【福音宣教】ヨハネの第一の手紙 2:3-6 キリストが歩まれたように

2020年3月22日                                                                           

もし、神の命令を守るならば、神を知っていることになります。神のみ言葉を守っているなら、その人の中に神の愛が全うされ、神のうちにいることを経験できます。そして神のうちにとどまっているのなら、「キリストが歩まれたように歩まなければなりません」(6)とヨハネは語りかけています。ヨハネにとってイエス様の弟子として生きることは、一言でいえば「キリストのように歩む」生き方であると集約できました。これは、2000年経った今日でも変わらない人生の道と言えるのではないでしょうか。どのように神の言葉を守って生きればいいのか、どのように神ととともに神のうちにあって生きたらいいのか、どのように神の愛の中を生きればいいのか。その答えは「キリストのように生きる」にあります。それ以外に道はないのです。

どんな有名な人も、立派な人も、人生の真のモデルになれません。子供のころ、私は世界の偉人伝を読むのが好きでした。ところが大人になり詳細にその人物の足跡や私生活をたどると、自分勝手で家族を困らせたり、癇癪持ちで暴力をふるったり、金銭感覚がひどく乱れていたり、女道楽やお酒やギャンブルにおぼれていたり、たたけばほこりがいっぱいでてきて決してほめられたものではないことがわかりました。多くは美化され粉飾され神格化されています。事実は小説より奇なりです!

1. キリストのように

最近は「歴史物」と呼ばれるジャンルの本やドラマやトーク番組がブームになっています。「激動する現代社会をどのように生きるか」多くの人が模索しており、その答えを歴史上の人物の中に見出そうとしている表れではないかと思います。身近な人々の中に尊敬できる人や逆境や苦難を乗り越えていく真のリーダーの姿を見出せないからといえます。国王や総理大臣や大統領をどれだけの人々が心から尊敬し、信頼し、人生の見本としたいと願っているでしょうか。神父や牧師に対しても高すぎる理想像をいだいて失望することはよくあることです。人を見るのでなく、キリストを見て、キリストに学び、キリストのように歩む以外に答えはありません。キリストは決してあなたを失望させないからです。

キリストは一般の人々にとっても尊敬に値するモデルとなりえる人物です。そのために、私たちは、キリスト教という宗教ではなく、イエスキリストご自身をこの世の人々に紹介していく必要があります。「この人を見よ」(ヨハネ197)(ラテン語でエッケ・ホモ)は有名なことばです。ローマ総督ピラトはイエス様の中に罪を見出せず、彼を赦そうと群衆に訴えましたが、群衆は「バラバ」を赦せと叫びました。この世はバラバを見て、イエス様を見ようとしないのです。バラバを英雄と認め、イエス様を犯罪者とみなし、この方の真の価値を見出すことができませんでした。盲目と無知の中にいたのです。現代に生きる私たちクリスチャンはあらためて、「さあ、この人を見よ。イエスキリストを見よ!」と、声を大きく積極的に紹介していく必要があります。「キリストのように歩もう」と。あなたが出会い、体験している「イエス様」を、このすばらしいお方を、今も生きておられる神の御子を、感動をもって語り、指し示し、紹介しましょう。

2. あなたがたの義が律法学者たちにまさっていなければ(マタイ520

イエス様の時代、神のことばを守って生きる姿のモデルとなった人々は、律法を綿密に研究し、定義し、ミシュナーやタルムードを編纂する律法学者たちでした。さらにその教えを厳格に守って宗教生活を実践し、人々を指導するパリサイ人たちでした。彼らは先生と呼ばれる立場の人々でした。ところがイエス様は彼らを忌み嫌われました。彼らが守り、教えるような「義では決して天国へ入れない」と厳しく切り捨てました。形式的偽善的で中身がからっぽだったからです。イエス様は山上の垂訓と呼ばれる一連の説教を通して、弟子たちと群衆に、「神の国に入ることができる義、神様との正しい関係、神様に喜んでいたただける新しい福音的な生活」のあり方を教えてくださいました。

一例としてペテロはイエス様に「私たちに罪を犯すものを何度、赦せばよいでしょうか」「7度赦せば十分でしょうか」と尋ねました。当時の律法学者の定義では3度まで許せばよかったからです。そこでペテロは3度を2倍し、もう1回、おまけして合計7回という回数を考えました。ところがイエス様の答えは「7度を7倍するまで」でした。ペテロはとっさに考えたことでしょう。「491回からはもう許さなくても大丈夫なんだ!」と。これが律法学者たちの義のありかたです。神の赦しを「回数」や「数字」に置き換え、人間的な力で達成しようとするわけです。イエス様が弟子たちに求められたのは、「制限のない赦し」でした。それは人間にはとうてい実践も達成も不可能な基準でした。できると考えるのがパリサイ人の義であり、とうていできないと自分の無力さや罪深さを知って神のあわれみを求めるのがイエス様の弟子たちの義でした。イエス様は続くたとえ話の中で、1万タラント(36憶円)の借金をすべて赦しきってくださったあわれみ深い王の姿を通して、神の赦しの絶大さを明らかにされました。神ご自身の愛と赦しにひたすら信頼する、これがイエス様が弟子たちに教えてくださった「新しい義、天の御国に入る義」でした。

3. うちなるキリストの声に聴きしたがう

キリストのように歩む、イエスさまのように生きるためには、どうしたらいいのでしょう。答えはあきらかです。それは本人に直接聞けばいいのです。「え、2000年前のイエス様にどう聞けばいいのでしょうか」と思った人はクリスチャンとしてはまだ幼子ですね。

イエス様をまだ知らない求道者の方々は福音書に記されたイエス様の御業とことばをしっかり学びましょう。キリスト教の教理ではなく、イエス様の生き生きとしたすがたを学びましょう。一方、クリスチャンにとってイエス様は「もう一人の助け主」として心の中に住まわれ、神の子とされた私たちを「父と子と御霊の交わり」の中に招いてくださっています。変貌山で弟子たちに、父なる神様は「これは私の愛する子、これに聞け」(マタイ175)と約束されました。聖霊は「わたしの話したことを思い起こさせてくださる」(ヨハネ1426)とイエス様も約束してくださっています。神の子たちは「この人を見る」だけでなく、内に住まわれる聖霊を通して「この人に聞く」ことができるのです。聖霊は私たちのこころの板に、私たちを手紙として、イエスの御心を、思いを、ことばを、愛を、赦しを、書き記してくださるのです。

旧約の時代、モーセは神の義・神の御心を2枚の石の板に戒律として書き記しましたが、新約の時代、イエス様は父なる神のみこころを弟子たちのやわらかな心の板に聖霊の指をもって刻んでくださいました。パウロはこのことを、「あなた方は神の手紙です」(第2コリント33)と表現しています。「あなた」という神の手紙に神の義とみこころは記されており、あなたは読むことができるのです。牧師に聞くのでなく、あなたの内なるキリストに聞きましょう。そして迷うことなく、恐れることなく「はい」と従えばいいのです。

もちろん、他人と比べることを聖霊はなさいません。「あなたにしか」できないことを、「あなたに」願っていることをキリストは聖霊を通して「今」、あなたに語りかけておられるのです。

あなたはもうすでに聞いておられるのではないでしょうか。

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