横手開拓伝道の思い出(全文)

                                 中村 月城

 私が卒業したのは、明治四十四年の三月、未だ中会の准允も済まぬ前に、横手開拓伝道の任命(当時東北六県の教会は、日本基督教会東北中会に包含されていたが、実態は全部ミッションの伝道であって、我々の任命権者は中会ではなくミッションであった)を受け、ゾーグ博士に伴われて横手町に乗り込んだ。
 横手には信者も求道者もいなく、一人の知人もなく、全くの未知の町。とにかく大町のある旅館に落ち着き、翌日から貸家探しに出歩いたが、容易に見つけることが出来なかった。(空き家はあっても西洋人の顔をみると断られたのである。)
 
 三日目から、私一人で家を探し、やっと上根岸に見つかった空き家は、荒れ果てし茅屋。しかし他に家がないから致し方もない。先ず大工を頼み、一カ月程でどうやら住める家となり、五月の初め頃この家へ移り住み、表の掲示板に「演題」を提示して愈々伝道開始。と云っても、新聞広告をするでもなく、宣伝ビラを配布することもなく、それに電灯もなく、石油ランプ。二週間か三週間ぐらいの日曜の夜に、二、三人の青年が顔を出すようになったが、説教の終わらぬうちに帰ってしまう有様であった。
 何日頃かハッキリした記憶はないが、そのうちに英語志望の青年男女各一名が現れ、これが集会に出るようになった。(この一人の青年「当時は刑務所の小使いさん・須藤雅一君」)が洗礼を受けたのは翌年だったと思う。

 四十五年(大正元年)四月、私が結婚したので、五月から家内と二人で暮らすようになり、そのうちに四日町下丁に家が見つかったのでそれへ移り住んだ。
 伝道の応援には杉山、堀内、菅井等の友人をはじめ、シュネター院長、笹尾博士等にも来て貰ったが、これは伝道というよりも宣伝であった。何しろキリスト教に対しては非常な反感誤解のあった土地(私は丹波源一郎君の父親から「君の所属本国はどこか?」と、尋ねられたことがある)。

 その頃丹波君等数名の青年有志が官立的な青年団に反対し、修養を主目的とした民主的青年会を組織し私に相談役になってほしいとの申し出であったので、私は喜んでお世話を引き受けた。(青年会長には東京帝大出の片野重脩君を頼んだ。)

 また他方、大山順造、佐藤ドクトル、湯沢の帯屋久太郎君等々の文士連中との交渉が始まり、外に私の蔵書を提供して「私立公開月城文庫」の看板を出したので、十数名の有志が毎月会費を出し合って新刊書を買い入れ,又各自の蔵書を月城文庫に寄託して貸し出し、毎月一回「読書会」を開いて、感想発表をやり、それに加えて茅原葬山君が万朝新聞社を退社して雑誌「第三帝国」を発行し、横手に支部を設けたので、私が支部長となり、葬山、石田友治君等と同行して県内各地で「文化講演会」をやったこともある。最も忙しかったのは「銅山の製錬所設置反対運動」であた。

 この運動で、当時貴族院議員の土田蔵助君、衆議院議員の中村千代松君、その他県会議員の諸君と共に各地で盛んな演説会をやり、県知事を弾圧し(この時の総理大臣は寺内大将、農商務省の大臣は中小路)猛運動四十日、とうとう「不認可」の指令を得て無事におさまった。

 教会の形成は極めて困難であったが、須藤君を初穂として、その後小田部(後の堀内姉)、和賀君、広島君が受洗して、高垣姉が転入し、五月に丹波君が受洗して、どうやら教会と言うことが出来るようになった。
 伝道は極広い意味に行われた。熱烈な伝道心に燃え立った宣教師のクック師が山形市に定住しながら、春、秋の二回、山形、秋田の両県下を巡回された。県南地区はクック師、ヘルパー門間君それに私。湯沢、西馬音内、増田、淺舞、角間川、六郷その他の町々。人力車に謄写機、幻灯機を積み込み先ず宿屋を定め、それから集会案内を印刷して各戸に配布。しかして夜の集会を宿屋で開いたのであるが、人数はよく集まった。クック師が急死された後はクリーテ師、その後はアンケニー師であった。私などの担任は一週間以内であるが、クック師など両県下を一巡して山形へ帰られるとシラミが沢山付いているので奥さんは随分困られたという話である。

 横手伝道は、私たちより先に聖公会の山村暮鳥君が暫くおられたようであるが、詩の方のお弟子が二人ぐらいあったきりで、他には何もなかった。
 クリスチャン教会も、私たちより先に伝道に着手されたが数年で中止されてしまった。
 スマイザー師が横手に来られたのは大正二年頃かと思う。スマイザー師は、その属する教会から派遣されし宣教師で,所謂ミッション関係でないためか殆ど宗派的な色彩はなく、純粋なピューリタン。

 「神が私を秋田へお遣わしになった」と、一途に信じ切った。純粋、無垢の一本気。自らの生活費は極力節約し、田舎を廻っても時には野宿同様に過ごされたこともある。そのためばかりでもないかも知れんが、奥さんにも愛児にも叛かれ、孤独の境地におられたこともあるが、師の信念は変わらず、最後までその信念を貫かれたようである。而して自己の後継者としてまだ小学生時代の瀬谷君を選ばれ、中学から神学校卒業に至るまで瀬谷君を援けられたようである。

 私とは一度甚だしく衝突したことがあったが、誤解が解けると、あっさり「私が悪かった、私にも出来るだけ教会を援けさせて下さい」と申し出られ、毎日曜夜の集会にオルガニストとして奉仕していただいたことは忘れ得ぬ快事である。
                            (1956.4 教会創立五十周年誌より)

←BACK