【福音宣教】 神を見た者はいないが、神の愛を見た者は多くいる

1)神を見たものはいない

神は霊ですから人間の目でみることはできません。もしこれが神様です、あれが神様ですと指さすことができれば、それは真の神様ではなく、木や石や銅を材料にして人間の手で作り上げた物言わぬ偶像にすぎません。祈りを聞くことも、手を差し伸べることも、罪を赦すことも、永遠のいのちを与えることもできません。

比叡山で行われる1000年の歴史を持つ「千日回峰」という命がけの修行があります。その中には、断食断水断眠断臥を9日間続けてお堂にこもってひたすら10万回真言を唱え続ける超人的な荒行があります。生きるか死ぬかぎりぎりの境地の中で、恍惚状態、トランス状態に入り「不動明王」を見るという神秘体験をするようです。特別な人にのみ限られた特殊な経験といえます。一晩徹夜するだけでもフラフラになってしまう私です。そこまでして不動明王を見たい、会いたいとも思いませんが・・。

使徒ヨハネは「真の神を見た者はひとりもいない」と断言しています。が、それだけではありません。使徒ヨハネは「御子イエスの中に父なる神を見ることができ、御子イエスの十字架の中に神の愛を見ることができ、さらに神の家族・教会の中に神の愛が完成されていく姿を見ることができる」とも語っています。

2)御子キリストの中に神を見ることができる

使徒ヨハネは福音書118「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」と記しています。神を見たいと願うなら、神の御子イエスキリストの中に父なる神を見ることができると教えています。栄光に満ちた神の御子が人となって人間にわかる人間のことばで、神のみこころを解き明かしてくださったからです。イエス様自身も弟子のピリポに「私を見た者は父を見たのである」(ヨハネ147-9 646)とはっきり教えています。

今日、私たちは聖書を通してイエスキリストのことばとご生涯を知ることができます。さらにキリストのことばを通して父なる神の御心をつぶさに知り、キリストの御業と十字架の死の中に父なる神の「愛」を知ることができます。見ることができます。

3)キリストを信じる者の中に神の愛を見ることができます

神を見ることはできませんが、神の愛を見ることはできます。どこで見ることがでいるのでしょうか。第一に、神の愛は御子キリストの十字架の身代わりの死の中に見ることができます。第2に、キリストを信じるキリスト者の中に見ることができます。第3に、信仰の共同体である教会の交わりの中に見ることができます。

先週、田原米子さんのお話をしました。彼女は2000年前のエルサレムの郊外のカルバりの丘に建てられたキリストの十字架の中に神の愛を見ることができたお一人です。今朝はストーン宣教師のお話をしたく思います。北海道の多くの人々が彼の身がわりの死、殉教の死の中に「神の愛」を見ることができました。

1954年台風15号が本州から北海道を通過しました。青館連絡船洞谷丸の船長は、台風を避け、青森港に待機していました。やがて、風もやみ、青空が上空に広がりました。台風が通過したと判断した船長は船の出発を命じました。まさか台風の目にすっぽり入っていたとは誰も予測できませんでした。数時間後、荒れ狂う波に襲われSOSの救助信号も空しく洞谷丸は沈没しました。死者115⒌名を出す、タイタニック号に次ぐ最悪の海難事故はこうして起こりました。その時、この船に日本人を心から愛していたカナダの宣教師が乗り合わせていました。彼の名前はアルフレッド・スト-ン。海に投げ出された彼の目の前に、救命具もつけず溺れかけている若者がいました。スト-ン宣教師はいのち綱とも言える自分の救命道具を外し、彼に手渡しました。「私はすでにキリストを信じ永遠のいのちを与えられています。あなたがもし助かったなら教会を訪ねてみてください」と彼に伝え、讃美歌を口ずさみながらやがて波間に消えていきました、2日後、宣教師の遺体が岸に打ち上げられていましたがやすらかな顔だったそうです。

嵐の中にあって、自分の命と引き換えに一人の若者を救ったスト-ン宣教師の愛は北海道の人々に大きな感激を与え、キリスト教会の進展に結びついたとも言われています。

使徒ヨハネは神を見ることよりももっと優れていることは、「神が私たちの中にとどまっておられることを知ること」(13)と語っています。なぜなら、神がわれわれの中におられるから、我々は互いに愛し合うことができる。そして、互いに愛し合う中に「神の愛が全うされていく」(12)姿を、世の人々が見ることができるからだと語っています。

ストーン宣教師のように生きることを神様はすべての神の子供に求めておられるわけではありません。しかし、神様はすべての神の子供たちに、新しい神の家族としての教会の交わりにおいて、「互いに愛し合いうべきだ」と強い命令形で求めておられます。教会の中に、言い争いが起き、あちらこちらで悪口陰口が飛び交い、お互いが反目し合い、冷たい雰囲気が漂っていたとしたら、「教会の中に神の愛」をみることなどできません。キリスト教会ではなくキリステ教会に陥ってしまいます。

おどろくことに、神様は「神の愛」の完成を、私たちにお任せになりました。「神の愛を完成し、神の愛を世に現す」という大きな役割を私たちに任せられました。私たちはお互いにわかっています。本当は愛のない者、愛の薄い者であることを。そんな、愛の乏しい、私たちのようなものに任せておいて果たして大丈夫なのでしょうかと、思わず神様にお聞きしたくなります。「うーん、やっぱり無理か・・」と神様は顔をくもらせるでしょうか。いいえ、神様はこう思っておられことでしょう。「もちろん、大丈夫だ。心配していない。なぜなら、すでに私は愛の御霊をあなたに、そしてあなたがたの中に贈り物として与えたからだ」と。
「愛を完成するため」などと聞くと私たちは身構えてしまいます。私たちが熱心に一所懸命、努力してそうしなければならないと思ってしまうからです。

神様は「愛の御霊」(ロマ15:30)を教会に贈ってくださいました(13)。みなさん、普通、贈り物をするとき、箱に入れラッピングしてお届けしますね。御霊の贈りはすべての教会にすでに神様からの贈り物として届けられています。届けられているのにまだリボンをほどいていない、包装を解いていない、箱をまだあけてさえいないままで、置きっぱなしにしているケースがあるとすればもったいないことです。神様はがっかりされることでしょう。

すでに神の愛の御霊は届けられています。神はここにおられ、私たちも神の中にいます。そして、愛の御霊がときはなたれていくところに、和解が生まれます。怒りや憎しみや妬みやつまらぬ競争意識などは消え去っていきます。愛の御霊は、神の愛を私たちの心に注ぎ続けてくださるからです。「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ロマ5:5)

「アッシジのフランチェスコの平和の祈り」がカトリック教会とプロテスタント教会で受け継がれています。 私たちもともに祈りましょう。こころが騒ぎ経つとき、こころに怒りがこみ上げるとき、ねたみにこころがとらわれるとき、他人の冷たいことばやしうちに深くこころが傷ついたとき、御霊の神に信頼しつつ、この祈りを祈りましょう。御霊の愛を待ち望みつつ。

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。憎しみのある所に、愛を。侮辱のある所に、許しを。分裂のある所に、和解を。誤りのある所に、真実を。疑いのある所に、信頼を。絶望のある所に、希望。闇のある所に、あなたの光を。悲しみのある所に、喜びを置かせてください。主よ、慰められるよりも慰めることを、理解されるより理解することを、愛されるよりも愛することを求めさせてください。

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