第12日  聖霊によって注がれる神の愛

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからですこの希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
(ロ−マ5:5)



1 5つの行動パタ−ン

病気や事故などが連鎖的に次々と起きてしまうと、多くの方々は「わたしは運が悪いとか、厄年だからとか、何かに祟られているからお払いでもしてもらわなければならいとか」、いろいろ考え悩みます。実は私たちの身体も家族関係も社会生活もひとつのシステムを保持していますから、一カ所が不調になると他の部分も連鎖的にバランスを崩してしまうことがしばしば起きてしまいます。つまりどうしても弱いところから病気とか不調とか不注意や集中力の低下に起因himekuri1.htm へのリンクする事故とかのかたちでサインが発せられのです。もっとも頭でわかっていても当事者の立場になれば「なぜ、どうして、私だけが」という嘆きになってしまうのも止む得ない気がします。
「神様が愛なら人生になぜこんな辛いこと悲しいことが多くあるのでしょう」と切々と疑問をぶつけられたことがありました。辛い事情がわかるだけにことばが出てこなかった覚えがあります。みなさんならどう答えるでしょうか。

聖書は驚くことにこころに届きやすい慰めのことばではなく、「その艱難さえも喜べ」と抵抗を覚えてしまうようなかなりきついことを教えています。「ええ、そんな、むちゃな」と一瞬唖然としてしまいます。嫌なことや辛いことはできるだけ避けたいと思うのが人の情であり、どうしたら少しでもラクになれるか、どうやれば辛い目にあわなくてもすむか、一生懸命あれこれ回避方法を考え続けることがふつうの態度と言えます。

一般的に困難に直面した場合には「5つの行動パタ−ン」が見られるといわれています。

第1に、なんとか回避しようと行動する回避型をあげることができます。要領のいい人は「君子危うきにちかよらず」と最初からうまく逃げます。いろいろいいわけをして「敵前逃亡」をします。さらには「私には関係ありません」と他の人の責任にしてしまう責任転換型の人もいます。あるいは面倒なことをどんどん先送りにするタイプの方もおられます。誰だって嫌なことはしたくない気持ちは同じですね。

第2は、困難の中で、どうしたらいいかわからず無力さを味わいながら「つぶやき」続けるタイプの方がおられます。避けるすべがなくなれば文句を言って愚痴るしかなくなってしまいます。こころのバランスを保つために、弱い人に向けていらいらや不満をぶつけてしまいやすいのがこのタイプです。

第3は、不安の行き着く先を見据え、その最悪の場合を予想して覚悟を決めてしまうという開き直り型です。かなりこころの健康度が高くエネルギ−がある方が身につけているパタ−ンです。あれこれ悩んでも実際にそのことが起きる割合は20%にすぎないと言われます。しかも出来事が実際に起きたとしても10%は何とかなるといわれていますから、結局正味10%のことだけを悩めばいいのです。10%のために毎日毎日90%も悩んでいるのはいかにももったいない話しといえます。
結局何を恐れているのか、どうなってしまうことを避けようとしているのか、最悪のゴ−ルを予測し、「そうならないようどうしようか」と悩むのではなく、「そうなった場合には何ができるだろうか」と一歩先を常に考える習慣を身につけることです。なにしろ最悪と思うことを対処してしまうわけですから、これ以上の悪いことは無いのですから、もう悩まなくてもよくなります。

第4は、困難なことや嫌なこと避けたいこともすべてそのまま受け入れてしまう受容型があります。人生の知恵といってもいいかもしれません。たいへんこころ柔らかい生き方とも言えます。いわば人生の達人の考え方です。かつて松下幸之助が「天気が続くことを願うのではなく、雨がふれば傘をさせばいいのです」というようなことばを語られたと記憶しています。晴れの日もあれば雨の日もある。雨が降らないことを願うのではなく、雨が降ったならば雨が止むまで傘をさせばいいだけのことです。ムリにあがらわないで困難なことも自然に自分の生活の一部として受け入れてしまうという態度です。実は、このような考えかたを福祉関係における対人援助やカウンセリング関係ではとても大事にします。

第5は、聖書が教えるパタ−ンです。第4番目のカウンセリング的なアプロ−チとも異なり、「もし艱難があるならば、その艱難さえも喜びなさい。あるいは患難の中にあっても喜びなさい」という全くあたらしい道が用意されているのです。それができるのは、「神の愛が心の中に注がれているからです」(5)と聖書は教えています。

2 3つの愛

まず、「心」とは心臓を指すことばです。心臓は全身にくまなく新鮮な血液を送り出し全身の細胞を活性化する最も重要な臓器です。そのようにキリストの愛が心に注がれ、神の愛が全身の隅々にまで行き渡り、供給されるというのです。

「注がれている」とは、「大雨のように降り注がれる」という力強さを表すことばです。梅雨のように「しとしと」と小雨が降り続けるという類の雨ではなく、スコ−ルに近いイメ−ジでとらえることが適切です。自然にわき上がるというよりは、神様からの「賜物」として上から与えられるという意味を持ちます。

さらに、「神の愛」ということばはギリシャ語でアガペ−と呼ばれています。フィレオ−と呼ばれる友情とか親子や家族の情愛を示すことばとも使い分けられています。エロスと呼ばれる男女間の恋愛には損得感情が働いたり、一気に燃えたかと思えば激しく憎しみ合うほど冷え切ってしまうように、とても不安定で揺れ動きやすいものです。それに比べて聖霊が与えてくださる神の愛は完全であり永遠であり、誰に対しても「無条件の愛」を意味しています。

無条件の愛とはどのような愛なのでしょうか。
私たちがまだ弱かった時、つまり無能力で神様をうらむしかない、嘆くしかないほど情けない状態であった時にも、不敬虔(不信仰)であった時にも、罪人(まとはずれ)であった時にも、それどころか神に故意に敵対していた時(刃を向け、弓矢を引いていた時)でさえも、神様はわたしたちを愛し、裁くどころか思いも寄らぬ大きな赦しを与えてくださったのです。完全な罪の赦しを差し出すために、父なる神様は一人子さえ惜しまず十字架にかけ、そのいのちと引き替えに私たちの罪を償いきってくださいました。ヨハネはキリストの十字架の身代わりの死を目撃し、「ここに愛がある」と叫びました。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、
 いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
(第1ヨハネ4:9)

人間には3つの愛があるといわれています。「もしの愛」と「だからの愛」と「でもの愛」です。「もし今度100点取ったら欲しいものを何でもあってあげるからね」「あなたの瞳が世界一、つぶらだから、僕と結婚してください」と言ったとしたら、それはみな条件付きの愛、制限された愛にすぎません。その条件が満たされなくなれば愛も同時に失われてしまうのですから、とてもむなしい愛といえます。ところが
神の愛は「でも」の愛であり、無力で不信仰で神様にさんざん逆らっていても、それでもなお変わらず、罪深い者を愛し抜いてくださる無条件の愛なのです。このような無条件の愛を知ったならば、こころに感激が満ちてきます。両院の離婚で「人間の愛のむなしさ」を覚えていた私も、学生時代に十字架の愛を知って、たいへん驚き感動した一人でした。

3 聖霊によって注がれる唯一の愛

聖霊によるキリストの愛がわたしたちのこころに注がれる時、聖霊は私たちに希望をしっかり待ち望むように「忍耐」を養います。忍耐は「練達」を育みます。練達とは、試験にパスして練り上げられることを意味します。

身近な例をあげますと、よく練りあげられた「うどん」にはしっかりとした「腰」がはいっています。試練の中で練達し、わたしたちの信仰にも「腰が入る」「腰がすわる」ようになるのです。

環境に左右されない、どんな境遇にも自然体でいる、そのようなおだやかな落ち着きこそが「品性」といえます。練り上げられた品性は品行と一致していることも大きな特徴と言えると思います。つまり裏表が無く、いつも自然体でおれるということです。どこかでムリしている人をみて「品性」があるとは誰も思いませんね。

先月に90歳で伊東紋子姉が天に召されました。家庭にいるときも教会にいるときもそして病院のベットに寝て1日過ごすような時も、伊東さんはいつもかわらず最後まで「ありがとう」と感謝のことばを忘れませんでした。これが練られた品性、品行と一致した品性ではないでしょうか。

すでに2000年前に、キリストは十字架の上で「すべてが完了した」と力強く「勝利宣言」をされました。罪の完全な贖い、罪の赦し、永遠のいのちと神の国の約束といった大きな希望がすでにわたしたちのものとされています。これらの希望は決して失望に終わることはありません。なぜなら、2000年前にキリストにあってすでにこの希望が栄光の望みとして成就しているからです。すでにある希望をわたしたちは信仰によって、今の希望、そして終末における大いなる希望としているのです。

「神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって私たちに
豊かに注いでくださったのです。」(テトス
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「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っている
 からです。この希望は失望に終わることがありません。」(ロ−マ5:4)

聖霊の愛がこころに注がれる時、わたしたちの希望はいよいよ揺るがないものとなり、神を喜ぶことができます。聖霊の愛の注ぎは希望ばかりでなく、神を大いに喜ぶ喜びを私たちにもたらすのです。

 「神の恵みはあなたに十分である。というのは、神の力は、弱さのうちに完全に
現れるからである」(第2コリント12:9)

「そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの
主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」
(ロ−マ5:11)

2007年10月7日 主日礼拝




  

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