【福音宣教】神は愛だからです

使徒ヨハネは「愛は神から出ています」(7)と、愛の源泉は神にあること。さらに「神は愛です(8)」と神のご本性を非常に明快に宣言しています。ちなみに、あなたからどのような良いものがあふれでますか? あるいは、あなたの本性はなんでしょうか?と尋ねられた時、「愛です」と答えることができる人はどれほどいるでしょうか? 教会学校に来ている子供が「僕の中には天使と悪魔がいるので困っています」と正直に言いましたが、私たちも同じでしょうね。使徒ヨハネは「神は光です。そこには闇はひとかけらもありません」「神は愛です。完全な愛以外になにも存在しません」と確信をもって宣言しています。

1.     使徒ヨハネは「神のご本質は愛です」と宣言します。

神は罪を憎まれますが罪人を愛してくださっています。神はこの世界を神から引き離そうとするサタンを憎まれますがこの世界を愛してくださっています。そこに住む一人一人を最後の極みまで愛しぬいてくださっています。「神も仏もある者か」と絶望する人がいますが(仏がおられるかどうかは私にはわかりませんが)、愛の神はおられ、「私の目にあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と、真実な愛をもってあなたを見守っておられます。

人間は世界中に神に似せた多くの偶像を造りだし、拝み続けてきました。しかし世界最大の偶像は「愛を神」とすることであったと言えます。愛は神ではありません。愛を偶像化してはならない。もし愛が幸せをもたらすと信じ、「愛を神とする」ならば、その愛は憎しみやねたみに豹変しあなたに苦悩と災いをもたらすことになるでしょう。私たちは「神は愛」であることを学ばなければなりません。そして、一度限りの人生で、神は愛に満ち満ちたお方であることを知り、神の愛を知り、神の愛に生かされる喜びを経験できるならば、それを「幸せ」と呼ぶことができるのです。

こうお話しすると、神が愛であるならその証拠はどこにあるの? 今はやりのことばでいえば、神が愛である「エビデンス」を示してくださいと質問したくなるかもしれません。次週の聖書個所(第1ヨハネ49-10)と宣教で、こころを込めてお伝えしたいと願っています。

2.     次いで使徒ヨハネは「神から生まれた者は、互いに愛し合います。なぜなら神は愛だから」と語っています。

キリストを信じた人々をクリスチャンといいますが、これはシリアのアンテオケで異邦人たちがつけた「小さなキリストたち」というあだ名です。使徒ヨハネはむしろ「神から生まれた者たち」と表現しました。このことばは信仰により洗礼を受け、キリストの御霊によって新しく誕生し、神の国を受け継ぐ神の養子とされた人々を指します。信仰によってキリストと結び合わされた人々は、なによりも互いに愛し合う親しい「兄弟姉妹」となります。なぜなら、神は愛だから神から生まれた者たちもまた愛し合うことがごく自然なことだからです。

使徒ヨハネは兄弟姉妹が互いに愛し合うすがたは、彼らが神を信じ、そして神を知っている、経験していることの何よりの証拠であると強調しています。もし愛し合うことができないなら、それは「神を知っていないからだ」(8)とさえ言っています。先週学んだグノーシス派と呼ばれる異端は、自分たちは特別な知識を持ち神を知っているのだと誇りながら、その共同体には愛の交わりが見られなかったためです。

つまり、「神は愛です」の実践的なエビデンスの一つは、「兄弟姉妹が互いに愛し合う中に見ることができる。それがキリストの教会の姿だ」と使徒ヨハネは大胆に語っているのです。J・スナイダーは講解書(NTD)の中で「愛をなおざりにするものはその事実によって神についての本当の知識をもっていないことを自ら暴露している」と手厳しく指摘しています。つまり、神を知っていることと神の愛に生きていることは一体なのです。

宗教改革者のカルバンは「信仰を愛と切り離すことは、太陽から熱を奪うようなものだ」(注解書)とうまく表現しています。冷えた太陽、凍える太陽であってはなりません。私たちの実際生活、家庭の中で、信仰を分かち合う家族の中で、冷えた太陽になっていないか静かにふりかえりましょう。こうお話しすると「私の信仰はダメだ。いつも腹を立て、文句を言い、愚痴をこぼし、喧嘩ばかりして・・」と落ち込むクリスチャンがいるかもしれません。でも安心しましょう。クリスチャンの中から愛がなくなることはありません。愛が奪われてしまうことはありません。なぜなら「神は愛だからです」、愛の供給源が神だからです。太陽を雲が隠してしまい光や熱をさえぎり、曇り空や雨や雪を降らすかもしれませんが、あくまで一時的です。雲の後ろには太陽がいつも輝いています。私たちが、互いに愛し合うのは命令されたからでもなく、強制されているからでもなく、それがごく自然なことであり、普段着のままの愛のありかただからです。なぜなら神は愛だからです。

3. 最後に、どんなときも神の愛に身をおきましょう。

なぜ、どうしてと思うこと、わからないことがあっても、「きっと大丈夫だ」と告白しましょう。なぜなら「神は愛だから」。神は愛だから、悪いようにはされない。ここに大きな平安があります。

もし神が愛でなかったらどうなるでしょう。神がおそろしい裁きと刑罰を与える神であったら、あるいは神が気まぐれで気分屋であったら、あるいは神がなんのご計画ももたず場当たり的なことしかなさらない無力で無知なお方であったら、私たちが生きるこの世界はとても耐えられない世界になってしまいます。安心や安らぎなどどこにも見出せない世界となることでしょう。確かに何が起きるかわからない世界に私たちは生きています。もし信仰がなかったら、私たちは何が起きてもよいように、自分の蔵を穀物で満たすだけ満たして、それでも心配でさらに蔵をいくつも建てて安全安心を担保しようとする愚かな人物(ルカ1216-20)をそのままを演じることになるでしょう。他の人のことなど構う心の余裕もふっとぶことでしょう。兄弟愛などどこ吹く風。考えるのは自分のことばかりです。

でも信仰によって私たちは、置かれた状況が何であっても、それでも前向きに明るく生きていくことができます。なぜなら「神は愛だから」と信じているからです。私を愛してくださっている神は、最善以外はなさらないと信じ信頼しているからです。

旧約聖書の詩人は「あなたは善にして善を行われます。あなたの定めをわたしに教えてください。」(詩篇119:68)と信頼しました。英語では「You are good, and do good」と表現されています。神は良いお方であり、良いことへと導いてくださる。最悪と思うことを最善だったとの感謝に変えてくださることができるのです。

「なぜなら神は愛だから」この一言は、神の子供たちの合言葉ではないでしょうか。最大の励ましと勇気づけのことばです。私たちには多くの悩みがあり心配があります。なんの悩みも心配もありませんというなら嘘です、ごまかしです、自分に不誠実です。

「あれもこれも心配です、悩んでいます。でも、大丈夫です。なぜなら神は愛だからです」これが神から生まれた神のこどもたちの誠実なことばであり、偽りのない信仰の声です。世の多くの人々はこの信仰の声をクリスチャンの中に、教会の中に聞きたいと願っているのではないでしょうか。 

さあ、目を輝かせて告白しましょう。「神は愛です」と。

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