【福音宣教】ヨハネ第一の手紙 1:1−4 じっとみつめるお方

2020年3月8日

1章の主題は「神との交わり」(1:3)であり、この流れに沿ってヨハネはさらに筆を進めています。

1. 神は光です(5)

神のご本質の一つはひかりです。光と闇は同時に混在することはできません。したがって、神と交わりを持つものたちも光の中を歩みます。闇の中の歩むことはできないはずです。

もしあなたの視野の真ん中が黒く見えたら、あなたは眼の病気(網膜症関連)かもしれませんが・・。神には闇が存在しませんから、神が住まわれる天国に地獄が混在することはありえません。永遠のいのちと死とが混在することもありません。そうであれば天国でお葬式を出さねばならなくなります。天国の1丁目1番地は天国ですが3番地からは地獄になるので、これから先は立ち入り禁止区域という規制線が引かれることになってしまいます。神の御子キリストにも同様に闇は存在しません。イエス様は「私は世の光です」(ヨハネ8:12)と言われました。イエス様の中に、誰一人そして何一つ罪を見出すことはできませんでした。裁判を行った総督ピラトも、死刑を執行した百人隊長も「この人は正しい人であった」と語りました。これが御父と御子のご本質であり、交わりの姿です。

しかしながら、私たちは光と同時に影をもっています。私たちはわかっています。キリスト者として学んでいる聖書の教えと実際の生活や行いがまったく一致しているわけではないことを。はずかしいほど乖離してしまっていることを。願いや祈りとはうらはらに、実際は自分でも情けなくなるほどギャップがあることを。私たちは確かに「罪ゆるされた罪びと」にすぎないことを。生まれながらの肉の性質をいまだに持ちながら、アダムの末としてこの世に生きています。罪のない完全なきよい生き方をすることなどは正直できないのです。隠すかごまかすか偽善ぶるかしかない悲しい現実に向き合っています。そうした弱さやもろさに直面しています。そしてサタンはいつもそこを激しく突いてきます。「それでも神の子か?」「何年、クリスチャンやっているのだ」「お前のどこに愛があるのか」と。そうです、私たちは救われたいまもなお、罪の中を歩んでいます。誘惑に負け、失敗し、周囲の人を冷たい言葉で傷つけ、しかもそのことにさえ気がつかず平気で過ごしています。悪いのは自分ではなく相手だと責任転換し、自分の保身に走って友を裏切ったりしています。敬うべき自分の親を愛することができず、最大の親不孝という罪を犯し続けています。そうした闇の部分だけを見れば、暗澹たる思いに陥ってしまい、約束の天国がはるかかなたに消え去ってしまいそうな不安やおそれにとらわれそうになってしまいます。

でも大丈夫です、ここから希望が始まるのです。

そんな暗闇の中にたたずんでいる私たちに、天からの恵みの声が響き渡るのです。「主イエスの血はすべての罪からきよめます」(第1ヨハネ1:7)と。赦しの宣言が語られます。

これは使徒ヨハネを通して語られた神のことばです。そこから暗闇に光が差し込んできます。イエスの十字架の血潮のみが、私たちが光に中を歩み、神との交わりをもつことを可能にしてくれるのです。イエスの血が赦すことができない罪などはひとつも存在しないからです。過去現在未来にわたるすべての罪が十字架の血によって赦され、きよめられるとの力強い、恵みの宣言を、神の宣言を私たちは聞くことができるのです。

これが十字架の血潮の力です。あなたは十字架の血の力を確信していますか? このみ言葉こそが福音であり、神のめぐみと祝福であり、私たちの救いなのです。

2. 罪の告白

罪に陥ったとしてもそこから解放され、光である神との交わりの中に導かれる一つの道が示されています。それは「罪の告白」です。「もし自分の罪を言い表するなら、神は真実で正しい方ですからその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます」(1:9)。

罪(ハマルティア)は、ギリシャ語では「脱線」という意味のことばです。本来のありかたから「はづれてしまった」状態。目標から外れ、目的を失って逸脱してしまった状態を意味しています。罪が単数形で表現される場合(大文字のSIN)は「神様に背を向け、神抜きの人生を自分の力や知識だけに頼り、あるいは偶像により頼み、真の神をないがしろにして頑なに神を拒んで生きている状態」そのものを指します。ですから根本から方向転換する必要があります。神抜きの人生から神と共に生きる人生へ立ち帰えらなければなりません。これを「悔い改め」(根本的な方向転換)と言います。本線から支線に迷い込んでしまった状態から、本線に戻り、本来の目的地に向かうことです。なぜなら、支線の先は行き止まりか滅びに向かう脱線転覆しかないのですから。

もし、罪が複数形(SINS)で表現される場合は、具体的な一つ一つの言葉と行いと思いにおいて犯したもろもろの罪を意味します。それは数えきれないほどの数になることでしょう。あるまじめな方は、大学ノート2冊分に思いだす限りの数々の罪を書き出して悔い改めたそうです。イエス様の愛に満ちた言葉と行いを記録したなら、世界を倉庫にしても納めきれないだろうとヨハネは語りましたが(ヨハネ2125)、私たちの罪を記録したら宇宙を倉庫にしてもきっと納めきれないことでしょう。告白するのはほんの一部にすぎません。自分の心のとげ、苦痛、痛み、傷になって、良心がうずくようなことがらが、「罪」として自覚されているのです。ですから、実は、サタンの攻撃と責め苦からあなたを守るために、神様は罪(複数)の告白と赦しの座をご用意してくださっているのです。「罪の増し加わるところに恵みも増す」(ロマ5:20)とあるように、神のご配慮なのです。

「神は真実で正しい方」ですから、十字架の赦しを信じて罪を告白する者の罪を完全に赦してくださいます。神の真実さにかけて赦してくださいます。神様に2枚舌はありません。さらにカルバリの十字架において「目に見える歴史的な形と御子の宣言のことば(父よ、彼らを赦してください、すべてが完了した)」をもって赦しを成就してくださったのでした。サタンが一歩も近寄れない場所がこの世界にあるとすれば、それはカルバリの十字架の下です。これこそがキリスト者にとっての「聖地」なのです。

「赦す」(アフェー)という動詞は「はっきり、きっぱり、決定的に赦す」という動詞の時制が用いられています。「大目に見る、寛容さでゆるす、しばらく猶予期間を与える」というようなあいまいなものではなく、「とてつもない大きな負債を帳消しにする」「借金をないものにする」という意味のことばです。イエス様が1万タラント(数千億円)の借金を帳消しにしてくださった王様のたとえ話をされました(マタイ18:23―35)。ここには、神の赦しの絶大さとその恵みを悟れない人間の愚かさが対照的に語りつくされています。

3. キリストとともに光の中を歩む

神は光です。しかし、私たちは罪深い存在です。闇をうちにもっています。ですから、神の子どもとされてもキリストという一つの道を通してでなければ、光である神との交わりの中に生き続けることができないのです。救い主を信じる信仰を告白し、バプテスマを受け、「神の子供」とされた私たちは、世の光であるキリストと共に日々歩むことを通して、「光の子供」として生きることができるのです。

「光の中を歩みなさい」とは、倫理的道徳的に完全無欠な生き方、きよいりっぱな生き方を要求しているのではありません。もしそうであれば、誰も約束を受けることができません。みんな失敗してしまっているからです。義人はひとりもいないのです。かわりに私たちにはキリストがおられます。キリスト抜きで聖なる神の光のなかで生きることは誰にもできません。そのため、御子イエス様が「世の光」となって私たちを、神との聖い交わりの中に招き入れてくださったのです。イエス様はやみの世、罪の中に生きる私たちの光、「世の光」となってくださっているのです。

まとめ

神のご本質は光なるお方です。一切の闇も影も存在しません。神の御子キリストは私たちのための「世の光」(ヨハネ1:9 9:5)となって世に来て下さいました。そうです、あなたのそばに来て下さり、あなたを包み、光である神との交わりの中に招き入れ、導き続けてくださっているのです。だから自分を責め、自分を卑下し嘆く必要はありません。イエス様の光に照らされ包まれ、光なる神との交わりに招かれているのです。

ある女性は妊娠に気がつかず強い薬を飲んでしまい、悩んだ末に胎児を下ろしました。それ以来いろんなお寺で水子の供養をしましたが心の安らぎを得ることはできませんでした。このことはひどく彼女の心を苦しめました。耐え難いほどの良心の疼きと後悔に苦悩しました。あるとき教会に導かれ、このことを「私の神の前における罪」と自覚し、神に告白し、イエス様の十字架の赦しを信じました。その時から彼女の心は平安に満たされ回復したのです。いまでは家族そろって教会に集い、神を礼拝する喜びの日々を送っています。

私たちは天の御国に入るその栄光の日まで、生涯、罪を犯し続けることでしょう。しかし、生涯十字架のキリストを見上げ、罪の赦しときよめを、その罪を告白するごとに豊かにいただき続けるのです。これを「恵み」といいます。

神の子供たちの全生涯は十字架のもとにひざまずく、悔い改めの日々(ルター)なのです。

さあ、神のことばをお聞きください。

「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。【主】が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を【主】に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」 (詩篇32:1−5)

「私わたしは世の光です。わたしに従う者は決して闇の中を歩むことなく、いのちの光をもつのです」(ヨハネ8:12)

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