21 使徒信条  題 「とこしえのいのちを信ず」  2004/11/28

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)


今日は昇天者記念礼拝です。先ほど名前と写真をご紹介した一人一人は、キリストをまことの救い主と信じ、クリスチャンとして地上の生涯を歩み、教会を愛し教会に仕え、主が約束された天の御国へと帰ってゆかれ、新しい永遠の人生を歩むために終末における復活の時を待っておられる方々です。

すでに2000年前の古代ローマ教会の時代にクリスチャンは自分たちの信仰を「信条」という形で告白し、その後世々の教会において継承されてきたものが「使徒信条」と呼ばれる大切な信条です。使徒信条は、「罪の赦し、からだのよみがえり、永久のいのち」を信じるということばで結ばれています。カルバンはこの結びのことばは、「わたしたちの幸福が地上に横たわってはいないことを示している」と語っています。目に見える地上の事柄がすべてではなく、むしろ目に見えないもの、天にあるもの、神のもとにあるものに、隠された人生の幸いがあると教えています。地上のことばかりを思うのではなく、永遠の視点を持つことを教えています。からだの復活と永遠のいのちが、「神の国に生きる希望」を支えているのです。

1 神の国

最近は仏教の葬儀でも「天国」という言葉が使われるようになりました。死後の世界をみんなひっくるめて一般的に「あの世」といいますが、「あの世」ではどうも漠然として落ち着きがない。彼岸では意味がわからない、黄泉では暗いし地獄では恐すぎる、さりとて草葉の陰では物寂しい・・そこでキリスト教からちゃっかり「天国」という美しいことばを借用してきているようです。

さて聖書では、天国は人が死んだら行くあの世の世界ではなく、天地を創造された全能なる父なる神様が終末の時に完成させてくださる「永遠の神の国」を意味しています。人間が支配する世界は一人一人の人間の「我欲と罪」が入り乱れますから、その結果、争いごとがあちこちで噴出します。しかし、神の国では、まことの神ご自身が「愛と義」をもって御支配されますから、もはや神の御心に敵対する「罪」も「死も病」も存在することが許されません。不平等も差別も憎しみもなく、病や死に伴う苦しみや悲しみももはや存在しないと聖書は教えています。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」 (黙21:3−4)

アメリカ・ニュ−ヨ−クのお話しですが、人生に疲れ果てた人が酔っ払ってタクシーに乗り込んできました。そして運転手に「どこでもいい悩みのない場所へ連れてってくれ」とむちゃな注文をつけました。そこで思慮深い運転手は黙ってある場所に車を走らせました。「お客さん、お望みの場所に着きましたよ。ここにいる人はみんな悩みも苦しみもありません」。お客が聞きました「ここはどこかね」。「セントラルパークメモリアル墓地。悩みもないけど何の楽しみもまたありませんけどね」と言ったそうです。

残念なことですが、人間が存在するところどこでも欲と罪と病と死と悲しみは付きまといます。仏教でいう「生老病死」「会者離別」の現実から誰ものがれることができないのです。人生はそういうものだと逆らわず受け入れて、悩まず悟りきって、世の定めに生きるしかないと仏教では教えます。釈迦を初め、名だたる高僧たちはこのような心構えで人生を達観し生き抜かれました。これも確かに一つの生き方であると思います。

聖書によれば、人類の救いと希望は、人からではなく、神から出てくると教えています。愛と恵みをもって御支配される神の中にあると教えています。聖書が証しする唯一のまことの神を抜きにしては、人間の問題は解決せず、真の幸福も見出しえないのです。今日、ここにお写真の飾ってある方々は、その人生においてまことの神である父とその独り子イエスキリストを信じ、神を中心とする生活をすごされた知恵ある人々です。名高い高僧のような特別な修業を積んだわけでもなく立派な悟りを拓いたわけでもありません。平凡な人生を歩まれたといっても決して失礼にはならないとおもいます。しかし、キリストを信じ、永遠の神の国の希望を持って人生を喜びのうちに歩まれたおひとりびとりであるとお伝えできると私は思います。

2 罪の赦しと永遠のいのち

「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(ピリピ3:20−21)

永遠の神の国で生きるには、永遠のいのちにふさわしい永遠のからだ、新しい天のからだが必要です。霊魂だけがふわふわ空中遊泳しているような教えは聖書の中には見出せません。どのような新しい体が神様から与えられるのか聖書は詳しく教えていません。ただ、よみがえられたキリストと同じ栄光の姿に変えられると約束しています。この約束のことばは、体の病気で苦しんだ人々にとってどれほど大きな慰めとなることでしょう。災害事故などで行方不明のままご遺体さえ見つからなかった人や遺骨が返ってこなかったご家族にとってもどれほど大きな希望となることでしょうか。幼くして子供さんを亡くされた方々にとって、その子供さんが成長した栄光の姿を見ることはどんなに大きな喜びでしょうか。私もやがてこの地上の生活から天の生活へと移される日を迎える時がきます。天国でみなさんと再びお会いできることは大きな喜びです。永遠のいのちにふさわしい永遠のからだが備えられると聖書は神様の約束をはっきりと伝えているのです。

さて、使徒信条は「罪の赦し」「復活のからだ」「永遠のいのち」と順に記しています。この順番はとても大事です。罪の赦しを受け取ることなくして復活のからだも永遠のいのちもあなたのものにならないと教えているのです。私達生まれながらの罪深い人間が、聖い神様の前に進みでて、天国に入るためにはどうしても背負い込んでいる多くの「罪」の解決が必要となります。私達生まれながらの人間はみな、重く醜い罪をもっており、聖い神様とその基準には程遠い存在です。どんなに人間的に努力をしても、思いとことばと行いにおいて失敗をくりかえすばかりです。もし神様の裁きの座に立たされたら、言い開きができずさばかれて滅びるしかありません。

そんな罪深い私達を神様はあわれみ、神のひとり子イエスキリストを罪からの救い主としてこの世界に遣わして下さいました。御子イエスキリストはあらゆる試練と誘惑のなかでも罪を犯すことなくきよい完全な生涯を歩まれました。そして、カルバリの丘と呼ばれる死刑場でわたしたち一人一人のすべての罪を背負い、十字架で身代わりとなって神の裁きを受けて死なれました。ご自分の死をもって私たちの罪をすべて償いきってくださったのでした。キリストの十字架の身代わりの死によって、私達の罪と永遠の刑罰は私達から取り除かれ、完全な罪の赦しがもたらされたのです。

コロサイ1:14「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています」

永遠のいのちは死んだら自動的に手に入るものではありません。イエスキリストの身代わりの十字架の死を信じる者に、神様からの贈り物として初めて手渡されるのです。キリスト教とはキリストの十字架を信じる宗教です。天国に入るためにふさわしい人間になれるように戒律を守ったり、精進に励んだりする「善行」を強調する宗教ではありません。「自分はまじめだ。正しい人間だ」と、自分の義を誇ってがんばるならばますます十字架の救いから遠ざかってしまいます。しかし、反対に「私は罪の赦しを必要とする罪人である」とすなおに受け入れることができるならば、即座に十字架の赦しの光に包まれ、「罪赦された罪人」である自分を発見することでしょう。その時から、クリスチャンとしての新しい人生が始まるのです。

1ペテ2:24「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」

天に帰られた方々がご家族にとって大切でかけがえのない人であったことは言うまでもありませんが、決して聖人君子やパ−エクトな人間ではなかったことは、何より身近な家族が一番よく知っておられたことと思います。しかしそれでも十分なのです。永遠のいのちを信じて生きた・・その信仰そのものが、尊いこととされているからです。

この地上での生活も、永遠の世界での生活も、「キリストとともに生きる」ことにおいて何の区別もありません。復活されたキリストとともに生きること、試練や孤独の時にも、病床にあっても、臨終の時にも、それが「永遠のいのちを信じ、永遠のいのちに生きる」ことにほかなりません。

私達は天のキリストのもとへ移された兄弟姉妹のそれぞれの信仰の歩みを偲びつつ、と「主は私のよみがえり、主は私の永遠のいのち」と心からほめたたえ賛美いたしましょう。クリスチャンはこの地上であっても天においても永遠なるキリストとともに歩むのですから。

もう一度、冒頭のカルバンの結びのことばをもって説教を結びたいと思います。「この最後のことばは、わたしたちの幸福が地上に横たわってはいないことを示している」

ヨハネ11:25「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」


祈り

天の父なる神様、今日私たちはここにご遺族の方々とともに集い「召天者記念礼拝」をささげています。私たちのような罪ある者さえも、御子イエスの十字架の血をもって罪を赦し清め、神の子として迎え入れてくださった幸いを心から感謝いたします。この地上においても天での生活においても、イエス様は私たちの唯一の王であり救い主であられます。願わくはこの地上における私たちの生活が、永遠の神の国の麗しさをあらわす生活でありますように導いてください。

    
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