4 使徒信条  題 「父御子御霊なる神の交わり」  2004/7/11
教会の真の交わりの源泉

聖書箇所 ヨハネ1:18

「 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、
神を説き明かされたのである。」
(ヨハネ1:18)


使徒信条は私達を、父なる神様への信仰告白に続いて、神のひとり子イエスキリストを信じる告白へと導きます。イエス様に対して「神のひとり子、主、イエス、キリスト」と4つの名前が用いられています。今朝は「神のひとり子、神の御子」という御名に焦点を絞りたいと思います。

神のひとり子とは、神の子供の人数をさすことばではなく、ある特別な関係にあることをさすことばです。この場合のひとり子とは、父なる神様と等しいお方、つまり「イエス様は神ご自身である」という「キリストの神性」の告白を意味しています。

教会史の話しになりますが、2−3世紀になって「イエスは神の子であっても神ではない」という論争(アリウス・アタナシウス論争)が起こり、教会会議で長年にわたり討議された結果、325年に開かれたニカイヤ会議においてニカイヤ信条が承認され、信仰告白の基準とされました。ニカイヤ会議では、「神のひとり子,よろず世の先に父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずして生まれ、父と同様の本質において一体なり。その本質によって万物が造られたのである」と詳細にキリストの神性が表現されました。つまりニカイヤ信条では「まことの神より生れたまことの神」とさらに整った形で告白されており、今日、カトリック教会・ギリシャ正教会ではそのまま用いられています。

聖書の中でイエス様が直接、「私は神である」と言われたことはありません。「神を冒涜する罪人だ!」と糾弾するパリサイ人たちとの無益な論争を避けるため、イエス様は繰り返し「人の子」というメシヤ称号をお使いになりました。しかし、イエス様と出合った多くの人々がイエス様の神性を告白しました。ガリラヤ湖の湖上を歩み、激しい波風をお鎮めになるイエス様を見て、子たちは「ほんとうにあなたは神の子です」(マタイ14:33)と叫びました。ペテロは「あなたこそ生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)と聖霊に導かれて告白しました。十字架の気高い身代わりの死を目撃したローマの百人隊長は「この方はまことに神の子であった」(ルカ27:54)と感動を口にしました。復活されたキリストに出会ったトマスは「私の主、私の神」(ヨハネ20:28)とイエス様の足元にひれ伏して礼拝しました。これらの叫びや告白は、イエス様「あなたはまるで神のようなお方です」とか「神の子供ではあるけれど神ではなく・天使のような存在です」と言おうとしたのではないことは明らかです。まったく逆に、イエス様を神と信じる素朴だけれど力強い告白であったと理解できます。

230年になくなった教父テルテュリアヌスが「唯一の神は父子聖霊の3位1体であられる」という神学用語を初めて用いていらい「三位一体」という言葉が広がりました。彼はイエス様が神であるとの信仰と唯一なる神様との信仰の整合をこのような神学用語で可能な限り表現したに過ぎません。もちろん彼の中には「イエスは神である」との明確な告白があったことはいうまでもありません。

私達は使徒信条を唱和するたびに、2000年間の時空を超えて、世々の聖徒たちとともに「私は万物の創造者であり、全能者にして完全である、父御子御霊の3人格において永遠に存在される唯一の神を信じる」との信仰を告白し、これからも告白し続けるのです。

さて、難しい話になってしまったので話しを具体的にもどしたいと思います。私達が告白する「父御子御霊なる唯一の神」は、実にすばらしい豊かな交わりをもっておられます。それは決して破れることのない愛と信頼に満ちた唯一の永遠の交わりです。親子げんかをしてとうとう分裂してしまったといいう話は人間の親子関係ではよく起こることですが、イエス様と父なる神様が大げんかして仲違いし口も聞かないというようなことは決して起こりません。父と御子と御霊の交わりの中に、私たちが学ぶべき真の一致の姿が示されていると思います。

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、
神を説き明かされたのである」(ヨハネ1:18)

1)神のふところ

イエス様は父のふところにおられるひとり子です。「父のふところ」という表現から私たちには、父と子の深い信頼関係、あたたかい愛情関係が伝わってきます。

現代人は父のふところ、母のふところを忘れてしまったのかもしれません。児童虐待問題が今、深刻な状況を迎えています。各相談所は対応に追われているそうです。「一人で悩まないでともに考えていこう」と訴えるテレビの義同虐待防止キャンペ−ンでも子供をそのまま受け入れ抱きしめることができない若いお母さんのためらいや苦悩が描かれています。子供にとって「あたたかなふところ」があるかいなか、親にとって静かに思い返すことができる「あたたかなふところ」が心の中に存在しているかいなかが問われているように思います。「ふところつくり」、ここに一つの答えがあると私は思います。

父と御子との間には、このような愛と信頼に満ちた大きな「ふところ」がちゃんと存在しています。聖書は、心の底で永遠のふところを求めている孤独な私たちに、悔い改めて父のもとに立ち返ることを勧めています。父と子の交わりの場であった大きなふところにイエス様は、私たちを迎えようとされているのです。神の交わりの喜びを知ったヨハネはこのように呼びかけています。

「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです」(1ヨハネ1:3)

父御子御霊の交わりは、永遠の愛の交わりであり、いのちの交わりです。そして私たちはその交わりの中にすでに招かれているのです。御子がおられた父のふところは私たちの天の居場所でもあるのです。

2)失われることのない交わり

御子は父の御心をあますところなく「解き明かされ」(18)伝達してくださいました。御子の語ることばはそのまま父の御心であり真理でした。父と子とは一つの意志を共有しておられました。コミュニケ−ション不足、意志の疎通という現代社会の人間関係が直面している問題とは全く無縁です。

一方、聖霊についてはこのように教えられています。

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです」 
                        (ヨハネ16:13−14)

御霊は御子から聞いたままを語り、御子は父から聞いたことを語り、御心を知らされた私たちは「神の栄光と恵みの大きさを誉め賛えるのです。御霊はキリストを信じる者の心に賜物として分かち与えられます。賜物として神から与えられた御霊によって、私達はイエス様を主と告白し、父との親しい交わりを持たせていただき、いよいよ豊かな交わりへと招かれてゆきます。

「また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません」
(1コリ12:3)

「子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます」
(ガラテヤ4:6)

父と子と御霊、そしてクリスチャンとの間には、このような相互の連鎖的な交流が与えられています。この交わりは簡単に消滅してしまうようなしろものではありません。

ご存じのように、この自然界には食物連鎖という大きないのちの輪が存在しており、動物植物の生態系を保持しています。家内の実家はあるときから、農薬をやめ有機農業に切り替えました。すると大阪のど真ん中にもかかわらず、田の中にたちまちタニシ、かぶとえび、ヤゴが群れるようになり、赤とんぼ上空を舞うようになり、自然連鎖が見事に回復してきました。都会に小さな田舎風形が現れたのです。さらに驚いたことに、数年前からマガモのつがいが飛来するようになり、田の害虫や雑草の駆除までしてくれているそうです。失われてしまったと思っていた生態系連鎖はちゃんと生きており力強く働いていたのです。

私はこう思うのです。イエス様の十字架の血によってあがなわれ、父御子御霊の交わりに招き入れられたいのちのつながりはそんなに簡単にはきれやしないと。たとえ交わりが失われたと感じることがあっても、もし私たちが心に示された罪を悔い改めるならば交わりはたちどころに回復することでしょう。御子イエス様は私たちの交わりがいつまでも保たれ続けることを願い、そのために祈ってくださっているからです。 

「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです」(ヨハネ17:11)

3)すでに完成している交わり

私達は様々な人間関係で破れを覚えます。どうしたらみんなで一致できたり、協力できるかと悩みます。最初から深く関わらないとか、波風立たないように相手に合わせ自分は我慢するとか、自分の感情と自分の役割を区別して立派に役目を演じきるとか、感情的にならないで深呼吸をするとか、まず相手の話しをよく聞くとか、わからないところはちゃんと確認し自分勝手な思い込みや憶測をして話を広げてしまわないとか、一致できないところを探すより一致できるところを強調するとか、コミュニケ−ション的な方法論はいくらでも考えることができます。しかし、クリスチャンはすでに最も美しい交わりのあり方を知っています。父と御子と御霊との交わりです。

「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」
(ヨハネ17:21−22)

私達が求める真の一致はすでに父御子御霊の交わりの中に完成したかたちで存在しています。ですから真の一致はつくりだすものではなく、すでにある完成された交わりの中に、私たち一人一人が、そして教会が招き入れられることのなかにあるのです。必要なのは一致を作り出す努力ではなく、父御子御霊の交わりに自らを委ねる信仰ではないでしょうか。父御子御霊なる神様の名において祈り、御心をもとめ、祝福を仰ぐことです。礼拝を通して神の交わりの中に招き入れられ、御子と御父を御霊によって仰ぐ、神の聖い御名の前にただ黙してひれ伏すこと、そうすればおのずとそこに一致が生れる、いや生まれていることを知るのではないでしょうか。一致するために人間的に努力するのではなく、すでにそこに完成している真の一致と交わりの中に礼拝と祈りによって招き入れられることを願いましょう。

牧師が礼拝の最後に会衆に向かって祈る祝福の祈りは、考えればまさに、父御子御霊なる神様の豊かな交わりに生きることの祝福ではないでしょうか。

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、
あなたがたすべてとともにありますように。
(2コリ13:13)

祈り

御子なる神様、あなたを通してますます父なる神様の愛の深さを教えてください。

聖霊なる神様、あなたを通してますます御子イエスの恵みの大きさを誉め頌えさせて

ください。私たちの交わりがあなたの交わりに根ざしたものでありますように、わたしたちを常に

招き入れてください。


    
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