【福音宣教】 キリストの昇天 御国の王の即位式


2020/10/11から始まったルカの福音書の学びが最終回となります。コロナ禍の中の3年間でしたが、み言葉に励まされ勇気づけられ導かれたことを感謝したいと思います。

Ⅰ 聖書に立ち返れ

ユダヤの国、ベツレヘムでお生まれになったイエス様は、ナザレの村で成人し、ガリラヤ湖の漁師であった若者を弟子とされ、ガリラヤ地方で「神の国が到来した。悔い改めて福音を信じなさい」と神の国の宣教を開始されました。3年後、都エルサレムでユダヤ教指導たちに憎まれ、ついにはカルバリの丘で十字架刑に処せられ33年半の生涯を閉じられました。アリマタヤのヨセフが提供した墓に葬られましたが、3日目の日曜日の朝、墓を空にし、死の力を打ち砕いてよみがえられました。これらはすべて、すでに旧約聖書において預言されていたことであり、旧約聖書に記された神のことばを信じる者にとっては、まったく疑う余地もなく、戸惑う必要もないことをイエス様は繰り返し強調されました(45-46)。神の救いのご計画は聖書にことごとく書き記されている。イエス様はいつも弟子たちの心を開き、旧約聖書を紐解き、「モーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは必ず成就する」(44)ことを確認させました。いいかえれば「聖書に信頼せよ、聖書に立ち返れ」そうすれば、気落ちして弱っていたエマオの二人の弟子たちのように「こころを熱くさせられ」、(32)、確信と喜びにみち、信仰を回復することができるのです。

翻って2000年後の現代に生きる私たちには、旧約聖書の預言が成就した結果、その証人として立てられた使徒たちが記した新約聖書が手渡されています。だから「聖書を信頼せよ、聖書に聞き、聖書に学べ」と促されているのです。2000年にイスラエルを訪問したとき、ローマ法王が聖地を訪れ、世界中のカトリック教会の信徒が各地を巡礼していました。彼らの乗ったバスには「BACK to THE BIBLE」という横断幕が張られていました。カトリックであれプロテスタントであれ、聖書に聞き学ぶことなくして信仰生活はありえません。激動の時代、先の見えない不透明で不確実な時代だからこそ、天に帰られたイエス様は、このことを強く教会に遺言されたとも言えます。

Ⅱ イエス様の昇天

次に、イエス様はエルサレムから少し離れたベタニヤのオリーブ山(使徒112)まで弟子たちを連れて行き、弟子たちを祝福しながら、彼らの目の前で天に昇っていかれました(50)。この出来事をキリストの昇天と言います。よみがえられたイエス様が多くの弟子たちにその姿を御見せになられたように、そのまま地上にとどまっていつでも復活の姿を見せてくださればと誰もが願うことでしょう。ところが、イエス様はどうしても一度、天に帰らなければなりませんでした。2つの大きな目的がありました。よみがえられただけではまだ未完成だったからです。最後の締めくくりとなる使命・役割があったのでした。

第一に、天に挙げられたイエス様は、神の右の座に着座され、すべての栄誉と権利と栄光を父なる神様からお受けになりました。それは神の御国の王の座におつきになったこと、神の御子が永遠の御国の王として即位され、主権を父より託されたことを指しています。

「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ120) 

第二に、地上に残した弟子たちの群れ、すなわち教会に、ご自身の御霊をくだして、御霊の力と愛で満たして、全世界に「イエスの名による救い」を宣教するためでした。

マルコ1615-16 マタイ2818-19 には「大宣教命令」として記されています。「全世界に出ていき、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ16:15-16)

そのために、イエス様は「いと高き所から力を着せられるまで都にとどまっていなさい」(49)と命じました。エルサレムの二階座敷の集会所にいた120人ほどの弟子たちの上に、10日後のペンテコステの祭りの日に、突如、約束の御霊(使徒14)、キリストの御霊とも呼ばれる聖霊がくだったのです。臆病であったペテロをはじめとする弟子たちを、「臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊で満たし」(2テモテ17)、全世界に向かってキリストの福音を語り伝える証人とされたのでした。御霊の力と愛なくして宣教も奉仕もあり得ないからです。もし、人間的な熱心さや頑張りや方策により頼んで宣教するならば、それは宗教的な布教活動にすぎなくなります。

一例として、まさに臆病であったペテロは、使徒23840に記されているように、悔い改めとキリストの名によるバプテスマを受けるように、大胆に語りました。
「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエスキリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)こうして120人の小さな群れは3000人の大きな群れとなり「エルサレム教会」がついに誕生しました。さらに彼らは「エルサレムからはじまりユダヤとサマリヤの全土、地の果てまで」(使徒18)、キリストの福音の証人となって、散らされ、爆発的に福音は地中海沿岸世界にひろがったのでした。

「田毎の月」という言葉をご存じでしょうか。山間の段々畑に田植えの時期になると水が引かれます。本来、夜空に月は一つしか照り輝きませんが、水を蓄えた小さな段々畑の一つ一つの水面に、月がいくつも映って輝いている光景を伝えることばです。すべてキリストを信じる者たちの心の中に、キリストの御霊が宿り、キリストの信仰と愛と希望で満たしてくださるのです。「キリストの御霊を持たない者はキリストのものではありません」(ロマ89)。よみがえられた主イエスの御霊が私たちのうちに住んでくださっているから(ロマ811)、私たちはキリストの信仰と愛と希望に生きることができるのです。

私たちの主イエス様は、十字架で死なれ、よみがえられ、天の王座に着座され、あらゆる権威、権力、栄光と誉をお受けになった大いなる主権者なるお方です。栄光に満ちた、来るべき御国の王です。父なる神が定められた終わりの時に、キリストの御国が到来するとき、万物の完成の日、再びこの地上においでになります。私たち地上のすべての諸教会は「花嫁が花婿を待ち望むように」(ヨハネ329)その再臨の日を待ち望み続けるように召されています。

その日まで、よみがえられ天の御座に着かれたお方は王なる大祭司として、地上の民と教会を見守り、とりなし、守り、支えてくださるのです。

「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル724

私たちの人生とこの世界は主権者なるキリストの手の中に置かれ、祝福の中に日々導かれています。弟子たちはオリーブ山からエルサエムの町やそれぞれの家に喜びながら帰って(不定過去)、神をほめたたえながらいつでも神殿の境内(大庭)に集っていました(未完了形)。

信仰の旅路にはいくつもの困難や試練が待っています。しかし、安心しましょう。永遠の大祭司の祝福の祈りの中に私たちは存在しているのです。このことを忘れないようにしましょう。地上においてはよみがえられたキリストの御霊を心に受け、内なる命に満たされ、キリストと共に生きるのです。試練の時には天を仰ぎましょう。天には永遠の大祭司であるキリストご自身が、私たちの弱さを理解し、祈ってくださっているのですから。

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