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神様に導かれた87年 (高齢者)

私は鹿児島生まれの父と江戸っ子の母のもと、八人兄弟の七番目の子として金沢で生まれ、今年八十七歳になります。父親は厳格な人で、小さい時から標準語で話すように躾けられたりもしましたが、私は生まれつき天真爛漫で、お客さんが来ると必ず膝に乗るような子供でした。また、おしゃべりだったため、「ぺちゃこ」とあだながつきました。

小学二年の夏休み、兄と姉と三人で浜松の叔父の家に遊びに行っていた最中に母親が突然倒れ、危篤の知らせが届きました。帰宅して間もなく、母親は亡くなりました。くも膜下出血だったと思います。人力車に乗って火葬場に向かう時、幼いながらも、「もう楽しいことは終わった。もうわがままはできないな。」と悟ったことを覚えています。それからは周りの人から「人が変わったみたい」と言われる程、以前とは違ってしまったようです。

六年生の時、一番仲良くしていた一つ年上の友達がミッションスクールに入りました。学校の先生から、教会に行くように言われたそうで、一緒に行ってくれと頼まれ、初めて教会に行くことになりました。そこで聞いた聖書の、「空の鳥を見よ、野のゆりを見よ。天の神様が守って下さる。」とのみことばによって、初めてお母さんがいなくても神様が守って下さるということを知りました。

踏みつけられても美しい花が咲くタンポポを見ては、神の愛を知り、風が吹いて木々が揺れるのを見ては、神の力を知りました。「主の祈り」を覚え、深い意味は分からなかったけれど、神様に祈ってゆけば必ず助けてもらえると信じ、一日に何回も祈っていました。

学校を卒業後、京都の兄を頼って上洛しましたが、その家の近くで天幕伝道会が開かれました。太鼓を叩いて、多くの人を集めていました。「すべて労する者、重荷を負う者は我に来れ。われ汝らを休ません。」との看板に誘われ、導かれるまま中に入ってみました。その後、続けて通うようになり、一年半後に洗礼を受けました。「リバイバル聖歌」の歌詞に感激し、恵まれ、ハンカチを持たずに集会に行けませんでした。でも本当の意味で信仰が確立したのは、何年ものブランクを経て、宇治教会に導かれ、それまでの罪をすべて悔い改めるお祈りを捧げてからだと思います。

 その伝道会を主催していた教会の教会員で、貧乏な牧師を助けて頑張っていたのが主人です。若い京都のお嬢さん達が大勢集っていましたから、みんなの憧れの的でしたが、養子のお見合い話も断って、田舎者の私を選んでくれ、結婚することになりました。

神様は私にとって、目には見えないけれど、いつも側に居て、行くべき道、するべき事を導いて下さった私のお父様。神様の子供で良かった。自分の浅はかな考えでは生きてこれなかった。神様にすがってきたからこそ自分の知らないうちにすべてが無事に守られてきた。忍耐することも希望を持つことも教えられた。すべての点で本当に良かった。

『何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。』(マタイ7・12)との御言葉を神様の教えとして心掛けてきました。

『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』(ピリピ4:13)