【福音宣教】 マリアへの御告げ アドベント第三週

先週は東方ペルシャ地方に住む外国人の博士たちに、大きな星が出現し、世界の救い主がお生まれになったことを知らせたことを学びました。今週は純粋なユダヤ人女性に天使が現れて、「聖霊によって男の子を宿す」と受胎を告知した出来事から学びましょう。

1. 天使の訪問と御告げ

ガリラヤ地方に住むヨセフと婚約中であったマリアのもとを天使がおとずれ、信じがたいことばを告げました。聖霊によって男の子を宿すという知らせでした。み使いは「おめでとうマリア」と呼びかけましたが、マリアにすれば少しもめでたくありません、むしろとんでもない有難迷惑な話でした。というのは、非常に厳格なユダヤ人社会では、未婚の女性が妊娠するということは恥ずべき行為であり、家族にとっても家名を汚す不名誉なこと、もし不貞・姦淫の罪であれば石打の刑さえ定められていた時代だったからです。ですからマリアは即座に否定しました「どうしてそんなことがありえましょう」(34)と。

ところがみ使いは「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力がおおいます。それゆえ生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」(35)、「神のとって不可能なことは何一つありません」(37)とさらに語り続けました。

*誰でも嫌なことは聞きたくありません。誰が何を言っても聞く耳などまったく持ちません。「言わざる見ざる聞かざる」とばかり心のシャーッターを下ろしてしまうものです。ところがマリアは違っていました。彼女は当時としてはたいへん珍しく、女性でありながら旧約聖書の知識と教養を身に着けていたと思われます。おそらくマリアの両親が息子だけでなく、娘にも日ごろから旧約聖書を教え、学ばせ、神への信仰に生きるように育んでいたと思われます。マリアは元気いっぱい外で遊んでばかりいる子ではなく、物事を静かに黙想する祈りと思慮深さを兼ね備えた子供として成長したと思われます。

29節で、み使いの挨拶を聞いて「これは何の挨拶かと考え込んだ」とありますが、「考え込む」ということばは「思いめぐらしていた」と訳せることばです。ですから、み使いが「いと高き方の子、神である主、父ダビデの王座、ヤコブの家、終わることのない国」(32-33)という旧約聖書を知らなければ何のことかわからないような言葉を使っても、ちゃんとその意味を理解することができたのです。来るべきメシアを指していたからです。神があまたのユダヤ女性の中からマリアを救い主の母として選んだ理由の一つがここにあります。彼女の秀でた資質は、落ちついて、神の言葉を学ぶ、信仰の人であることが最大の特徴だったのです。イエス様の母が、毎日毎日ドタバタドタバタしている落ち着きのない女性だとはとても想像できませんね。

*「神にとって不可能なことは何一つありません」(37)というみ使いの言葉を、マリアは初めて信じたというのではなく、むしろ共有できたのです。それはマリアの日ごろの信仰そのものでもあったからではないでしょうか。

「不可能なことはないもない」と言われて、それを信じたとしても、人生で思いがけない困難や試練に会うたびに、心がくじけてしまい、「本当にそうかな、神様もときどきは失敗したり、できなかった、無理だったと言うこともあるんじゃないかな・・」と疑ってしまうお互いではないでしょうか。「人生には100%絶対ということなどありえない。完全でなければならないと思いこむからしんどくなるんだ。野球選手でも3割ヒットを打てば大打者だ、そこそこやれてれば立派なもんだ。イイカゲンとは言わないが良い匙加減で力を抜いて」と、人を励ましたり慰めたり、アドバイスすることがあります。しかし、人間の世界のことを神様にまで適用してはいけません。「神様も3割祈りを聞いてくれたら、もう立派な神様だ」「できなくてすまんかったな」と神様も時々は頭をさげて謝るので「許してやろうか」などと考えるクリスチャンはいません。確かに人にはできないことも多くあり、100%などはありえないけれど、「神にとって不可能なことは何ひとつない」。この言葉は真実であり、そこに私たちの希望があり、忍耐が養われ、たとえ今日倒れても、明日に向かって立ち上がる信仰の力があるのではないでしょうか。

*第2の資質は、「私は主のはしためです。あなたのことば通りになりますように」(38)という、謙遜と献身さです。男性であれば「主のしもべ」、女性であれば「主のはしため」と表現しますが、共通していることは「奴隷」ではないことです。奴隷は主人を恐れ、言われたことだけやればいい存在です。それ以上のことを勝手にやることは禁じられています。しかし「しもべ」は主人を愛し、主人に喜んでいただこうと、言われたこと以上の務めを自発的に行います。「居候、四角い部屋を丸く掃く」という川柳があるそうです。「奴隷は四角い部屋を四角く掃くだけです」が「しもべは四角い部屋をきれいに掃いたうえ、テーブルに花を飾ることができる人」を指します。

さらに、マリアは「主のはしためです。あなたのことば通りになりますように」と祈りました。何がこの身に起きようと、「あなたに委ねきります」という、全能なる神への深い信頼がそこには込められています。

考えてみれば、「乙女が身ごもる」!。これは衝撃的な出来事です。ナザレの町は大騒動に巻き込まれたことでしょう。中傷誹謗が飛び交うことは容易に想像できます。心無い批判と冷たいまなざしがマリアに浴びせられることになります。町中のあちこちでなされる「ひそひそ話し」は、マリヤとヨセフの耳にも届くことでしょう。現代流で言えばSNSであっという間にナザレの町だけでなくガリラヤ地方一帯まで噂話が広がり、ありもしない中傷誹謗、激しい非難と叱責が若いマリヤとヨセフの心を苦しめ傷つけることになります。現代社会でも、無責任な中傷誹謗が本人を苦しめ自殺にまで追い込んでしまったり、さらにはそのご両親や遺族までも傷つけているというニュースを私たちは見聞きしています。

*幸い、マリアはすぐさま親族のエリサベツのもとへ逃れ、半年近く暮らすように導かれました。とはいえ、マリアもヨセフも世間の冷たい目にさらされたことは想像できます。けれども彼らは、耐えることができました。主のしもべ、主のはしためとして、主と主のことばに従って生きる信仰が彼らを支えていたからです。何が起ころうと何があろうと、そして誰が何を言おうと、「主が私たちを支え、導いてくださる」のなら恐れることはないからです。

旧約聖書イザヤ4110には「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな、私があなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、私の義の右の手であなたを守る。」との力強いお約束が記されています。

*そのうえ、イエス様は「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:15)と弟子たちに語りかけたことばを思い起こしましょう。 

父のみこころをイエス様とともに共有している者をイエス様は「しもべではなく友」と呼んでくださっています。イエス様が、愛する友を見放したり見捨てたり裏切ったり、苦しみや悩みや試練の中にある者を一人孤独のままほっておかれるはずがありません。友のために命までも捨てる「十字架の愛」(ヨハネ15:13)をもって、私たちと共に歩んでくださるお方なのですから。救い主イエスのもう一つの名は「インマヌエルなる神」であることを今朝、心に刻みましょう。

*主なる神はマリヤだけにではなく、婚約者のヨセフにも現れ、「マリヤを妻に迎えなさい。その名をイエスと名付けなさい。この方こそご自分の民をその罪から救ってくださるかたです。・・その名はインマヌエルと呼ばれる(訳すと、神は私たちとともにおられるという意味である)」(マタイ121-23)と告げたことが記されています。

来週はいよいよクリスマスです。このお方の誕生を心から喜び祝い、感謝しましょう。


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