【福音宣教】ヨハネ第一の手紙 2:12-17 子たち、父たち、若者たちへ

2020年4月5日                                                                           

今日の聖書の箇所で、使徒ヨハネはキリストを信じ教会につながっているすべての信徒に対して、子供たちよ(12)、父たちよ(13)、小さい者たちよ(14)、若い者たちよ(14)と呼び掛けています。それぞれの世代に対して、この手紙を書き送る理由と目的を「罪を赦されたから、初めからおられるかたを知ったから、御父を知ったから、悪い者に打ち勝ったから」と、記しています。日本語ではこれらの動詞はすべて過去形になっていますが、原文では現在完了形ですからその出来事が現在もずっと継続していることを意味しています。使徒ヨハネの世代に応じた細やかな配慮と励ましを順にみていきましょう。

1. 子たちよ

「子たちよ」とは子供を指すのではなく信徒全体を指します。キリストを信じるすべての神の子たちに対して愛情をこめて語り掛けているのです。キリストを信じる者たちの信仰と生活の基盤は「罪の赦し」にあります。カルバリの丘の十字架のあがないこそがキリスト者の原点です。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(17)この神の宣言に信頼をおきましょう。十字架から信仰は始まり、そして十字架へと戻るのです。私たちの信仰生活は手漕ぎボートで湖を渡るようなものといえます。強烈なエンジンを積んだモーターボートを操縦する人は前方つまり行き先を見て進みます。いっぽう手漕ぎボートに乗る人は自分が出発した岸を見続けながら行先を背にして櫓を漕ぎます。そうです! 私たちはどこから救い出されたのか、神が私のために2000年前にすでに何をしてくださったのか、そのことを生涯忘れず、見つめ続け、感謝して生きることが信仰です。十字架の恵みへの感謝なき信仰は、たやすくご利益信仰へと変質してしまうことでしょう。

「すべてが完成した」と十字架の上で、罪の赦しを宣言し、いのちまで捨てられたお方は、神の御子イエスキリストただお一人です。それゆえ私たちは「主イエスの聖名」を「キリストの御名」を誇り、いつも喜ぶのです。あなたが誇りとするものはなんでしょうか。あなたはキリストをあなたの誇りとしていますか? 

2. 父たちよ

ヨハネは教会のメンバーを信仰生活の年数あるいは信仰の成熟さから、父たち、若者たち、(小さき者は信徒の別名あるいは幼い子供たちか・・)に分けて、語りかけています。

父たちとは、信仰の経験を重ね成熟した信徒を指しています。彼らは信仰の「初めからおられるお方」(13)、つまり救い主キリストと出会い、彼の恵みを豊かに「知った」人々です。ここで用いられている「知った」は単なる知的理解ではなくそれ以上のもの、実生活の中で経験し、味わうことができたキリストとの個人的人格的な交わりを意味しています。1章1節の経験をし、キリストとの豊かないのちの交わり(1章3節)を保ち続けている人々です。主の招きの御声を聞いてキリストに従った、苦難の中で主イエスが祈りに答えてくださった、深い悲しみのどん底でキリストの慰めを得ることができた、主は約束通り私の人生を導き続けてくださっていると、人生を振り返って、キリストの恵みを数えることができ、しかも自分のことばで証しできる人々を指しています。やがて天に帰るその日に、「彼はキリストとともに生きた」と、彼が眠る墓碑銘に刻まれるとするならばなんと幸いなことでしょう。聖書は教えています。

へブル116「信仰がなければ神を喜ばせることはできません」

へブル1113 「彼らは信仰の人々として死にました・・。地上では旅人であることを告白していたのです」

信仰の父たちと呼ばれる人々の特徴は、2章15-17節に記されているように、世と世にあるものへの執着を離れ、神のみこころを行うことを何よりも生きがいとし、喜びとする幸いな人生の旅路を歩み続けている姿といえます。年をとってもなお、「お金だ、名誉だ、りっぱな邸宅だ、お酒だ、ギャンブルだ」と、この世の楽しみにとらわれて生きている人々はすくなくありません。成熟したキリスト者はそのような生活から解放されています。地上のものを宝とし誇りとして生きることのむなしさを知ったからです。欲を抱いて地上のものにしがみついている不自由な生き方ではなく、信仰を抱いて天を見上げてとらわれない自由な心で、神と共に生きる喜びを味わったからです。

3. 若者たちよ

次に若者たちに対して、あなたがたは「悪しき者に打ち勝っている」とヨハネは強調します。この場合、悪しき者は「サタン」を意味します。「サタンは信徒の本来の敵対者であり、神の敵であって、イエスの集会を滅ぼすことに全力を傾ける」(ヨハネス・シュナイダー NTD)と表現される存在です。いつの時代であってもサタンのターゲットは若者たちです。若者たちとは、信仰のまだ浅い人々あるいは将来が託されている教会に集う青年たちを指すとも解釈できます。若者の人生は選択と決心とチャレンジに満ちています。その選択とチャレンジは成功することもあれば失敗することも同じように多くあることを意味します。失敗し挫折しやすいからこそ霊的な「励まし」が必要なのです。年寄りは長生きした分、多くの罪、過ちをおかしてきましたから、罪の赦しを学ぶことが必要ですが、若者たちには失敗し挫折しても再び立ち上がっていく「ほんものの力」を得ることが必要です。誘惑や失敗や挫折や傷つきから立ち直っていく人生のほんものの力が若者には必要なのです。その力は決してこの世の楽しみや持ち物の豊かさから得ることはできません。「神のことばをこころにとどめる」(14)ことから生み出される力なのです。そうすることでサタンそのものに、そしてサタンがもたらす様々な困難や苦難にも「打ち勝ち」、勝利することができるのです。イエス様自身も荒野でのサタンの誘惑に際して「サタンよ退け。聖書にこう書いてある」と宣言し退けました。イエス様はみことばに立ち、サタンの持つ罪と死の力をも十字架と復活によって打ち破られ、サタンに決定的な敗北をもたらしました。すでにキリストは勝利したのです。  ヨハネ1633 「あなたがたはこの世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

このキリストのことばを胸に刻み付けましょう。いつでも心の中にこのキリストのことばを響かせましょう。人の励ましや勇気づけもあなたを支えてくれますが、残念ながら人は最後まであなたを支え切ることはできません。「この世のものはみな過ぎ去る」(17)という原理に支配され、限界(リミット)があるからです。しかし、こころに植え付けられた神のことば、キリストのことば、聖霊があなたに語りかけてくださるいのちのことばは、あらゆるリミットを破り、あなたを解放し、あなたを励まし、勇気づけ、強め、試練から立ち上がらせてくださるのです。

神はあなたを、「青銅の弓矢を引く」勇士にしてくださるのです。戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。」(詩篇18」34) 

若者たちよ、みことばをつかもう。この世のものをつかんでもそれは「豆腐」をつかむようなもので、握れば握るほど崩れてしまいます。ヨハネは「神のことばがあなたがたにとどまっているとき、あなたは強いものとされているのだ」と語っています。私もそれをあなたに伝えたいと思う。若者たちは経験に乏しく未熟で弱い者かもしれません。しかしヨハネは「あなたがたは強い者だ」と断言しています。なぜでしょう。あなたがたとえ弱くても、キリストを信じたあなたの中に「すでに世にもサタンにも罪にも死にも打ち勝った」勝利者であるキリストが住んでくださっているからです。キリストはあなたの脳みそ(キリスト教知識)を住まいとしているのではなく、キリストを信じキリスト愛するあなたの熱い魂(信仰心と人生)を住まいとしておられるからです。

神のことばと、キリストの内住これがあなたを守り、強め、勝利者としてくださるのです。世と世にあるものにこのいのちの力はありません。最後に、神のことばをお聞きください。

「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(申命31:6)                

                                                                                                          以上

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