【福音宣教】 こころの眼を開いて

最近、偽メールや詐欺メールによる被害が急増しているそうです。郵貯からは「~偽のお荷物不在通知メールやSMSにご注意~」、通信販売のアマゾンからも「商品代金・有料コンテンツ料金が未納になっている未納料金の請求、クレジットカードの有効期限切れの内容など」の偽メールに注意。いずれも受け取った側の不安を煽り、すぐ対応させるような手口だそうです。あわててクリックすると個人情報が抜き取られるというハイレベルな騙しのテクニックが使われているので注意してくださいとアナウンスされています。

キリスト教会の中でも、日本福音同盟経由で各教会に異端と呼ばれているキリスト教カルト集団がコロナ禍の中で活動を活発化にしているので注意してくださいとの連絡が入っています。この異端グループは、クリスチャンを目標に勧誘し、彼らの教えを信じなければ地獄へ行くと脅し、不安をあおるそうです。皆さんは決して騙されてはいけません。イエスキリストを信じること以上に、神様は何もお求めになっていません。これを信じることが福音に立つ信仰なのです。本当に信じるだけで大丈夫か? 神様は本当にそういったのか?と、疑わせ、不安をあおり、何かをしなければならないと「行いによる救い」へと誘惑する人々を聖書は昔から、偽預言者、偽教師と呼び、その教えを異端として退けてきました。

使徒ヨハネは「すべての霊を信じるのではなく、神からのものかどうか試しなさい」(1)と注意しています。神から生まれた神の子どもたちは「真理を語る使徒たち」の教えに聴き従い、この世の子らは「偽りを広める偽預言者」の教えになびいていくので、真理の霊と偽りの霊を見分けることができる(6)とも結論づけています。

神から生まれた者たちは「人となったイエスキリスト」を告白します。同時に「神の御子であるイエスキリスト」を告白します。つまりまことの人であり・まことの神であるイエスキリストを信じ、告白します。使徒ヨハネの時代に大きな影響力を持っていたのはグノーシス派という異端でした。ギリシャ的な霊肉二元論の影響を受け、霊は永遠で聖なるものであるが肉体は一時的であり汚れたものである。したがって肉体は霊を閉じ込める牢獄にすぎない。キリストが神の子であるならば、卑しい汚れた肉体を取られるはずがない。キリストは人となってこの世界に来られたのではなくナザレのイエスという人間に仮に入られただけで、十字架につく前にキリストを離れたと主張しました。

聖なる神の御子が卑しい人間となられるはずがない、神の御子が十字架につけられ傷を受け苦しまれるはずがないと言うのです。結局、イエスキリストの人間性・歴史性・そして十字架の死も復活もすべて否定してしまうのです。理解しにくい教えですが、精神や霊は聖いが肉体は汚れている。だから肉体を痛めつけて精神にふさわしくストイックに生きるべきだとも、反対に肉体はもともと汚れきっているので罪や快楽におぼれても精神はなんら影響を受けないという享楽主義の温床ともなりました。目に見える肉体と目に見えない精神は別の存在と切り分ける二元論立場に立った考えが最大の特徴です。暴飲暴食をして健康管理はゼロ、体はメタボになっていても、心は聖いからなんら問題なしと言い訳をする主張と似通っています。使徒ヨハネの時代のギリシャ・ローマ人の人生観や日常生活や宗教生活に、大きな影響を与えていました。

もちろん、旧約聖書を信じるユダヤ人にとっては、肉体も霊魂も一つの存在でした。神様は「土のちり」で人を創造されたが、いのちの息を吹き込んで「生ける者」とされました。肉体と魂は一体として神によって創造されました。それゆえ、わがうちなるすべてのものよ、神をほめたたえよと旧約の詩人は賛美しています。「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ」(詩篇103:1)。こころ、思い、力を尽くしてあなたの神である主を愛せよと教えられています。福音に生きる私たち、神の御霊に導かれた私たちもイエスキリストを信じ、彼が神の御子であると告白し、キリストを主と仰いで、彼の声に聴き従います。そこには霊肉二元論が入り込む余地はありません。

日本においては、多くの人々を支配している考え方に「汎神論」「多神教」があります。宗教学者の島田裕巳氏が興味深い論文を発表していました。東南アジア諸国で日本のキリスト教が1%の壁を越えられない理由の一つは、「多神教の国であって一神教が根づかないため」と分析していました。遠藤周作が代表作「沈黙」の中で棄教したポルトガル人神父に「この国はなにもかも腐らせてしまう泥沼のような存在だ」と言わしめていると指摘しています。土着宗教であった神道の神々を外来仏教である仏教は排除するのでなく飲み込み、混ぜ合わせて「神仏習合」なる新しい形態を作りあげて、朝廷から貴族、武士階級最後には庶民まで取り込んでしまったと分析しています。

神様も仏さまも多くあるほうが安心できる。一つでは心もとない。姿、大きさも様々のほうが楽しく極楽っぽいと感じ取っています。「ただ一人の神様だけしか信じないというのではなく、いろんな神様とみんなで仲良くくらしたらいいのに」と、教会学校に通う小学生が言ったことばが典型的で印象的でした。ですから上手に神様を四季折々の用途に応じて使い分けていく。しかも神様に期待するのは「ご利益」であって、あまり効き目のない神様であればやがて取り換えられていく。いいかえれば結局は「神様中心」ではなく「人間中心」の世界なのだと言えます。

その中で、唯一の神、ただ一人の救い主、人となれた神の御子を生涯信じて歩んでいく。私たちの信仰は日本社会の中では独自の歩みなのだと思わされます。しかし狭くてもこの道を歩みましょう。

イエス様はあるとき弟子たちに尋ねました。世の中の人々は私のことをいろいろ噂しているようだが、お前たちは私を誰と思うのか?と。するとペテロは「あなたは生ける神の御子、キリストです」(マタイ1616)と告白しました。イエス様はその時、「このことを明らかにしてくださったのは天にいます私の父である」と、ペテロの信仰の告白を喜ばれました。人間的に言えば、母をマリアとするナザレの大工の息子で30歳の若者、6人の兄弟姉妹(マタイ1355)がいる貧しい家庭の長男として汗水流して肉体労働に耐えて家計を支えたイエス様、「食いしん坊の大酒飲み」(マタイ1119)とも批判されるような庶民的なイエス様を、「人となられた神の御子であり唯一の救い主」であると告白できたのは聖霊の導きにほかなりませんでした。よくよく考えれば、何で信じたのかわからないけれど、信じて平安を得て日々歩んでいるのは事実です。不思議と言えば不思議ですね。

聖書は告げています。神の御子が人となってこの世界に来なければ、誰も救われないほど深刻な危機的状況にこの世は陥っていたと。神が遣わされた多くの預言者たちの声に聴き従わず、滅びの道を進んでいたと。そのために、最後の切り札として、ついにひとり子なる御子をこの世に遣わしてくださったと。 使徒パウロは「キリストは神の御姿であられる方なのに、神のありかたを捨てることができないとは考えないでご自分の無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」(ピリピ26-7)とキリストの真実を伝えています。

神の御子が世界に何人もいるわけではありません。救い主を何人も必要とするわけではありません。神の御子キリストがただ一人、そしてただ一度だけ、人となってこの世界に来られ、全人類の神への背きの罪を背負いきり、身代わりとなって刑罰を受け十字架にかかって死んでくださった。そして約束通り死の力を打ち破って復活された。永遠のいのちを与えることができる唯一の救い主としてご自身の神性と権威を明らかにされたのでした。

このお方が宣言されました。「私が道であり真理でありいのちなのです。誰も私によらなければ父のみもとへ行くことはできません」(ヨハネ146)と。

ですから、私たちはこれからも歩みましょう。この道を、唯一の救い主である神の御子キリストとともに。

 「永遠のいのちとは彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエスキリストを知ることです」(ヨハネ173

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