【福音宣教】 御子を持つ者は永遠のいのちを持っている

昨日は75回目の終戦記念日でした。軍国主義体制であった日本はアジア諸国に対する侵略により甚大な被害を与え、日本自らも原爆によって未曾有の犠牲者を出し戦争が終結しました。75年が経過した今、政治的な問題は多く残されていますが、民間の草の根レベルでは日本、韓国、中国、台湾そしてアメリカとも有効な関係を保ち続けることができています。それでも戦争の悲惨さを経験し家族や友を失った癒え難い心の傷を抱えている75歳以上の高齢の方々が生きている限り、私たちは謝罪しなければなりません。国内外を問わず戦禍で散った多くのいのちの犠牲の上に、今日の平和が成り立っていることを深く思い、「天でみこころがなるように地でもみこころがなりますように」と、キリスト者として愛と和解の神に祈り求めてまいりましょう。

先週は「世に勝つ者とはだれか、イエスを神の御子と信じる者ではないか」(5)とのみ言葉を学びました。今日の箇所で使徒ヨハネは改めてイエスキリストが、「人となられた神の御子」(受肉された神)であることを強調しています。

1. このイエスキリストは「水と血によって来られた」(6)方です。

水と血とはイエス様がバプテスマのヨハネからヨルダン川から水のバプテスマを受けられたこと、血とは十字架の上でながされた血を指します。つまり神の御子にもかかわらず人としてこの世界に来られ、旧約時代においては罪・汚れを洗いきよめるための水のバプテスマを、イエス様は私たちと同じように受けられました。さらには、十字架の苦悩の中で鞭打たれた背中からも、茨の王冠をかぶせられた額からも、釘づけにされた両手首足首からも、最後には心臓めがけて突き立てられたわき腹からも、血が流れ落ちました。それはまぎれもなくイエス様が「人となられたお方」であることを証明しています。

「神の御子が人間の手によって殺されることなどありえない、神の御子が一介の預言者から悔いあらための清めのバプテスマを受ける必要などはない。なぜならイエスは神であり、聖なる神ご自身だから」と、イエス様の神性のみを主張するヨハネの時代の異端であったグノーシス派に対して、ヨハネはこのように強く反論したのでした。

正統的なキリスト教は、「イエスはまことの神にして、まことの人である」(カルケドン信条 451年、2性1人格論(共存しつつ2つの人格として分離せず、一つの人格である)と信仰を告白してきました。まことの人だからこそ全人類の罪を代表して背負うことができました。さらに人間の弱さや苦悩を理解できる大祭司となられました。まことの神だからこそ、全人類の罪を赦す権威をもっておられました。

まことの人だからこそ十字架の上で息を引き取り、墓に葬られました。しかし、まことの神だからこそ3日後に復活されました。まことの人だからこそあらゆる国の人々が共感し、弟子として従おうと志しています。まことの神だからこそ来るべき永遠の神の国の王として、すべての悪を完全に滅ぼし、世界をご支配なさるのです。

このお方以外に世界を救う名は誰にも与えられていない(使徒412)のです。すべての聖徒とともに、神の御子イエス、主キリストの御名をほめたたえましょう(ピリピ210-11)。

では、2000年後の現代に生きる私たちは、どのようにしてイエス様が神の御子であり、全人類の救い主、主キリストであることを知り、理解し、信じることができるのでしょう。使徒ヨハネは「証しするものが3つある。水と血と御霊である」(6)と記しています。

人間的な知識・理性だけでキリストを知ることも理解することも信じることもできません。それでは、せいぜい「教養としてのキリスト教」レベルにとどまってしまいます。書店で売られているキリスト教書物を立ち読みしているようなものです。フーンそうか!とまた本棚に戻して立ち去っていくレベルです。しかし私たちは何よりも聖書を通して「神の壮大な救いのドラマ、人類の歴史を貫くご計画を知ります。さらに、真理の御霊が教会の礼拝と宣教を通して豊かに働き、神のみこころを理解させてくださいます。なによりも真理の御霊は教会に集う者たちに「イエスはキリストである」(1)との信仰の告白へ導きます。ですから信仰そのものが、御霊を通して届けられる神からの最高の贈り物といえます。

宗教改革者のカルバンが「神が私たちの父ならば、教会は私たちの母である」といいました。教会という共同体、神の家族の中で、人知を超えた聖霊のお働きの中で信仰は誕生し、育まれ、成長し、どのような時代、どのような環境の下にあっても礼拝の民として神への礼拝をささげぬき、一人一人がやがて来るべきキリストの御国の希望を宣べ伝え、奉仕をささげ、その完成の時を待ち望むのです。自分にしかできない働きを、しもべとなってささげていくのです。御心が天になるごとく地でもなりますようにと。

2. 御子を持つ者は永遠のいのちを持つ

今日の箇所で、使徒ヨハネは、御子を信じる者は御子を持つ者と表現を置き換えました。もちろんここでの動詞の時制は「現在形」です。信じるということばは抽象的であってどれぐらい信じればいいでしょうかなどと、質的あるいは量的な尺度に関心が向きやすくなります。そこで使徒ヨハネは「持っているか持ってないか」「あるのかないのか」という尺度を提供しています。みなさん今、聖書をもっているかもっていないかは明白ですよね。持っているかもってないか、手にきいてみないとわからないという方はおられませんね。あなたは車の免許書をもってますか?答えはイエスかノです。持ってなければ車に乗ることは禁止され、持ってないのに運転すれば逮捕され罰せられます。ご主人を信じていますかと問われると口ごもる方もおられるかもしれませんが、ご主人を持ってますかと問われればイエスかノーかはっきりします。イエスはキリスト、私の救い主であると思う心があれば、信仰を持っているのです。それで十分なのです。その信仰にもとづいて水のバプテスマを受けた時、同時に聖霊がおりてきてあなたのこころに宿ってくださいます。聖霊はキリストの御霊ですから、信仰によって洗礼を受けた者はみな、聖霊を持ち、聖霊を持つ者はキリストを持つのです。そして、キリストを持つ者は「永遠のいのち」をすでにもっているのです。イエス様もヨハネから受けられた水のバプテスマを、あなたが理由なく拒む必要はありません。その理由もイエス様に信頼すればかならず解決します。

すでにと言ったのは、持つという動詞が現在形だからです。すべての人間は肉体のいのちをもっています。しかし、かならずしも、だからといってすべての人が永遠のいのちを持っているとは限りません。御子を持つ者が永遠のいのちをもっているのです。

13節で、使徒ヨハネは「あなたがたが永遠のいのちをもっていることをよくわからせるためです」と強調しています。何をよく理解してほしいと使徒ヨハネは願っているのでしょうか。

第一に、御子イエスを信じる者は、無条件ですでに、永遠のいのちをもっている、神から与えられているという祝福です。神がそのように決定されたのですから他に理由はありません。

第二は、このいのちは将来、天国で生きるためのいのちだけではなく、今の時を天国のいのちにふさわしく生きることができる「不思議ないのち」です。不思議ないのちと表現したのは、常識ではありえない考え方や喜怒哀楽の感情、あるいは決心という世界を生み出すからです。イエス様がその人の心の王座に座られるので、イエス様のように考え、イエス様にように感じ、イエス様のように決断して生きていくことを促すのです。

全日空のパイロットを辞めて神学校に入り牧師になった人、国家権力が強い時代、しかたがないで済ませていた民衆にかわって足尾銅山の重金属による公害事件を、怒りと正義に満ちて裁判で戦い抜い田中正三、
最愛の娘を病気で失いながら「るつ子さん、万歳」と葬儀で叫んだ内村鑑三、偏見や差別が激しかった時代に、頼病患者と一緒に寝た飯野十造牧師、戦後の混血孤児たちを預かって育てたエリサベツサンダーホームの澤田美喜、私たちの周りにもこのような天国のいのちに生きた人たちが多くいます。彼らは普通では考えらえないような生き方、考え方、行動、こころのあり方に自然体で生きていました。不思議ないのち、天国のいのちに生きていました

みなさんひとりひとりも、置かれた場所で、もうすでにそのように歩み始めていることを私は知っています。身近な生活の場の中で、生まれながらの古いいのちではなく、新しい天国のいのちに生かされて生きておられます。これからも生きてまいりましょう。キリストの再臨を待ち望むキリスト者に対する教えは、テサロニケの手紙の中でパウロによって端的に紹介されています。これが天国のいのちに生きているしるしそのものです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これがキリストイエスにあった、神があなたがたに望んでおられることです」1テサロニケ516-18

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