第23日  私たちの助けは天地の創造主から来る

私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、 天地を造られた主から来る」(詩篇121:
1 -2)



詩篇121篇には「都のぼりの歌」というタイトルがつけられています。都のぼりとは、ユダヤの都エルサレム・シオンの山に建つ神殿において礼拝をささげるために巡礼の旅にでることを意味します。

ユダヤ国内から出発しようとしているのか、あるいは遠い異国の地に住んでいる人々がユダヤの国をめざして旅立とうとしているのかこの詩では不明です。いずれにしろ出発地点がどこであろうとも、詩篇121篇はシオンの丘に建つエルサレムの神殿を目当てに今まさに巡礼の旅に出発しようとしている人々の歌といえます。

これから出発しようと遠いシオンの山に目を向けると、遥かかなたにはこれから乗り越えてゆかなければならない山々が連なって見えます。またこれらの険しい山並みはこれから始まる長い危険な巡礼の旅において、直面するかもしれない幾多の困難を暗示するかのようです。実際、古代社会において長旅は命がけの旅行であったことでしょう。前途の困難を思うとき、「私の助けはどこからくるのだろうか」、「どのような助けが私にあるのだろうか」と不安に包まれた詩人の気持ちは痛いほどわかるのではないでしょうか。

何か新しいことを始める時にはだれもが不安を感じるものです。たとえば人生でもっとも幸せな結婚でさえ、いよいよ結婚式が近づいてくると、花嫁の中には「この人で良かったんだろうか。うまくやってゆけるんだろうか。将来も心配ないだろうか。」と様ざまな不安に包まれマリッジブル―と呼ばれる抑うつ状態に陥る方もおられます。新しいことを始める時には緊張と不安がつきまといますから、心身のバランスを崩してしまうことが報告されています。

新年を迎え、新しい日々が始まりました。今年は免許をとろう、英会話を始めよう、念願だった資格取得にチャレンジしようと決心している方もきっとおられることでしょう。一方では、自分から望んだわけではないけれど、責任ある大きなプロジェクトを部長から任された、会社から転勤命令が出て新しい職場に移動しなければならなくなった、主人が単身赴任をしなければならなくなった、経済的に厳しくてパート勤めにでなければならなくなったという方もおられるかもしれません。乗り越えてゆかなければならない多くの困難さを思う時、緊張や不安に包まれ、私たちも詩人同様、「私の助けはどこからくるのだろう」と思わず自問することがあるのではないでしょうか。

T 天地を造られた神から来る

「私の助けは、天地を造られた主から来る」(1212

詩人が得た答えは「私の助けは天地を造られた主からくる」という揺るがない確信でした。エルサレムまでの長旅の途上には幾多の困難や危険、労苦や犠牲が伴うことでしょう。しかしそれでも「天地を創造された主から私の助けは来る」と詩人は神様を見上げて深い信頼を寄せています。

かつて石川啄木は生活苦の中で「働けど働けど我が暮らし、楽にならざり、じっと手を見る」と歌いました。じっと自分の手を見ていてもため息しか出てこないのが現実かもしれません。新しい力や希望はじっと自分の手を見ていても出てくるものではありません。神様を見上げる時に、新しい力と希望を神様の中に見出すことができるのです。

あなたの助けは、「あなたを創造された天地の造り主から来る」ことを覚えましょう。

話しが少し変わりますが、2000年にエジプト・イスラエルを旅行した時に、旧約聖書の舞台となっているエジプトやパレスチナの山々を見てたいへん驚きました。の光景は日本の山々と全く異なることにたいへん驚きました。

私たち日本人にとって「山は緑である」と自然の感覚で思いますが、中近東では山々は赤茶けて岩肌がむき出しになっています。岩中に鉄分を多く含むために岩塩と反応して塩化し山肌が赤茶けてしまうのだそうです。当然ながら植物も育たず、そのためごつごつした険しい岩肌になってしまいます。私たち日本人は、頂上に雪をかぶった美しい富士山を見ると感動し、手を合わせて拝み出す人も少なくないと聞いています。こうして山がご神体と崇められるわけです。ところがパレスチナでは赤ちゃけた岩だらけの山に向って感極まって手を合わせるというような宗教感覚は育ちませんでした。むしろ、山はどしっとして動かない「不動性」の象徴とみなされました。時代が変わり、王が変わり、住む人々が移り変わっても、そこにそびえる山は昔も今も少しも変わりませんでした。そんな不動性の象徴とされました。ところが、旧約聖書の預言者は、そのような「不動性」の象徴である山さえ揺れ動くことがあると教え、この地上における永続性のもろさを鋭く指摘します。つまりこの地上に存在するものの中に永遠なるものは一つも存在しないのだから、何ものも神とすることはできない。ただ、創造主なる唯一の神様のなかにのみ永遠性・不動性を求めることを教えています。

「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。」
(イザヤ54:10)

たとえ山が海のさなかに移るようなことがあっても、丘が揺れ動くことがあっても、神様の愛は微塵だに動かないと教えられています。それほど「神の愛の永遠性・不動性・確かさ」が強調されているのです。

動かないと誰もが信じて疑わないようなことがこの世では起きてきます。まさか!と思うような急な坂道も目の前に現れてきます。しかし、神の恵みは永遠に変わらず、移りゆくことはありません。「私の救いと助けは天と地を創造された」神様ご自身からくるのです。移り変わるこの世からくるのではありません。あてにならない人間から来るのでもありません。永遠にかわらない神からくるのです。決して破られたり破棄されることのない、神の永遠の契約に基づいて、神からの助けが来るのです。

U 神の守りの完全さ

「イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(1214

神様はまどろむことも眠ることもなく、日夜見守ってくださるお方であると詩人は告白しています。神様が私のために寝ずの番をしてくださるという意味になります。あなたには、病気の時にお母さんが一睡もしないで付き添って看護してくれた思い出があるかもしれませんね。それほどの真実な愛をもって神様があなたのすべてを見守ってくださっていることを示しています。

 私たちの人生に起こる様ざまな出来事、そのすべてを「不眠の神」が見守ってくださっておられるのです。このことは私たちに、良いことも悪いことも、喜びも悲しみも、神様があずかり知らないことや、神様が見ていなかった、あるいは聞いてなかった、「私に関係がなかった」ということがまったくありえないことを示しています。

そうです、すべてが神様の手の中にあるのです。すべてが人知をはるかに越えた神様のみこころの中におかれているのです。だからこうも言えるのです。

すべてをもって最善としてくださるから愛の神様がおられるから、あなたの人生に失敗はないのです!

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
(ロ−マ
828

V 何を守ってくださるのでしょうか。

「主は、すべての災いからあなたを守り、あなたのいのちを守られる」(1217

神様は礼拝者たちをすべての災いより守り、出ると入る(すべての働きや生活)とを守られると約束してくださっています。外からやってくる様ざまな災害や事故から守り、日常の生活の営み、仕事や収入も支えてくださるとの基本的な約束がされています。ですから必要以上に思い煩わないように心がけましょう。また必要以上のものを欲を出して追い求めないようにしましょう。欲とむさぼりは自らを滅ぼす入り口になるからです。むしろ神様が本当に必要なものはすでに与えてくださっていることに感謝しましょう。本当になくてならない大切なことは決して多くはありません。

なによりも大切なことは、私たちの身体や経済生活以上に、私たちの霊魂が守られることではないでしょうか。どんなに健やかであっても私たちの齢は、70−80年にすぎません。肉体の死後、永遠の時と世界をどのように過ごすのでしょうか。考えてみれば、地上にどんなに豊かに宝を積んでも、最後に私たちに必要なものは身の丈サイズの「棺」一つと、小さな「骨つぼ」一つだけです。どんな高級なひのき材の棺を用意したとしてもすべては火葬場で焼かれて灰になってしまいます。本当に私たちが神様によって守っていただかなければならないものはなんでしょう。

イエス様は次のように語っておられます。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ1028)

イエス様は、たましいさえもゲヘナ(地獄)で滅ぼすことができるかたを恐れ、魂が永遠の滅びから救われ、守られることを祈り求めなさいと問いかけておられます。

イエス様は、私たちが罪のゆえに滅びることなく永遠のいのちを賜物として受けることができるように、十字架にかかり身代わりとなって罪の裁きを受けてくださいました。イエス様の十字架の身代わりの死によって私たちは罪の赦しを受け、裁きと滅びから守られたのです。こうしてイエスキリストは、罪からの唯一の救い主となられたのでした。イエスキリストをあなたの救い主として信じるとき、あなたの罪は完全に赦され、神様の前に「すでに罪赦された者」として安らかに立つことができるのです。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、
私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ロ−マ
623

詩篇の巡礼者たちは、この世の生活の安寧だけを求めていたわけではありません。もしそうであるならばわざわざ危険を冒してまで巡礼の旅に出る必要はありませんでした。あたたかいベットとおいしい食事と安定した生活があれば十分満足できるはずです。しかし彼らは、地上の生活のことばかりでなく永遠の生活に思いをはせ、魂の救いを願ったからこそ、巡礼の旅に出発しようとしたのです。

人は決してパンだけで生きる存在ではありません。最低限度の健康で文化的な生活が守られれば、むしろ永遠の世界といのち、魂の救いを祈り求める「霊的な存在」なのです。なぜなら人は「神のかたちに似せて」創造され、いのちの息を造り主である神様によって吹き入れられて「生きた存在」(創世記27)となったからです。からだばかりでなく魂が健やかにそして安らかに生きることを求めているのです。

魂の永遠の救いと永遠の神の国を慕い求める巡礼の旅、それが信仰生活なのです。あなたももっとも価値のある巡礼のたびに、私たちとともに旅立ちませんか。神様の日々の守りがそこにはあることを信じて、ご一緒に歩み出しませんか。

「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(1テサロニケ523


2008年1月13日 主日礼拝




  

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