第19日  その名はインマヌエル

見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。(訳すと、神は私たちとともにおられる)という意味である」
(マタイ1:23
)



先週は、キリストの母となったマリアについて学びました。今週はそのマリアの婚約者であった実直な人物ヨセフについて学びましょう。ヨセフはナザレに住む石大工職人でマリアと婚約していました。マリアとヨセフには後に4人の息子(ヤコブ ヨセフ ユダ シモンと2人の娘)が生まれています。もっともカトリック教会ではこれら6人はヨセフの実子ではなく「いとこ」たちを指していると解釈し、ギリシャ正教ではヨセフの前妻の子供たちであると解釈しています。神の御子キリストの養父として神が選ばれたヨセフに焦点をあててみましょう。

1 ヨセフもまたマリア同様、神に選ばれた人でした。

神に選ばれることはたいへん名誉なことですが、選ばれた人に選ばれるに値する優れた価値があったからだとは聖書は教えていません。むしろ「小さな者」が選ばれました。それは決して自分を誇ることがないためです。誇るべきことを持っていませんから誇ることができません。誇ることができないから、感謝をささげることが豊かにできるのです。小さな者を見いだしてくださった神様への感謝と献身の思いを生涯保つことができるのです。自分の中に誇るものがあれば、その資質を高く評価してくれる人をもとめ自分を売り込もうとします。自分が納得できる評価をもらえなければ愚痴と不満が出てきます。しかし何もない自分を神様が見いだして、選んでくださったとわかれば、その恵みに対する感謝があふれるのです。

「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(1コリント1:27−29)

2 ヨセフは「正しい人」でした。

ヨセフは「正しい人」、つまり「ユダヤ人として戒律を忠実に守ってきた人」でした。マリヤが婚約中でありながら妊娠したとなれば、「姦淫」を犯したことになり、申命21:13によれば彼女は石うちの死罪に定められます。イエス様の時代に実際に石うちの処刑が実施されたかは不明ですが、少なくとも離縁をしなければならない立場にありました。公に理由を述べて離縁状を出せば、婚約に際して支払った花嫁支度金を取りもどすことができます。内密に離縁するなら支度金は戻りません。その上、身重の妻を追い出した冷淡な男としてヨセフが周囲から非難を浴びることになります。しかし、ヨセフは内密に離縁をして非難は自分が引き受けようと苦悩の中で決心しました。彼は確かに律法に忠実な人でしたが、同時に自分を犠牲にしてでも愛する人を守ろうとするあたたかい心がありました。

「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」(1ペテロ4:8)

ヨセフの中にキリストの養父としての特徴を見いだそうとするならば、それは「家族を守る」という強い意志といえると思います。ヨセフとマリヤは夫婦単位で聖書の中に描かれています。8日目の割礼時、エジプトへの逃避、12歳の時のエルサレム訪問、いつもヨセフとマリアは一緒でした。ヘロデ王の幼児虐殺の難を逃れるために、み使いがエジプトに避難するようにヨセフに夢の中で示しました。若い夫婦がしかも幼い子供を抱えて異国の地エジプトで仕事をしながら生活することは並大抵の気持ちではできません。神のお告げを受けたとはいえ、強い意志がなければ行動できないと思いますが即座にヨセフは決断し実行しました。ヨセフは状況がなんであれ、婚約時にはマリヤを守るため、子供が生まれてからは子供を守るために、大きな決心をし行動しています。

家族を守ると言うことは、具体的には妻や子供を守ることです。しかも危機的なときに決断し行動をすることです。多くの男性は仕事に全勢力を打ち込みくたびれはてて帰宅します。そして口癖のように「家のことは家内に任せた」と言いながら責任放棄をしがちです。聖書に教えによれば、夫は家庭において責任を持つ存在とされています。家族のために祈り、家族を経済的に守るだけではなく、精神的にも霊的にも守らなければなりません。ましてや家族の危機状況の中にあってはしっかりリ−ダ−シップをとることが求められています。

「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり・・・酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせて
いる人です。」(1テモテ3:1−4)

興味深いことですが、聖書にはマリアの言葉は多く記されていますが、ヨセフのことばはひとことも記されていません。ヨセフの行動だけが記録されています。「不言実行の人」ヨセフの人柄を感じさせられます。彼は石大工職人でしたから職人気質のようなところがあり「言葉の人」ではなかったかもしれません。しかしイエス様が後に父親の仕事を受け継いで働いたところをみれば、イエス様に石大工職人としての技術の全てを伝えていたこともわかります。無口で働き者で、律法に実直で、しかし家族を守る強い意志をもった人物、それがヨセフでした。ここに聖書が示す、一つの父親像を見る思いがします。

3 その名は「イエス」

ヨセフはマリアから生まれた男子に、夢の中で御使いが命じた通り、「イエス」と命名しました。ユダヤの国では生まれた子供に名前をつけることは「父親の特権」でした。ヨセフなりに考えていた名前があったかもしれませんが、自分の立場を放棄して、ヨセフは神様に従いました。私情を捨てて聖霊による受胎を受け入れ、マリアが妊娠・出産という大きな仕事をなしとげたとするならば、ヨセフは私情を捨て御使いのお告げ通りに命名するという大きな仕事をなしとげました。

ヨセフによって公に命名された名「イエス」(神は救い 旧約読みではヨシュア)、この名が全世界の人々を罪から救う救い主の唯一の名となったのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

イエスの名にはもう一つの意味がありました。イエス様の名は「インマヌエル」(神、我らとともにいます)と呼ばれました。

栄光に満ちた神のひとり子がクリスマスの夜、罪と欲にまみれた人間の世界のただ中にお生まれになりました。神がこの世のただ中にただ1度だけ人となって1つの目的をもって来てくださいました。ここからインマヌエルの恵みは始まりました。十字架にかかり全人類の罪をご自身の身代わりの死をもって完全に償い、完全な罪の赦し罪の力からの解放をもたらしてくださいました。さらに3日後に、御子は死の力をうち破りよみがえられ、信じる者に永遠のいのちを用意してくださったのです。ですから、イエスキリストは死んで墓の中に葬られた過去の人物ではなく、今も生きておられる救い主なのです。死んだ人の命日を遺族が記念することはありますが、死んだ人のお誕生日を、2000回以上にわたって、しかも世界中の人々がお祝いすることは普通には考えられないことです。それが毎年毎年、自然に、喜びを持って行われるのはイエスキリストが今も生きておられ、信じる者とともに人生を歩んでくださる、インマヌエルの神、我らとともに歩まれる救い主だからです。

あなたはあなたを人生の苦悩から救い出すことができる唯一の救い主の名をご存じですか。あなたを罪と永遠の滅びから救い、永遠のいのちへと導きいれて大きな希望を与えてくださる唯一の救い主の名をご存じですか。神様は全人類にその永遠の名を、ヨセフを通して明らかにしてくださいました。その名は「イエス」そして「インマヌエル」なる神です。

閉塞感とむなしさに埋没しそうなこの世界にただひとりの救い主の名が輝いています。神の御子イエスキリスト、このお方の名こそ、あなたの慰め、あなたの希望、あなたの喜びとなることでしょう。

ローマ  10: 13  「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。


2007年12月9日 主日礼拝




  

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