説教 「ガリラヤへの道」     

           2003年11月2日 聖日礼拝説教
           マルコによる福音書第16章1〜8

  塚本 信牧師       

 マルコによる福音書は16章の8節で終わっていただろうと言われています。それはとりもなおさず、もともとは復活された主イエスの姿を描かないでこの福音書は終わっていたことを意味します。なぜ「復活した」主イエスの姿がここに登場しないのでしょうか? キリスト教にとって「復活」は私達にもたらされる救いの力を示す最も重要な教理です。本来ならば、他の福音書にも書かれているように陰府(よみ)から復活した主イエスが、弟子たちの前に現れ、主イエスの復活を確認することによって励まされ、勢いづいてゆく、そんな物語の展開が期待される部分です。

 実は、この16章8節の最後は、原文のギリシャ語を見ますと「なぜならば」という一言で終わっています。一連の、主イエスを葬った墓が空だった出来事の理由を書きかけで終わっているのです。「主イエスの墓は空であった、なぜならば…」というのがマルコによる福音書の書き方なのです。人々から蔑まれ、十字架につけられ、死んで墓に葬られた主イエスそのお方の墓は空であった、その暗闇にはいらっしゃらない、ただそのことのみを人は知りうるのです。

 それは、私達に一つの重要な事実を突き付けます。それは、その書かれなかった理由の部分、その理由の選択が、福音書を読む私達一人一人に任されているということです。つまり「主イエスの墓は空であった、なぜならば弟子たちが死体を盗んだからだ」と読むこともできますし、「主イエスの墓は空であった、なぜならば主イエスは復活したからだ」と読むこともできるのです。「あなたにとってこの『空の墓』の事実は何を意味するのか」その選択は復活の出来事をどう受けとめるのかに関わってくる事柄なのです。つまり私達は福音書を「単なるお話」として読むこともできるし「真のいのちの書」として読むこともできるわけです。

 もし主イエスが復活されたことを受け入れないなら、その姿勢は私達の信仰生活、ひいては「いのち」そのものにまで深刻に陰を落とすでしょう。「ナザレのイエスはなぜ十字架につけられて死んだのか」という問いの答えは「それはただの人間だったからだ」ということで終わってしまっていたでしょうし、同様に「私達信仰者は神を信じているにも関わらずなぜ不幸な目にあったり、病を負ったり、いろんな苦労を受けなければならないのか」という問いの答えは「それはキリスト教が間違っているからだ」ということで終わってしまうに違いありません。そしてそれは、その人の心を闇へ闇へと逆に集中させてしまうのです。

 主イエスの遺体はどこへいってしまったのだろう、と墓の中を捜しに来た女性たちに対して「白い長い衣を着た若者」は答えます。「あの方は…ここにはおられない」私達が一生懸命物事の「死」の面、やがては当然なくなるはずのこの世の事柄を見つめていても、そこに主の姿を、ましてやいのちを見つけだすことはできない、そう聖書は語るのです。そして聖書はガリラヤを、主との出会いの原点を指し示すのです。

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