエス」  

2004年7月11日 聖日礼拝説教(全文)
マルコ1.29〜39、詩編121

関川 泰寛牧師(東京神学大学教授


 マルコによる福音書1章29節以下には、主イエス・キリストのガリラヤ伝道の様子が描かれています。32節に、
「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た」とあります。おそらく、村人たちは、日が暮れて暗くなる頃に、人目を気にしながら、なんとかして家族の病を癒して欲しい、悪霊を追放してもらいたい、そういう願いをもって、主イエスのところにやってきたのでしょう。「町中の人が、戸口に集った」と福音書は記します。

 主イエスと弟子たちの働きは、夜遅くまで続きました。
「いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」と34節は記します。最後の一人が家路につくと、主イエスも弟子達も疲れて、すぐに寝床についたに違いありません。はげしい疲労ゆえに、固い寝床も苦にならなかったでしょう。ぐっすりと眠るのです。

 ところが、翌朝、弟子達が目覚めると主イエスの寝床が空っぽなのです。「あれ、先生、どこへ行ってしまったのだろう」。弟子達は、心配してあたりを捜し歩きます。すると、主イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、人里離れた所で一人祈っておられました。シモンとその仲間は、イエスの後を追い見つけると、「みんなが捜しています」と言います。「先生、人騒がせな」という風に非難めいた口調で咎めたのかもしれません。

 すると、主イエスは、このシモンの言葉には直接答えず、
「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と語りました。ガリラヤ伝道のおそらく典型的な一日がこうしてまた始まります。来る日も来る日も、主イエスと弟子たちは、病人や悪霊につかれた人々を癒し続けました。

 わたしは、この物語が大変すきなのです。なぜなら、わたしたちの生活のはじめに、わたしたちに先だって、主イエス・キリストが祈っていてくださる恵みを知ることができるからです。牧師としての生活、とりわけ日曜日の朝は、いつもせわしないものです。土曜日の夜まで、週報の印刷、説教の準備、各会の準備に追われます。夜遅く床に就くことも珍しくありません。忙しさに文字通り心乱し、われを忘れることもしばしばです。しかし、主イエス・キリストがわたしたちの目覚めるよほど前に、起きて祈っていてくださるというマルコ福音書の記述は、わたしたちに何と深い安心と慰めを与えてくれることでしょう。

 旧約聖書詩編121篇4節にも、
「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」とあります。たとえ、わたしたちが眠っても、神ご自身は、眠ることなくわたしたちを見守っていてくださるのです。

 ジョン・ベイリというスコットランドの神学者がおりました。かれの『朝の祈り、夕の祈り』という祈りの書物は、世界中のベストセラーだそうです。ベイリは、スコットランド教会の牧師であり神学者でありましたが、同時に第二次世界大戦後のイギリスの知識人たちの指導的役割を果たした人物です。イギリスの政治にも影響を与えたと言われます。一昨年の夏、改革長老教会協議会の招きで来日したスコットランドの神学者、ディヴィッド・ファーガソンによれば、「ベイリの著作の各ページの余白部分には『カーキ色の軍服を着た人々』が現れている」そうです。どういうことかというと、ベイリは二つの大戦の間を生きて、親しい多くの友人を戦場で失いました。ベイリの脳裏には、自分は戦争で生き残り、今教会に仕え、神学を教えている幸いと同時にある種の負い目がありました。また戦争で死んでいった同世代の多くの人々の現実をかれは忘れることができませんでした。互いに理解し愛し合うよりは、殺し合う人間たちの現実です。ベイリは、そのような人間の現実に直面するところから、キリスト教信仰を深めていきました。かれの書物の各ページの余白にカーキ色の軍服を着た兵士が立っているとはそういうことです。
 『朝の祈り、夕の祈り』の1節をご紹介しましょう。

「神よ、わたしは懺悔いたします。
 わたしの心が、けがれた、禁じられた道にさまよい出ることを
 わたしのつとめが明白であるのに、自らあざむくことを
 ほんとうの動機をかくすことによって、自分を実際よりよく見せようとすることを。
 正直さを、ただ策略として用いることを
 友人に対する愛情も、ただ自分を求める美化されたかたちにすぎないことを
 敵をゆるすことが臆病にすぎないことを
 わたしがよい行いをするときは、人に見られるためであり、悪い行いをしないのは、見つけられるのを恐れるからであることを」(17日夜、74頁)


 キリスト教の信仰をもつとは、わたしたちの罪を赦し愛してくださる方の存在を信じることに他なりません。つまり、良い行い、やさしさ、正直さ、愛、ゆるしという人間の行為の背後にも、いつも神に懺悔しなければならない動機が隠されていることを、わたしたちが神に向かいあうことによって知るのです。ベイリは、戦場で、敵を赦したというのも実は臆病にすぎないという人間の罪の深さを読み取りました。ベイリの祈りの書物の背後にも、カーキ色の軍服を着た人々が存在するのです。

 人間の罪とは、自分自身でいかに振りほどこうとしても、振り落とすことができないものです。それほど、わたしたちの存在に食い込んでいます。たとえ生涯かけて振るい落とすことを試みたとしも、そうすることができないのが人間の罪です。負い目や罪責感が、生涯わたしたちの心を支配し、わたしたちは自由になれない苦しみを味わいます。

 聖書は、その罪の赦しと罪からの解放と救いが、主イエス・キリストによって起こったと告げます。主の十字架の出来事こそ、神の御子がわたしたちに代わって、神の怒りを身に受け、本来なら滅びに定められているわたしたちの罪を赦してくださった出来事であると証言します。この主イエスとの出会いこそ、わたしたちにとってかけがえのない経験なのです。

 2年ほど前のNHKテレビで新春の座談会で瀬戸内寂聴さんと日野原重明さんの対談が放映されておりました。ちょうど日野原重明さんは、その年の4月にわたしたちの教会に来て、講演をしていただくことになっていたので、わたしも身を乗り出して対談を聞いていました。

 日野原さんの話の中には、示唆に富むいくつかの事柄が含まれていました。その一つは、命の大切さを教えるのに、殺すなというDon’t ということからさらに一歩進んで、Let’s do が大切だという指摘でした。例えば、子供達に、生命の大切さを教えるとき、もちろんモーセの十戒の「殺すな」は重要な戒め、規範となるでしょう。しかし、そこから、さらにいかに生命が大切かを子供たちが経験すること、例えば、動物を飼うことによって、その死の様に出会う、あるいは、自分の父や母が死んだときのことを想像させて、追悼の文章を書かせる、すると、子供の中には、涙を流して、それを読むものがいる、・・あるいは、血圧を子供たちに測らせて、生きているとはどういうことかを体験させる・・。つまり、「こうしよう」という積極的な生き方を学ぶことの大切さだと語っておられました。

 日野原さんが、そういう活動を積極的に行なうようになったのは、きっかけがあったと言います。これは、色々なところで、日野原さんが、書いておられることですが、よど号乗っ取り事件で、日野原さんは、ピョンヤンの空港に人質として連れていかれます。この時、犯人たちが、空港で、書物をさし入れてくれたそうです。その書物の中に、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が入っていて、小説を読み始めたときに、聖書の言葉に目が留まったと言います。それは、ヨハネ福音書12章24節の言葉でした。
「一粒の麦地は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と書かれていました。それを読んで、自分自身の命が失われることなく、もし生き長らえることができたなら、それを人のために用いようと決心したと言います。

やがて、日野原さんは、人質から解放されます。誓った通り、人のために働く人生を歩みはじめます。日野原さんは、人のために捧げる人生を、自分自身の自己実現のためにそうしておられるのではないでしょう。一度、自分自身に死ぬという生き方。それは、日々の生活では、祈りの生活にあらわれます。わたしたちは、常に自分の益になるために時間を用いるものです。神のために隣人のために、どれだけ働いているでしょうか。祈りも同じです。人のために生きるとは、自分は一番最後という生き方です。教会生活も同じです。自分が一番の益を受けたいではだめです。自分が、まず隣人のために祈ることです。自分が誰よりも朝早く起きて祈ることです。

 主イエスは、一日のはじめ、一番大切な時間を用いて、父なる神に向きあって祈りを捧げました。この主イエスの祈りの姿は、主イエス・キリストの全生涯を暗示しています。主は、そのすべての行為、働き、教えを、わたしたち人間の罪の赦しと救いのためにお用い下さったのです。ヨハネ福音書が語る一粒の麦とは、十字架におかかりになったキリストご自身のことであります。
日野原さんも、主イエス・キリストが人間のためになしてくださったことに応えて、生きる生活をはじめられました。そこから押し出されたときに、わたしたちは人のためにも働くことができるのです。アシジのフランシスコの祈りの有名の祈りの一節に次のような言葉があります。

「ああ、主よ、わたしに求めさせてください・・
慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを。
人は自分を捨ててこそ、それを受け、
自分を忘れてこそ、自分を見出し、
赦してこそ、赦され、
死んでこそ、永遠の命に復活するからです」


 アシジのフランチェスコの祈りの原点は、主イエス・キリストです。この方に触れるとき、わたしが触れた方こそ、わたしのために、愛し、赦し、理解し、ご自分を捨て、死んでくださったことを知るのです。フランシスコは、十字架と復活の主に結ばれて生きました。そのような生き方の可能性は、誰にでも開かれています。先立って祈る主イエスが、まどろむことも眠ることもなく祈っていてくださる恵みに感謝をささげましょう。