【福音宣教】ヨハネ第一の手紙 2:7-11 憎しみの淵に橋を架ける

2020年3月29日                                                                           

ヨハネは「私たちは御父およびイエスキリストとの交わり(13)に招き入れられた」と、なにごとにも替えがたい喜び、祝福を語りました。次いで「神との交わり」に招かれた者たちは「教会における交わり」の中でその恵みをいっそう実感し、分かち合うことができると教えています。教会の交わりは神の国の交わりでもあるからです。

1. 愛する者たちよ

ヨハネは教会における信徒同士の交わりを「兄弟愛」と呼んでいます。むろん姉妹がたも含まれますから「ひがむ」必要はありません。「兄弟」(Aδελφόςアデルフォス)の女性形を「姉妹」(Αδελφήアデルフェー)と言います。語尾が変化するだけで使い分けており、一家を形成する親しい仲間の間でお互いを呼ぶときに使われました。

教会の交わりの中ではさらに「兄弟愛」を指す、philadelphia(フィラデルフィア)という言葉が使われました。このギリシャ語は、フィレオー(愛する)と、アデルフォス(兄弟)から成っており、「愛する兄弟」という意味で、いっそう丁寧な表現になっています。

 ヨハネが7節で「愛する者たちよ」と呼びかけていることばは「Beloved」(愛されている者たちよ)という意味です。それは「神に愛されている」者たちよという深みをもったことばです。「ヨハネが愛している」人々というより、ほかならぬ「神に愛されている」人々という意味です。この世界に神に愛されることなく生まれてきた人は一人もいません。創造主なる神の愛のみ旨と御手の中で生まれてきたのです。神に愛されることなくして人はこの世に誕生しません。ヨハネは「互いに愛せよという」兄弟愛について語りますが、兄弟を愛する前に、私が「神に愛されている」という事実を知り、喜び感謝することが前提とされているのです。教会に来て聖書を学ぶまで、「神に愛されている」なんて一度も思ったことなどがないお互いではなかったでしょうか。ネグレクトや虐待で深い傷を抱えた子供も少なくありません。厳しい境遇の中で、神も仏もあるものか、神にも運にも見放されたと、神をうらんだことも・・。でも教会に導かれ、神に愛されているんだ、このまま受け入れられているんだと知って驚きと共に安心感が心に満ちてきたのではないでしょうか。神のもとにある深い「安心感」、これこそ教会の宝ではないでしょうか。

2. 新しい命令

兄弟愛、これはイエス様が弟子たちに教えてくださった命令です。「私は新しい戒めを与えます。互いに愛しあいなさい」(ヨハネ1334)。旧約時代にもすでに「神を愛し、隣人を愛せよ」と律法に命じられていましたからまったく新しい命令ではありませんでした。ではなぜ新しい命令といったのでしょうか。「キリストにおいて真理であり」「闇が消え去ってまことの光が輝いている」(8)からです。「すでに」と「キリストにおいて」がキワードとなっています。すでに神の御子キリストが人となってこの古い世界(闇)に誕生し、世の光となり十字架の死と復活の出来事によって、この世を支配する闇の力、サタンの支配を打ち砕かれるという画期的な新しい時代がすでに到来したからです。まことの光が輝く「神の国」はまだ完成はしていませんが、神の御子キリストによってすでに始まっているからです。神の国にキリストを信じて入る人々が次々と起こされているからです。この新しい命令とは「神の国」の信仰に生きる者たちへの命令であり、御国の子供たちすなわち神の子供たちの新しい生き方、ライフスタイルの最大の特色だからです。

3. 憎しみから愛へ

やがて来る神の国に国籍を持つ私たちは「闇の支配から御子の支配」へ移されました。闇の世界とは「まことの神を知らず、神を無視し続ける、生まれながらの人間」の世界です。その生き方ライフスタイルの特色の一つは「怒り」と「憎しみ」です。やられたらやり返すという復讐の精神です。怒りと憎しみの途絶えることのない連鎖、燃え盛る地獄のほのおのことです。一度、火がつくとたやすくは消せない。「憎しみは暗黒の中を歩ませ続ける(現在形)」(11)のです。神が信仰を与え、感謝を学ばせ、せっかく光の中を歩み始めたにもかかわらず、サタンが怒りと憎しみをもたらし、再び闇の中へと引きづり込もうとしているのです。闇の中では結局、なにをどうしたらいいのか出口が見えず、方向がわからず、もがき続けて身を亡ぼすことになってしまいます。「彼の周囲が夜になるだけでなく、実に彼自身の中が夜になるのである。それほどに暗黒の力は大きい」(ヨハネス・シュナイダー NTD新約聖書注解)。憎しみや怒りは周囲に連鎖し、周囲を燃やし続け、最後には自分の心の中さえ焼けつくし、燃えかすのようにしてしまうのです。

大正時代の作家、菊池寛の「恩讐のかなた」「青の洞門物語」という短編小説があります。

父親の仇を討つために9年間全国を探し回った主人公がついに九州大分県で仇を見つけた。ところが僧侶となっていた仇は罪滅ぼしのために渓谷の崖路に19年間もトンネルを掘り続けて村人を転落事故から守ろうと決意していた。トンネルが開通するまでは待ってくれと願う僧侶のため、主人公は一緒になってトンネルを掘り、2年間寝食を共にした。開通した夜、今こそ父の仇を討ち長年の恨みを晴らせという僧侶に対して、主人公は復讐の心を捨て、仇を赦し、和解し、積年の恨みから解放されるという人情物語です。たいへん感動しました。

主の祈りに「我らが罪をゆるす如く、我らの罪をゆるしたまえ」とあります。私たちの罪が赦されるための条件として、私たちが相手の罪を赦すことが求められているように思うかもしれません。これではまるで神様と「赦し」の物々交換をしているようです。主の祈りはキリストを信じている弟子たちの祈り、教会の祈りです。イエス様の弟子たちはすでに父なる神がキリストの十字架の身代わりの死によってすべての罪を赦されたことを知っています。私たちが罪を赦すことは実際は難しいことですが、罪を赦すことで実はその何百倍もの罪を神が赦してくださっているという恵みの事実を深く経験してゆけるのです。赦すたびごとに赦されている恵みを深く悟り、感謝する。ですから「主の祈り」を忘れてはならないのです。主の祈りがささげられていくところではやがて「復讐の連鎖」が止まります。

世の中は理不尽こと、納得の行かないことで満ちています。仕返しをしたくなるほど傷つけられることもあります。「あなたのうらみ晴らします。復讐、仕返し代行。40年間の実績、24時間無料フリーダイアル」という広告がインターネットで紹介されていました。腰が抜けるほどびっくりしました。呪術師団体のビジネスになっているのです。 
でも恨みを晴らして、果たして人はすっきりするでしょうか、それで救われるでしょうか。
本当の幸せを得ることができるのでしょうか。

アダムから数えて7代目にレメクという人物が登場します。彼は「カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍。」(創世記424)と、宣言しました。「復讐の歌」と呼ばれています。倍返しどころか77倍返し。仕返しに全生涯をかけてしまう、そしてそこから逃れられない。自由を奪われる。これこそ呪いそのものではないでしょうか。

光の子供たちには、復讐の歌ではなく、十字架の赦しの歌があります。神の国に属する者たちには「主の祈り」があります。教会は「主の祈り」を礼拝のたびごとに捧げます。赦された私たちだからこそ、赦しの中を歩むことができるのです。レメクの復讐の歌が感情を激しく興奮させるようなとき、私たちの霊には「主の祈り」が聖霊によって響くのです。「私があなたがたを愛したように」と十字架の歌が響くのです。これこそ御国の歌です。

御国の子たちによって、憎しみの淵に和解の橋が架けられるのです。
その一歩はまず、あなたの家族から。

目次に戻る