【福音宣教】 罪をとりのぞくために来られたキリスト

おはよううございます。

今日から教会は高齢者対象の午前礼拝と一般成人対象の午後礼拝を開始します。マスク越しですが皆様のはずむような声と笑顔が爆発している様子が礼拝前から伝わってきています。できうる感染防止体制は十分に整えました。皆様の高い公衆衛生意識とご協力をいただきながら7月からの通常礼拝へさらに近づくことができますようにお祈りしましょう。4月のイースター礼拝後、ほぼ2か月振りの礼拝となりました。あたりまえのように礼拝をささげ、語り合い、食事をともにしていましたが、「ふつうのことが特別のことであったこと」を実感させられた日々でした。キリストにあって、もうしばらく忍耐しましょう。

1. 罪の中を歩み続けません

本日の中心聖句は、「キリストのうちにとどまる者は罪のうちを歩みません」(6)です。 なぜなら、キリストがあらわれたのは罪を取り除くためであったから(5

「神から生まれた者は罪のうちを歩みません」(9なぜなら、神の種がその人の中にとどまっているからです(9

使徒ヨハネはユダヤ人でしたから彼の手紙にも、ユダヤ教の文学的伝統にならって、大切な内容を、ことばを替えて繰り返し強調するという特徴が用いられています。

神の御子キリストがお生まれになった目的はただ一つ。十字架で罪のみがわりの死・あがないの死を遂げるためでした。罪(複数)を「取りのぞく」と訳された動詞(アイロー)は、一度限りの決定的できごとを指す時制が用いられています。私たちは自分が長生きをし、幸せになるために誕生します。ですから、子の誕生は両親にとっても祖父母にとっても喜びとなり、お祝いとなります。しかし、イエス様は十字架の上で死ぬために誕生し、自分のためではなく他の人々を永遠の幸福に導くためにお生まれになりました。父なる神様にとってそれは深い悲しみでした。父なる神様の愛には犠牲が伴いました。

御子の誕生と苦難はすでに700年前にイザヤによって預言されていました。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ534-5

キリストの誕生後、最後の預言者とされたバプテスマのヨハネは、イエス様を指さして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ129)と群衆の紹介しました。イエス様自身もナザレの会堂でイザヤ書を開き、「主は私を遣わされた・・きょう、聖書のこのことばがあなたがたが聞いた通り成就しました」(ルカ418-21)と最初のメッセージで宣言しました。中痛の病人に対して、彼を癒す前に「あなたの罪は赦された」と宣言したため、イエス様を批判する律法学者が激しく非難しました。イエス様は、「病気を治すのと罪を赦すのとどちらがやさしいか」と尋ね、ご自身が罪を赦す権威を与えられた救い主であることを告げました。イエス様は33年半の聖い生涯を全うし、十字架の上で「すべてが成就した」(ヨハネ1930)と勝利を叫ばれ、霊を父に委ねて息を引き取りました。こうして贖いの完全成就を宣言されました。このイエス様を信じる者は罪の中を歩み続けることはできません。

何一つ罪をおかされなかったかたを「わが主、わが師」と仰ぐクリスチャンは罪を犯すことはできないのです。

さらに使徒ヨハネは「神から生まれた者は罪のうちを歩みません」と、他の表現で繰り返し強調しました。神から生まれた者とは、キリストを信じ、キリストの名によってバプテスマを受け、キリストにあって新しく誕生した者、新生したクリスチャンを指します。「誰でもキリストのうちにあるならその人は新しく造られたものです」(2コリ517)と使徒パウロは宣言しているとおりです。

新しい人と古い人の違いはどこにあるのでしょう。古着と新品の服とはどこがちがうでしょうか。「使い古して色あせほころび、へたっているかどうか一目で違いはわかります」と答えることでしょう。ところが、生まれながらの古い人とキリストにある新しい人、両親から生まれた肉の人と神から生まれた神の子との違いは、外見ではわかりません。決定的な違いは「神の種」(原語は精子を指すことばです)がとどまっているか否かです。

多くの学者が、神の種とは「聖霊」を指すと解釈しています。もう一人の助け主である神の霊・聖霊を「父はあなた方にお与えになります」(ヨハネ1416)と、イエス様は弟子たちに約束してくださっています。すべてのクリスチャン、すべての神の子どもたちは信仰によってすでに「神の御霊」をいただいているのです。「キリストの御霊を持たないものはキリストのものではありません」「神の御霊に導かれる人は誰でも神の子どもです」(ロマ8914)と使徒パウロもはっきりと断言しています。何一つ罪をおかされなかった神の御子イエス様の御霊を受けているのですから、しっかりとどまっているのですから、罪をおかし続けることはあり得ないのです。

Ⅱ 罪とは律法違反です 

罪をおかさないとは何一つ罪をおかさないという「完全性」をさしているのではありません。神の子どもたちでさえ失敗し、あやまちをし、しくじり、良心が傷み、日々の悔い改めを必要としています。

罪をおかさない、罪の中を歩まないと訳された動詞は「現在形」の時制が用いられていますから、罪をおかし続けることはないという意味になります。継続的・反復的・常習犯ではないという意味になります。罪を愛し続ける、「罪と手を握って、罪の中にあぐらをかいて生きている」(岸義紘)ことを意味しません。この動詞の用法への理解は大切だと思います。

感染防止のための「3つの密(密閉・密集・密接)を避けましょう」の標語はわかりやすく心に残りました。罪は、聖書的に3つの内容に分類できます。法律違反としての犯罪、恨み・憎しみ・軽蔑・無慈悲といった道徳的違反としての精神的罪、さらに神のご意志に反する根本的な背きの罪(原罪)の3種類があります。ヨハネは特に「罪」とは「不法」「律法に逆らうこと」(4)ですと強調しています。もろもろの道徳的罪以上に、旧約聖書が教える最大の罪、律法違反、不法とはなんでしょう。「神を愛さない」ことです。「心を尽くして主である神を愛せよ」(申命65、マルコ1229-31)との戒めに反することです。

こころを尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。律法という画一的な基準に則るのではなく、あなたに対する聖霊の導きに従い、あなたにしかできない「心を込めた」「ベストを尽くした」精いっぱいの愛で、神様を愛すること、これこそが私たちが生涯、もっとも大切なこととして保持しつづけるべき「神の戒め」なのです。~してはならないことを厳守するのでなく、~するべきであることを積極的に実践し続けることが神から生まれた「神の子」たちの歩みであることを覚えましょう。

それは、あなたのベストを尽くして神を愛すること、神に祈ること、神と語り合うこと、神に信頼すること、神に仕えることにほかなりません。

今日から、ともに集う「礼拝」が新しくはじまりました。共に集い、「神を愛する」日々を今日からまた新しい思いで、歩みださせていただきましょう。 主の栄光を仰いで。                  以上 

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