なんどもそうだん室(ひつ)こにもどる
  

   塾なんか行きたくないのに、親は「あなたのためだから行きなさい」って言うんだ。やめたいんだけど。

 「行きたくない塾(じゅく)なら行かなくてもいいよ」と言ってほしいのかもしれませんが、そうかんたんには言えないのです。なぜならば、本当(ほんとう)にイヤならば「わたしは、行(い)きたくない。なぜかというと○○だもん」とあなたのことばで、親(おや)に言ってほしいからです。
 たとえばの話(はな)しです。「小さいときに、ピアノをさせられていた。その時はイヤだと思(おも)ったけれども、続(つづ)けていて良(よ)かった」このような話(はな)しを聞(き)きます。 これは、現在(げんざい)の「自分(じぶん)の気持(きも)ち」だけでなくて、親(おや)をふくめてみんなの考(かんが)えを聞(き)くことも大切(たいせつ)なことだということではないでしょうか。
 反対(はんたい)に「いやいやながら続(つづ)けたために、もうピアノの音(おと)を聞(き)くのもイヤだ」という場合(ばあい)もあるでしょう。これは、「イヤだ。」という気持(きも)ちを抑(おさ)えすぎたからです。
 「塾(じゅく)に行きたくない」というあなたの気持(きも)ちと、「行かせたい」という親(おや)の気持(きも)ちとをぶつからせてみてはどうでしょうか。「気持(きも)ちをぶつける」というのは、実(じつ)は大切(たいせつ)なことなのです。この「ぶつかりあい」はケンカではないのです。
 そのぶつかりあいから、あなたと親(おや)との間(あいだ)に、今(いま)までよりも強(つよ)いつながりも生(う)まれてきます。またお互(おたが)いに考(かんが)えなかった良(よ)いアイデアも生(う)まれてくるかも知(し)れません。
 次(つぎ)の聖書(せいしょ)の意味(いみ)を考(かんが)えてみましょう。「あなたの行く所(ところ)どこにおいても、主(しゅ)を認(みと)めよ。そうすれば、主(しゅ)はあなたの道(みち)をまっすぐにされる。」
   箴言(しんげん)3章(しょう)6節(せつ)