第30日  信じる者になりなさい

「それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を
見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
(ヨハネ20:27



1 信じる者になりなさい

過重なストレスがかかり続けると、人は3つの傾向を示すそうです。一つは暴飲暴食・衝動買い・ギャンブル・非行・暴力などの問題行動を起すケースです。二つ目は筋肉痛や腰痛、自律神経の乱れ、胃潰瘍や12指腸潰瘍、過敏性大腸炎、高血圧、糖尿病など心身症と呼ばれる身体的な症状を引き起こすケ−スです。三つ目は神経症やうつ病にみられるように情緒的に不安定になり、気分的に落ち込み、考え方も否定的になり、自罰的妄想的になってゆくケ−スといわれています。このように同じストレスがかかっても、人それぞれに固有な反応があらわれるといわれています。

弟子たちにとってイエス様の十字架の死は衝撃であり、復活のできごとは驚愕でしたから、受けとめることが容易にできませんでした。特にキリストの復活の知らせを聞いた時の弟子たちの反応は千差万別でした。

たとえばエマオ村出身のクレオパと妻マリアは、失意の中でエルサレムを離れ、故郷へ帰ろうとしました。ペテロはイエス様を3度も拒んでしまったという自責と自罰感に激しく打ちのめされたままでした。トマスは他の弟子たちが「私たちはよみがえられたイエス様と出会った」と語っても全く信じようとはせず「そんなことがおこるはずがない。直接見るまでは信じられない」とキリストの復活を強く否定しました。

そこでよみがえられたイエス様は、弟子たち一人一人の特性を理解されたうえで、丁寧に取り扱い、復活を信じる信仰へとかれらの信仰を引き上げてくださいました。

トマスに焦点をあててみましょう。トマスは「自分の目で確認するまでは受け入れない」というタイプの人でした。このようなトマスを「疑い深い人」と単純化することはできないと思います。トマスはたとえ仲間であっても、人の言葉を鵜呑みにしてそのまま信じ込むというタイプの人ではなかったのです。むしろ客観性を重んじる実証主義的ないわば科学者タイプの人物であったと思われます。

人から聞いた話を鵜呑みにせずちゃんと自分の頭で考え、必要ならば現場に立ち帰って調査するという人物は非常に周囲の信頼も厚く貴重な存在だと私は思います。むしろ、人から聞いた話しをそのまま鵜呑みにして信じ込み、周囲の人々に吹聴するような人々のほうががむしろ困ります。生きた宣伝カ−のような人によって不真実と誤解と悪意が広がってしまうことが起こりうるからです。そんな場合には「私、そうは思わない。そんな噂話は信じない。直接、本人にあって自分で確かめてみる」と言える人によってはじめて歯止めがかかります。ですからトマスのような人物はむしろ貴重な存在といえます。

自分の目でちゃんと確かめるという実証性を大事にするトマスに対してイエス様は「「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」(27)と語りかけました。 トマスの求めをイエス様はよく理解しておられたことがわかります。トマスをちゃんとイエス様は認めておられたのです。

頭ごなしに叱ったり、否定したり、非難したり、なじったりして、その人の良さをつぶしてしまったり、萎縮させてしまう人を見受けるときがあります。イエス様のように相手のありのままを受け入れることや、相手の良さに焦点をあわせその長所を引き伸ばすことはすべてのコミュニケ−ションの基礎となります。上司や部下、親と子供の関係ではことさら大切だと思います。

このようにしてトマスは、復活されたキリストを見て信じ、「わたしの神、わたしの主よ」(ヨハネ20:28)と信仰を告白し、イエス様を礼拝しました。イエス様が個人的にトマスを深く理解し接してくださったので、トマスもまた「私の主」とたいへん親しい個人的な交わりを告白することができたのです。

2 見ないで信じる者は幸いです

イエス様は、トマスを受け入れ理解を示されたばかりでなく、トマスの信仰をさらなる成長へ導こうとされました。

それは「復活のイエスを見たから信じた」という「見る」信仰のあり方から「復活の知らせ(福音)を聞いて信じる」という「聴く」信仰のありかたへ成長させることでした。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(29)

ペテロやヤコブやヨハネやマグダラのマリアたちが復活されたキリストを見たのだから「あなたも疑わないで、信じなさい」とイエス様はトマスに諭しているわけではありません。3年間にわたって、イエス様はトマスにも他の弟子にも、繰り返し繰り返し「十字架の死と3日後の復活」について語り聞かせてきました。ですから、イエス様は「証人がいるのだから」復活を信じることを求めているのではなく、「わたしが語り聞かせてきた言葉を」聞いて信じることにあったのだと思います。十字架の身代わりの死も、復活の予告も、さらには終末の再臨も、永遠の御国と滅びも、父なる神様のみこころも、イエス様は知るべき真理をことごとく弟子たちにお話になっておられます。その一つ一つは時が至って成就してきました。これからも終末にむかってイエス様の語られた約束と預言は一つ一つ、預言から歴史へと変えられてゆくことでしょう。

イエス様の語られたことばは真理です。信じるべき神のことばです。だから、イエス様のなさった業を「見て信じる」のではなく、イエス様のことばを「聴いて信じる」ことを求めたのでした。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」
(ヨハネ5:24)

「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」(ヨハネ12:48)

このことはいみじくもペテロがすでに告白をしています。

「すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」(ヨハネ6:68)

この世の中には「見る信仰」「行なう」「聴く」信仰の3種類があるといえます。
「見る」信仰では、奇蹟とご利益を見ることが強調されます。見て感動するように、さまざまな演出がこころみられます。視覚的な効果をあげるためには、壮大さ、荘厳さ、大きさ、立派さにウェイトがおかれることもあります。一種のショ−タイム化され、劇場化されてゆく可能性もあります。しかし見ることだけの信仰には危険がともないます。人間はどんな刺激にもやがて慣れてしまい、さらなる興奮を追い求め出すからです。「見る」だけでは思索や考えに直結しない場合も多々あります。

第二は、「行い」が強調される場合です。行動派の人には意外とフィットする場合があります。具体的な形で体験的に宗教性を実感できるからです。難行苦行そのものはつらいものですがそこには他のなにかでは得られない達成感と満足感が伴うことも事実です。しかし、救いが行いと結び付けられるかたちで利用される危険性も潜んでいます。次々と「行為」が要求され、その行為に「お金」が結び付けられているケ−スも少なくありません。修行と称して教祖の髪の毛を高額のお金を出して信者が競うように買い求めたという馬鹿げたできごともありました。

第三の聴く信仰は、即座の応答と結びついて「聴従」となります。 また思索と結びついて「静思」(デボ-ション)ともなります。昔から「聴く」ことは信仰の原点でもあったのです。神のことばを聴くためには、聴くための心の備えができていなければなりません。あわただしくばたばたした生活環境の中では聴くことはできません。聴くことは生活全体を整える力を同時に育ててゆきます。

旧約聖書でユダヤ人がまず学ばなければならないことは神のことばを聴くことでした。

「天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。地よ。聞け。私の口のことばを」(申命32:1)

宣教師パウロは異邦人にも聞くことの重要性を強調しました。

「 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
(ロマ10:17)

キリスト教の信仰は「見る信仰」ではなく「行なう」信仰でもありません。何よりも、神とキリストのことばを「聴く」信仰を本質としています。 神のことばは聴力によってきまるのではなく、キリストの御霊である聖霊の豊かなお働きに導かれて決まるのです。御霊に導かれて「神のことばを聴いて」「信じて」「従い歩む」。非常に単純素朴なあり方ですが、しかしこれこそがキリスト教信仰のコアの部分であると私は思います。

「 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、
またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。」(エペソ1:13)

3 キリストに聞く

人の話を鵜呑みにしないこと、安易に信じこまないこと。大事なことは直接ご本人に聞くという誠実さ・真実さをもつことはクリスチャンにはことさら大切だと思います。

誤解を招く表現になってしまうかもしれませんので十分注意をして聞いていただきたいのですが、「人」の話を鵜呑みにするなという中に、「牧師」も含めていただければと思います。「牧師のいうことは絶対だ!」「牧師の語ることばは神のことばだ」「権威ある牧師に対して絶対服従しなければならない」などという無言の威圧的な雰囲気があるならば、そこには異端宗教に近い臭さと危険性があります。昨今の職場では「パワ-ハラスメント問題」が大きく取り上げられ、その社会的責任が鋭く問われています。牧師が「神の名」のもとで「肉的な権威を振ったり」「服従を要求」することなどは許されることではけっしてありません。

牧師の聖書解釈がそのまま絶対的に正しい解き明かしであるとはいいきれません。解釈にははばがあり、時には対立する新学理論もあります。さらに、説き明かす人間に記憶の間違いや思い違い、あるいは思い込みが生じることも避けられません。もちろん牧師は講壇で語ることばに十分注意し配慮し、聖書の研究に多くの時間を注いでいます。しかしながら、メ-ッセ-ジとして語ることばは「絶対的な権威を帯びた神のことば」そのものではありません。絶対的な権威をもった神のことばは聖書のみです。ですからむしろ、ベレヤの教会の信徒たちが「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒17:11)という姿勢こそが健全なキリスト教会にはふさわしいありかただと私は思います。牧師に聴き、聖書に聴き、キリストに聞くことが一体となっているからです。

一人の姉妹は求道中から聖書をよく読み、自発的によく学ばれました。その聖書の読み方はたいへん理知的で論理的でした。うっかり見落としているようなことも拾い上げて質問をされました。「質問の数がおおすぎるのでご迷惑でしょうか」と謝られるほどでした。このような求道者と出会うことは牧師にとって望外の喜びです。新しい視点で一緒に聖書を学べるからです。1週間に1つか2つづつ質問の内容をほりさげゆっくりと納得がいくまで聖書を学びあいました。必要な参考書や資料もお渡ししてじっくり自分で考えていただくようにもしました。聖書のことばを理知的にとことん学ぶとともに、並行して「聖書のみことばから神の御心を聴く」ことを学ばれてゆかれました。「知る」ことと「聴く」ことを理解されつつ信仰を深めてゆかれました。 彼女がバプテスマを受けられた時は、わたしにも本当に大きな喜びでした。

さて、もう一つの証しをさせてください。人の話しが力にならないときを私たちはしばしば経験します。特に大きな決断や選択をしなければならなときに私たちは迷い悩みます。あなたはそのような時、だれにアドバイスを求めますか? 両親?先輩? 友人? コーチ? それとも霊能者?  私は誰よりもイエス様に聴きます。誰かのことばよりも聖書の中にことばを求めます。

私たちの教会は、1990年に堀池の地に3階建て20坪の建物を購入して教会堂としました。日曜の礼拝は近くの大きな貸しホ-ルで行なっていましたから牧師住居と平日の宣教活動に用いようとの当初の計画でした。ところが貸しホ-ルが突然、カラオケボックスに変わってしまったので退去せざるを得なくなりました。しばらくは会堂を使用していましたが手狭になり、1995年頃から一駅はなれた駐車場つきの会館を借りて日曜日の礼拝を持ちようになりました。便利なので人が集まるものの教会という共同体を形成することに難しさを覚えていました。 反省と熟慮を重ね、2004年にもう一度、たとえ狭くても本来の会堂に立ち返り、手狭になれば新しい教会堂に向けて主の導きをいただこうとの思いで一致しました。

社会学の原則通り、25名しかイスを並べられない礼拝堂には平均25名が集います。キャパシティの80%以上は人が来ないといわれる原則が教会にもあてはまるようです。メンバ-も求道者も週代わりで出席をしてほどよく25名が維持されるような雰囲気になってきました。あまり好ましい傾向ではありません。

有志の中から会堂移転や会堂建築の希望がことばに出されるようになりました。献金も積み立てられています。私たちの教会の様子を知っている親しい近隣の諸教会の牧師や信徒さんも祈ってくださっています。でも私にまだ力と確信が出ないのです。それは、神様からみことばを頂いていないからでした。教会の頭であるイエス様からことばを聴けてないのです。

しかし昨年、「わたしはわたしの美しい家を輝かせる」(イザヤ60:7)という神様のことばを聴かせていただきました。1年間、このみことばが「会堂」のみことばであるかいなか、なおイエス様に聴き続けてきました。もしそうであるならば他に二つのしるしを見せてくださいとひそかに願っていました。新しい人材が教会に送られてくること、必要な基金が1,000万円を超えることでした。その二つが成就し、昨年は5名のバプテスマ者が備えられました。みことばにともなうしるしを与えていただき心から感謝しています。

この世の中では「鬼に金棒」といいますが、「クリスチャンにみことば」で十分なのです。鬼には金棒が必要ですが、クリスチャンにはみことばの剣がふさわしいのです。

何がどのようにできるのか現時点ではわかりませんが、精一杯主のなさることにご奉仕をささげ、主によろこんでいただこうと思っています。58歳の私には最後の奉仕になるかもしれません。何年後になるかわかりませんが、宇治バプテスト教会の新しい会堂が主によって建てられた時には、「主が美しく輝かせてくださる」ことでしょう。尊い奉仕に汗をながしたすべての者が、主の御約束はほんとうに真実であったと主の栄光をこころから崇めることができることでしょう。

トマスはイエスのことばを思い起こし「見ないで信じる」信仰に立つことができました。私たちもまた、聖書のことばを聴き、聖霊に導かれ、見ないで信じる信仰という、幸いな恵みの世界に招かれることでしょう。

「 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
(ヘブル11:1)


2008年3月9日 




  

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