【福音宣教】ヨハネ第一の手紙 1:1−4 じっとみつめるお方

2020年3月15日                                                                           

1. 光の子は闇の中を歩かない

神は光であって、神の中には暗闇も暗黒も存在しません。光の中に闇が共存することも混在することもありません。そうならば天国に地獄があったり、永遠のいのちの中に死が存在することになってしまいます。救いを受け神の子とされた私たちは、神様との交わりを保ち、光の子として生かされていますから、罪の中に生きることはできないはずです。「光の子は闇の中を歩かない」(16)、「あなたがたに罪を犯させないため」(21)ですと。ところが、悲しいことに私たちキリストを信じる者たちも正しく清く完全に生きることができず、悩み葛藤します。この自己矛盾をどう解決したらいいのでしょう。

聖書が教える「罪」という言葉を丁寧に理解しないと「罪」でないものまで罪と決めつけ、思い込みをしてしまいます。アルコールを口にすることは罪でしょうか? では、聖餐式の葡萄酒は? 胃がんの父親に「胃潰瘍だから大丈夫」と安心させることは罪?子供を親が叱ることも罪? 教会で素敵な男性を好きだなと思っても姦淫の罪?まちがった理解はクリスチャン生活から自由と喜びを奪い取ってしまいます。一つの手がかりは「動詞」の時制から判断することです。習慣的意図的に、意識的計画的に罪をおかす場合は「現在形」が使用されます(16, 36,8.9 .518)。一方、思わぬ失敗や瞬間的な過ちや罪の場合は「一度限りの出来事」を意味する「不定過去」という動詞が用いられる場合が多いようです。1:6の「闇の中を歩き続ける」は現在形ですが、「もし誰かが罪を犯してしまっているならば」(21)は不定過去形と両者は「区別」されています。

ヨハネ811で姦淫の女性(遊女だったかも)に対し、「もう罪を犯し続けないように」(現在形)とイエス様は語り、遊女の生活から足を洗い、貧しくても苦しくても自分の手で働き、自分を大切にして生きるように諭しました。彼女を習慣的な「肉に属する古い生き方」から解放してくださったのでした。

2. 天においてあなたのために神の前に立ってくださる弁護士がおられる

もし、罪を犯してしまった(不定過去)なら、その時にはパラクレートスと呼ばれる「弁護してくださるかた」がおられます。ヨハネだけが用いている表現で、語源は「励ます、勇気づける、力つける」という意味です。名詞形は「慰め主」「助け主」「弁護してくださるかた」と訳されています。イエス様が弟子たちに「もう一人の助け主をあなたがた遣わす」(ヨハネ146)と約束してくださったように、地上で生きる弟子たちには、「聖霊」が与えられ、聖霊が共に歩んでくださり、生まれながらの古い習慣的な罪の生き方から守ってくださいます。一方、思わぬ過ち、失敗をしてしまった時には、天においてキリストが弁護人として神の前に立ち、弱い私たちのために執り成してくださるというのです。

どんなクリスチャンでも正しく清く完全に生きることはできません。それでも私たちはキリストを知らなかった時のような「闇の生活」「自己中心の生活」「自分さえよければよいという身勝手な生活」「平気で他人を見下す傲慢な生活」「金持ちになりさえすれば幸福になれるといった拝金主義や金の亡者のような価値観に縛られていた生活」「神などいないと神まで締め出してしまっていた愚かな生活」から救い出され、神を礼拝する者へと導かれました。犯し続けていた多くの罪、汚れ、過ちもすべてがキリストの十字架の血潮で完全に帳消しにされ赦されました。このような驚くべき恵みにすでにあずかったのでした。

それでもなお、天に召されるその日まで、弱い無力な私たちは失敗し、単発的に過ちを犯し、誘惑に敗北し、しくじり、「ああ、またやってしまった」と悔い続けることでしょう。そのたびごとに十字架のキリストを仰ぎ見、赦しを信じます。そうした日々を重ね、やがて神の審判の日を迎えます。でもまさにその時に、弁護士であるキリストが私たちのために傍らに立って弁護してくださるのです。「この罪人の罪はすでに赦されています。多くの試練や失敗の中にあっても、信仰に生きた光の子です」と。なんと幸いなことでしょうか。

3. 完全なそして全世界のための十字架の身代わりの死

弁護士事務所には大勢、弁護士がいます。法廷でも複数の弁護士が被告を弁護します。しかし、私たちのための弁護士はただおひとりだけです。この「一人だけ」が重要なのです。キリスト以外の弁護人はもはや必要ありません。ロマ法王も聖母マリアも聖人たちも、キリスト以外に誰一人弁護人とはなりえません。神はただ一人のお方を全人類の救い主、贖い主とされたからです。この方は「義なるキリストイエス」であり「罪のためのなだめのそなえもの」となってくださったお方です。何一つ罪をおかすことなく、サタンの誘惑にも一瞬たりとも敗北することなく勝利され、サタンがしっぽをまいて退散してしまったほどのお方です。十字架の死まで従順に従いぬかれた正しいお方、神の前にどこからどうみても責められるところのない完全な歩みを全うされた義人でした。

それゆえ、彼は完全な「宥め(なだめ)の供え物」(22 410)となられたのです。旧約時代に神殿ではイスラエルの民の罪の赦しを得るために毎年、年に一度、大祭司だけが疵のない聖い動物の犠牲の血を携えて契約の箱のふたに注ぎかけました。これを宥めの供え物、贖い(身代わり)の供え物と言います。キリストはご自身を完全な贖いの供え物として十字架の祭壇の上にささげられ、尊い血をながされたのでした(へブル912-14)。

だから、この方以外の誰かのもとへ行く必要はもうありません。この方以外にどんな宗教を尋ねる必要もありません。救いも、赦しも、永遠のいのちも、神の国もこの方の中にあるからです。「この方以外に救いは与えられていない」(使徒412)これが真理の御霊に満たされたペテロとヨハネの確信であり、全世界に向かって発せられた福音の宣言でした。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒412

イエス様は「私のもとに来なさい」と大胆に招いてくださいました。だから私たちも「イエス様のもとに行こう」と大胆に福音を語るのです。イエス様以外にもひょっとしたら救いはあるかもしれないからもう少し調べてみようとあちこち顔を出す必要はありません。神様や宗教のウィンドウショッピングをしているような時間はないのです。そんなつまみ食いをしないで、イエス様のもとに来て、信じて、洗礼を受け、救いを受けなさい。

この方のもとに来れば、この方の御名に信頼すれば決して失望させられることはありません。あなたを最後まで守ってくださる弁護士は、この世界でこの方おひとりだけなのです。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ロマ10:9−11)       以上

目次に戻る