第2日   「つながりを大切に生きよう」
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶど うの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあな たがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたし はぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまりわたしもその人の 中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては あなたがたは何もすることができないからです」 (ヨハネ15:4−5)

牧師宅が移りましたのでこれを機会に牧師に携帯電話をもって欲しいとの要請があり、検討しています。携帯電話の利用者数は8600万人、人口の割合普及率は68%に達しているそうです。興味深いことに20代のパソコン離れ(11.9%)が進み、インターネットはほとんど携帯電話で済ませますから、キーボードの打ち方がわからない若者が増え、親指1本で済ませてしまう「親指族」が広がっているそうです。いずれにしろ若い世代のコミュニケーションは携帯電話をツールにしていることがわかります。もっとも若い人たちだけではなく電車に乗り込んでくる乗客の多くが座席に座ると、まず携帯電話を取り出しメ−ルを見ている姿には正直驚かされます。

1 人はつながりを求めている

現代社会の特徴を示すキーワードの一つに「個人化」があります。経済的に繁栄し豊かな生活が送れるようになると、誰かの助けを受けなくても自分ひとりで生きてゆけるようになり、わずらわしい人間関係の中に身をおく必要を感じなくなり、集団意識や共同体意識が希薄になってきます。子供たちにも個室があり、食事が終れば各自が自分の部屋にこもって自分のテレビを見て好きなことをして楽しみ自分の欲求を満足させることができます。こういう家族のあり方を「ホテル家族」というそうです。その上、生活の時間帯もばらばらになってきていますから一人で食事をしたり、自分の部屋で食事をする「個食」が広がり始めています。会社でもお昼を一人で済ませる人が増えており「昼食まで人間関係に気を使うのはわずらわしい」と、職場における個食傾向も拡大しているそうです。

しかし一方では、そのような個人化から来る孤独感や不安を解消するための手段として携帯電話や携帯メールを媒介にしての短く軽いコミュニケーションが頻繁に用いられているともいわれています。人と共に生きるのは煩わしい、しかし自分一人ではさびしくどこかでは人とつながっていたい、現代人はそのような葛藤の中で「短くうすい」絆を結んで気持ちの安定を図っているといえるのではないでしょうか。

2 つながっていなければ実をむすばない

イエス様は「わたしにとどまっていなさい」と弟子たちに呼びかけました。とどまるということばはつながっている、結びついている、接ぎ木されているという意味をもちます。すこし古風な表現をすれば「絆」で結ばれているとも言えます。

イエス様は何よりも人間同士、「つながりを大切にして生きてゆくこと」を教えてくださいました。イエス様が最初に行った奇跡は、カナの村で催された母マリアの親族の結婚式の場でした。宴会の途中で葡萄酒がきれてしまった時、母の願いに応えて、水瓶の水を最高の葡萄酒に変えられました。結婚という男女の聖なる絆、そこから誕生する家族の絆、母マリヤと親族との絆、主人と水汲むしもべたちとの絆、主イエスとお弟子たちとの絆、すべての絆がこの結婚式の場では祝福されているのです。

人間は3つのつながりを大事にしなければなりません。人と人とのつながり、自分の心とからだとのつながり、自分と自然環境とのつながりです。この結び目を健全に結ぶことができるならば幸いな人生を生きることになります。個人化・働き過ぎによる健康障害・環境破壊などはこの結び目がほどけてしまっている状態と言えます。イエス様が人と人との出会いや結びつきを大切にされ祝されたように、私たちも人と人との出会いを大切にしなければならないと思います。

3 人生の実を結ぶこと

イエス様ははっきりと「私につながっているならば実を結ぶ」と約束されました。先ほどの3つのつながりにじつはもう一つ大切なつながりがあります。四番目のつながり、それはイエスキリストとのつながりです。信仰によって神と結ばれること、キリストとつながり続けることです。

人とのつながり、自分自身とのつながり、環境とのつながりを根底から支えるのは神とのつながりです。神とのつながりを失ったままでは、人は豊かな充実した人生を生きることができないとイエス様は教えておられます。神とのつながりこそが対人関係、自己との関係性、環境との共存共生を可能とするのです。

「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」

実ということばが使われていることに注目しましょう。キリストにあって結ぶことができる実とは何を指しているのでしょうか。それはご利益の実のことではありません。物の豊かさやお金の多さに置き換えることができる物質的経済的な豊かさを直接指すことばではありません。キリストを信じる信仰の世界にいわゆる「御利益信仰」が入り込むことに私たちは注意深くありたいものおです。「求めなさい。そうすれば与えられます」というキリストの言葉が、熱心な祈りによってあたかも御利益が得られるかのように誤解されることがあります。神が私たちに与えてくださるすばらしい贈り物の中には、困難や試練、苦痛や労苦さえあることを忘れてはなりません。

「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」(ピリピ1:29)

釈義上はこの文脈上の「実」とは、弟子たちの福音宣教によって多くの人々が救いに導かれることを指しています。しかしもう少しイエス様のことばを広く考えてみたいのです。キリストにあって始めて豊に結ばれる「人生の実」と考えることができないでしょうか。考えてみれば、りんごもみかんも葡萄も多くの木の実はそれぞれの季節に応じてそれぞれの実を結ぶようになっています。あなたは私たち人間の人生にもじつは季節があることをご存知でしょうか。人生の季節ごとにふさわしい実を結ぶことが人生の幸福につながるといえるのです。

ポールトュルニェ博士が「人生の四季」について語っています。10代を人生の春、20−30代を人生の夏、40−60代を人生の秋、70以上を人生の冬にたとえることができ、それぞれの世代で達成すべき大切な人生の課題があるというのです。 

たとえば10代の人生の春の季節には、「若い日にあなたの造り主を覚えなさい」(伝道の書12:1)と、まことの唯一の神を知り、心に迎えることが最も大切なテ−マとなります。働き盛りの40−50代の夏と早秋の季節には「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(詩篇127:1)と聖書は神への信頼と謙遜を教えています。おごり高ぶりは罪をもたらし、罪は晩年の生活を後悔の多いみじめなものにしてしまいかねません。人生の冬には「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:2)と地上における残りの日々を思慮深く生き、永遠の人生への良き備えをすることを教えています。人生の季節ごとにふさわしい実を結ぶことによって成長が促され、次の季節の実を豊かに結ぶことができるのです。

4 キリストのことばと愛につながる

「わたし」につながっていなさいとキリストは言われました。キリストにつながるとはキリストとの絆を結び、絆を深め、絆を保つことを指しています。イエスキリストの十字架の身代わりによる罪の赦しを信じ、罪と永遠の滅びからの救い主として心にお迎えすることによって、キリストとの永遠の愛の絆が結ばれます。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」
(ヨハネ10:28)

イエス様とクリスチャンとは、「みことば」と「愛」の二つの結び目によって結ばれます。イエス様は「わたしのことばにとどまりなさい」(17)、「わたしの愛にとどまりなさい」(19)と教えてくださいました。

わたしたちはどうしたらいいのかわからなくなることがあります。何をしたらいいのか方向が見えなくなり、どう行動したらいいのか迷うことがあります。そのようなとき私たちを導く確かな指針はキリストのことばでありキリストの示す道です。「わたしは道です、真理です、いのちです」(ヨハネ14:6)といわれたキリストのことばに従うならば道に迷うことはありません。

わたしたちは何を信じたらいいのかわからなくなる時があります。5000万人以上の国民の年金が宙に浮いていることが発覚して国に対する不信感が国民の中に増大しています。裏切られたり騙されたり利用されたりは世の常です。この世の中には愛などいらないというほど強い人間はいません。また私の愛は完全だと言い切ることができるほど完全な愛の持ち主もいません。人間の愛は不確かなのです。そんな私たちであっても、変わることのない愛をキリストの中に見出すことが赦されています。「わたしの愛の中にとどまりなさい」。神の御子イエス様以外、一体誰がこんな心強い愛の宣言をなさることができるでしょうか。

私たちが心の底から安心できる居場所は一体どこにあるのでしょうか。どこに自分の身をいけばいいのでしょうか。どこにいけば自分が受け入れられ場所をみいだすことができるのでしょう。イエス様がわたしに留まりなさいといわれたことばには、わたしのからだである教会にとどまりなさいという意味がふくまれます。教会はこの居場所をあてもなくさまよい漂流している人々に提供することができるのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ
1128
これがいつの時代であっても教会の原点といえます。

キリストのいのちのことばとキリストの十字架の愛に留まりましょう。私たちの真の居場所はキリストとキリストの教会の中にあることを覚えたいと思います。


2007年6月10日(日) 主日礼拝




  

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