【福音宣教】 まったき愛は恐れを取り除く

使徒ヨハネは完全な愛についてこの手紙の中で繰り返し記しています。

1. 神は愛である(48)。神様のご本質は愛であり、安全な愛は神からあふれ出る(47)。

2. 神の愛は人間的な3つの愛(性愛・家族愛・友愛)とは異なるアガペーの愛であること。

3. アガペーの愛は、無条件で無償の愛、値しない者に与えられる愛(49

4. 神を見た者は誰もいないが、神の愛をキリストの十字架においてすべての人が見ることができる(412

5. 信仰告白によって愛の御霊が宿り、神との交わりに入れられる(415-16

5. 神にこれほどまで愛されたのだから、私たちも互いに愛しあおう。それはイエス様のご命令でもあるのだから(41121)。

6. 神にこれほどまで愛されたのだから、恐れではなく(418)平安をもって、勇気をもって生きよう。 今朝のテーマはこの6番目です。

1. 「神が」愛してくださった恵みに生きる 

神の愛は神の恵みとして与えられました。使徒ヨハネは「神が愛してくださった」(10)と、神のイニシャティブをはっきりと伝えています。したがって私たちは受けるだけです。なによりもそれは信仰によって「受ける」ものです。神の愛を「知識」や「経験」で受け取ろうとしても受けとめきれません。知識で人の愛を知ることは不十分です。「愛とは脳内ホルモンの化学反応です」といった青年がいました。人の涙を見て「H20+塩化ナトリウム」ですと分析するようなものです。また人間の「経験」で受け取ろうとすれば、直面する事情境遇によって「本当に神様は愛だろうか?」と疑いの雲が湧き上がってくることを経験することになります。「神の愛」は信仰によって受け取るのです。

愛という漢字は「こころを受ける」と書きます。生まれながらのままでは神の国を受け継ぐことができない失われゆく滅びゆく罪人のために、御子を十字架にかけて身代わりに死なせるほどまでして、赦しの道を用意してくださった神の深いみこころを受けいれていくことです。あなたのど真ん中で受けとめましょう。片隅においておくほど、価値の低いものではないのですから。あなたの人生の最大の宝なのですから。

さらに、受けとめるだけでなく、キリストにある神の愛をしっかり保ちましょう。だれも奪うことばできない愛をあなたが手放してはなりません。パウロにならって私たちも告白しましょう。「わたしたちの主イエスキリストにある神の愛からわたしたちを引き離すことはできません」(ロマ839)と。

2. 愛は恐れを取り除きます

私たちは無償の愛で愛されました。御子の十字架において罪の赦しが成就しました。御子イエスの血はすべての罪からきよめてくださいました(第1ヨハネ17)。 御子の血をもってしても決してゆるされない罪咎は存在しません。使徒ヨハネだけでなく、使徒パウロも「私たちはこの御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです」これは豊かな神の恵みによることです」(エペソ17)と確信し宣言しています。

だから、審判の日にも神の前に安らかに立てるのです。

ここで使われている「恐れ」(フォボス)は、恐怖という意味です。神を畏れ敬うという敬虔さとは異なり、最後の審判を恐れる恐怖を指します。なぜなら、罪を抱えたまま生まれながらのまま、来るべき最後の審判を受けるとすれば、そこに待っているのは「刑罰」であることを感じ取っているからです。神などいない、したがって天国も地獄もないと豪語しながらも、根底においては「恐れ」を人は抱いています。臨終の場で、「悪かった、すまん」と謝り続けていた人がいました。人は罪を抱えたまま、恨まれたまま、憎まれたままでは死ねないのです。イエス様も、マタイ25:46で「永遠の刑罰と永遠のいのちの分岐点」があることを教えています。

しかし、完全な愛は恐れを取り除く(駆逐する)のです。十字架において完全に示された神の愛を信じ、信頼するとき、もはや「罪の刑罰」はすでに取り除かれました。神の審判を恐れることからは解放されました。むしろ「恐れにかわって平安」がみちています。イエス様が約束してくださった「私の平安」とは、最後の審判の時に持つことができる平安なのです。

イエス様は約束してくださいました。「私が与えるのは世が与えるのとは違います。あなた方は心を騒がせてはまりません。恐れてはなりません」(ヨハネ1427)。

3. 愛は勇気を与えます

私たちの恐れの究極は「最後の審判」の刑罰ですが、その恐れは十字架の愛と赦しの下で、神の完全な愛によって取り除かれました。しかしながら、私たちはさまざまな「恐れ」に支配され、脅かされながら日々生きています。人間の悩みや心配や不安の80%は実際には起きないともいわれています。つまり「取り越し苦労」といっても良いかと思います。残り10%は起きたとしても心さえ落ち着いているならば自分の力で、あるいは周囲の人々の良い協力をいただいて解決できます。「残り10%もあるじゃないか」とますます不安を強める方もいますが、その背景には「100%の完全性を求める思考」が働いていると思われます。完全に0%の不安を目標にしてる限り、一生不安と恐怖の奴隷になることでしょう。残り10%の不安を抱えて生きていくことは私たちが弱さを学び、謙遜さを学び、神様への信頼を学ぶためにむしろ必要なことではないでしょうか。 人の弱さの中に神の恵みの強さが豊かに働くのですから、なお安心です。

イエス様は「この世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」( ヨハネ1633 )と約束してくださいました。悩みや不安の根底にあるのは「恐れ」です。その恐れの根底にあるのは「死の恐れ」。その死の恐れの根底にあるのは「最後の審判・刑罰の恐れ」です。キリストにあるならばその恐れからは解放されています。日常生活の中の様々な不安と私たちは向き合い、戸惑い、困惑し、悩み続けながら生きています。そんなときは、何が不安なのか、その根底にどんな恐れがあるのかを見極めることが知恵です。そして、確信しましょう。すでに勝利しているキリストがともにおられることを。このキリストが共に歩んでくださっているのです。私がキリストとともに歩むのではなく、キリストが私とともに歩んでくださっているのですから。

キリストの愛は、今もそして来るべき日にも、すべての恐れを取り除きます。

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