9 使徒信条  題 「十字架で死なれた神の御子」  2004/8/8
聖書の中心-十字架
聖書箇所 1ペテロ2:22-25

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に背負われました。
それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
キリストのうち傷のゆえにあなたがたは癒されたのです
」(1ペテロ2:24)


「世界の中心で愛を叫ぶ」という小説と映画がヒットしているそうです。影響を受けた若い女性の中には「世界の中心で愛を叫ばれたい」と願う人が急増しているそうです。丸い地球の世界の中心がどこにあるのか私にはわかりません。しかし、私にはっきりわかることがあります。聖書の中心はイエスキリストの十字架の身代わりの死にあることです。地球に北極点、南極点が確かにあるように、聖書が示す神様の愛の世界の中心点を探すとするならば、それはカルバリの丘の十字架にあるといえます。

聖書の中心であり、神の愛の中心である「キリストの十字架」について、2回に分けてお話しをしたいと思います。次のみことばはキリストの十字架について、その意味を私たちに教えています。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」

1 十字架で背負われた罪

十字架の処刑は当時、最もむごい死刑方法でした。あまりのむごたらしさにロ−マ市民には決して課せられなかったそうです。だれも十字架の死刑を願いませんでした。ところがイエスキリストは自ら進んで十字架の道を歩まれました。父なる神様の御心にかなう唯一の道であることを理解していたからです。

聖書は、キリストは十字架の上で「私達の罪をその身に負われた」と記しています。この罪は複数形ですから、私達のもろもろの罪を指します。キリストが十字架で背負ってくださったのは、私達のもろもろの罪、それは過去現在未来にわたるすべての罪を指します。犯した罪ばかりでなく、これから犯すであろう罪さえも!です。諸々の罪には、してはならないことをしてしまった罪ばかりでなく、すべきことをしなかった罪もふくまれます。罪ばかりでなく恥じも過ちも汚れも失敗もそして神の怒りも、イエス様はすべてを背負ってくださったのです。

おどろいたことにパウロは「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラ3:14)とさえ語っています。聖書が教える「のろい」はいわゆる神罰といった類のものではありません。ある学者は、呪われるとは「神と共同体から完全に断絶され、神にみすてられ地獄に転落する経験そのもの」だと語っています。これこそが「十字架の中の中の十字架」です。そして人間はこのようなのろいを誰もいまだに知らないのです。

私たち人間はこの地上で生きているかぎり、かならず天地を創造された神様の豊かな恩恵の中に生かされています。空気も水も太陽の光も熱も神様からの贈り物であり、善人にも悪人にも等しく与えられ、いのちを支えてくれています。たとえ犯罪をおかしても夜が明ければ朝が来ます。どんな悪人にもその子を産んだ母があり、子の幸せを祈っています。世間が見捨てても親はやはり子を最後まで信じてくれます。親に放棄されたとしても児童は法律で保護され、福祉に携わる人々の愛情に支えられます。

ですからこの地上で、本当の意味で神様の恩寵から見捨てられ切り捨てられたという人は存在しません。

ただひとりイエスキリストだけが「神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれ、神との交わりを失い完全に切り捨てられるというのろいを経験してくださいました。私達が祝福を受けるために御子がのろいさえ引き受けてくださいました。

こうして本来、私達が地獄にもっていかなければならなかったものすべてを、キリストが十字架で背負ってくださり、地獄へ運び去り、自らが呪われ、神に捨てられ、さばきを受けて死なれたのです。

イエス様が十字架の上で背負ってくださったものの大きさを改めて覚えさせられます。

「父よ、どうして私をお見捨てになられたのですか」なんとも悲惨な叫びです。うつくしい愛のささやきとは程遠いことばです。こころとろけるような甘美なささやきではありません。むしろ耳をふさぎたくなるような聞きたくないことばです。しかし、このことばこそが全人類に向って神の御子が叫ばれた、正真正銘の愛のことば、もっとも偉大な完全な愛のことばであったと私は思います。

世界の中心で愛を叫ばれたお方が2000年前におられたのです。カルバリの丘の十字架から、あなたを愛して大声で真実な愛を叫ばれた神の御子がおられたのです。あなたはこのお方の声をもう聞かれましたか。

2 十字架の目的

キリストが十字架で死なれた目的も明確に教えられています。「私たちが罪を離れ、義のために生きるためでした」。

十字架がカルバリの丘に立てられたのは、わたしたち罪人が神様に背を向けてさらに罪の生活を続けるためではなく、新しく神様との正しい関係(義)に生きるためです。神様との正しい関係が失われてしまったために、正しい関係が回復されなければなりませんでした。神様との正しい関係の回復を「救い」あるいは「癒し」ともいいます。

神様との正しい関係に生きるためには、「罪を離れる」ことが求められます。神様の願われる真理に生きるためには、我欲を満たすことから解放されることが求められます。「罪を離れる」と日本語で訳されていますが、ある英訳では「罪に対して死んで」と記されています。離れることと死ぬことでは微妙な違いがあります。

罪から離れると言っても、自分の努力や決意といった人間的な力で「「罪を犯さない」「罪を退ける」という意味ではありません。ここはたいへん大切なポイントだと思います。英訳では、罪から離れる努力が強調されているのではなく、死んでしまっている人間には、もはや罪を犯す力がまったくないことが強調されています。つまり、罪を犯さないように一生懸命、努力をする力が神様から与えられることを指すのではなく、罪を犯すことに対して死者のように無力な状態になっていることを指しています。

言い換えれば、今までの自己中心の古い生き方や価値観がキリストにあって一新されてしまうことを表しています。私たちの人生の目的が、神様を喜ばせ、神様の御心を行い、神様との交わりを愛することにシフトしてしまうことを表しています。

「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」(ロ−マ6:11)

イエスキリストの十字架を信じることによって、神に対して失われた者ではなく、生きた者となることができるのです。救われなければ、癒されなければ、私たちは神から断絶したままやがて地獄に転落して永遠に滅ぶことになります。愛に満ちた神様はそのような悲しい結末を深く悲しまれ、一人でも救いを受け、神の義に生きることができるように、永遠の救いのご計画をお立てになってくださいました。御子イエスの十字架を信じる者に罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださいました。永遠のいのちをもたれる神様との愛の交わりをいつまでも喜び分かち合うためです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)

カルバリの丘から全世界に向って、神の愛が叫ばれました。十字架から神の愛が叫ばれました。

あなたは神の愛の叫びを聞くことができましたか。


    
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