【福音宣教】 ああ、主のひとみ、まなざしよ

20230924 主イエスのまなざし ルカ2254-62

・今日の聖書の箇所は、ペテロの大失敗が記されています。イエス様が逮捕され、大祭司アンナスとカヤパの邸宅に連行された時、ペテロは遠く離れながら、夜の闇の中に身を隠しながら後をついていきました。他の弟子たちはみなイエス様を捨ててにげてしまいました(マタイ2656)。 「たとえ牢であろうと死であろうと覚悟はできています」(33)と意気込みを語っていたペテロはここまではイエス様への愛からついてきましたが、見つからないように隠れながらついていったのは恐れからでした。信仰には神への愛と同時に世に対する恐れがいつも複雑に入り混じっています。それが私達や教会の信仰のありのままの姿、実像です。そうしたもろさは恥じることでも情けないことでもありません。むしろ、弱さを見せられない、隠さなければならないとしたらそれはイエス様が願われるキリスト教の信仰の姿ではありません。そのようなうわべだけの教会に所属したいと私は思いません。真実なありのままの交わりを失っているからです。だからこそ聖書はこのような弟子たちの姿をありのままに記すのです。

・さて、カヤパの家の中庭では深夜の寒さをしのぐため、焚火を囲みながら多くの人々が、イエス様の尋問の様子を見守っていました。焚火の明かりで周囲も照らし出されていましたから、ペテロの顔もはっきりとわかりました。すると一人の女中が「イエスとずっと一緒にいた」とペテロを指さしました。ペテロは非常に恐れて「知らない」と打ち消しました。カヤパの邸宅の中庭で、同じようなことが3度起こりました。三度目は、ペテロに耳を切り落とされたマルコスの親戚の者で下から決定的でしたが(ヨハネ1826)、それでも「言ってることがわからない」と、否認し続けた最中に、夜明けを告げる鶏の鳴き声が聞こえてきました。その時ちょうど、カヤパの尋問が終わり、引き続いて宗教議会での裁判に身柄を移すためイエス様は外に連れ出されました。イエス様は、振り返りながらペテロを見つめました(61)。必死で自分を守っていたペテロはこの瞬間、主の言葉(2232)を思い起こし、そこにいたたまれなくなって、庭の外に出て激しく泣いたのでした。

・イエス様はペテロがついてきていること、3度にわたって自分を守るため「イエスを知らない」と否んだことなどすべて知っておられました。ですから、そのままペテロを放置しないで、あえて「振り向かれた」のでした。もし放置していたら、ペテロは自分のふがいなさや情けなさのどん底に一人叩き落され、そこから這い上がることはできなかったのではないでしょうか。もしイエス様のペテロを見つめたまなざしが、ペテロの失敗を責め立てるような冷ややかな視線であったら、ペテロはイエス様を否んでしまった、こんな自分がイエス様の弟子であるなどと二度と口にできないという挫折と自責の思いと自己嫌悪で、一生涯苦しみ続けたのではないでしょうか。                                                                 
ユダのように自殺にまで追い込まれなくても、赦しも救いも得られないまま、暗闇の中、魂の死を抱えたままむなしく、さ迷って生きるだけの日々となっていたかもしれません。そんなペテロを救ったのはイエス様のまなざしでした。そこにはイエスキリストの十字架の愛の深さが満ちていました。

1. 赦しのまなざし

・ペテロにとってイエス様が「振り返って」くださったこと、振り返られたイエス様の「まなざしがあたたかな赦しのまなざし」であったことはなんと幸いなことだったでしょう。

ペテロだけではありません。私たちも人生で、あるいはクリスチャン人生で、どれほど多くの失敗を重ねてきたことでしょう。失敗のない人生などは存在しません。そして、失敗と罪とは必ずしも一緒ではないと思います。その最大の理由は、失敗は意図したものではないからです。最初から失敗することを目指していたわけでも、わざと失敗しようとしていたわけでもありません。一生懸命、精一杯頑張ったけれど、自分の意に反して、結果として失敗してしまったということが多いのではないでしょうか。

意図したものではないからこそ、責め立てられたり、攻撃されたり、非難の集中砲火を浴びれば、いたたまれなくなります。だれか一人でも味方になってほしい、弁護してほしいと願うのではないでしょうか。ペテロを振り返られたイエス様は、最後までペテロの味方となって支えてくださったのでした。最後までご自身の弟子たちを愛されたイエス様の姿をここにも見ることができます。

・太平洋戦争の末期、ミッドウェイ海戦で日本の連合艦隊は壊滅的な打撃を受け、空母4隻と戦闘機290機、兵士3000名を失ってしまいました。空母赤城で指揮を執っていた南雲司令官の大失敗と大失態でした。戦艦大和に乗っていた連合艦隊の山本五十六長官は、彼を裁かず、非難せず、沈没した空母から退避してきた司令官を迎え入れ、何も言わず「腹が減ったろう」とあたたかいお茶づけを出して労ったそうです。司令官は男泣きをしながら茶漬けを口にしました。この映画を見た時、私は、イエス様がペテロを振り返ったときのまなざしは決して、女性的なイメージではなく、むしろ力強いすべてを胸の内に抱え込むことができる「大将の器」のようなまなざしだったのだろうと理解しました。人が人の失敗や過ちを赦すとは、こういう深く大きな態度なのだなと、イエスキリストというお方の度量、器の底知れない大きさに敬服しました。

2. 人を立ち直らせるまなざし

さらに、ペテロを立ち直らせたのはイエス様のまなざしだけではなく、「あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力つけてやりなさい」(2231)との言葉でした。この失敗から、挫折から、弱さから、試みからやがてペテロは回復していくことを、立ち直って行く姿をイエス様は見ておられました。失敗や挫折はそれをありのまま認め受け入れた時、キリストの前で悔い改めの涙となったとき、その人を立なおらせるばかりでなく、他の人々を励ましていく大きな霊的な力となっていくことを私たちは学部ことができます。神のみこころにかなった悲しみは、その中から新しいいのちを生み出すことができるのです。

・讃美歌243番は日本人が作詞作曲した数少ない讃美歌の一つです。日本の若い二人の神学生たち、梅田信治さんと井置利夫さんによって共作された歌詞です。井置利男さん(1926-)は,海軍の予科練特攻隊員として出撃する日を待っていましたが、敗戦を迎え、魂の挫折の中で3年間むなしく生きていました。そんなおり、同じ日本の主要都市を爆撃したアメリカ軍のパイロットで日本軍の捕虜となり、のちに宣教師として再来日したヤコブ・デシエーザーの「復讐から愛へ」という講演を聞いて感動し、クリスチャンになりました。やがて牧師になるために献身しましたが、「努力すればするほど実行できない自分。そんな偽善的な自分の姿に目覚めはじめ苦悩するようになりました。自己嫌悪に陥っていた自分にも、ペテロと同様、主のまなざしが注がれていることに」気づいて、流れてくる頬の涙を押さえきれず、教会の祈祷室で書き綴ったのが現在の『ああ主の瞳』の第2節の歌詞だったそうです。のちに神学生の同級生とともに1節3節を書き加え、付け讃美歌歌詞のコンクールに応募しました。

一方、クリスチャンとして学校の音楽の教師をしていた作曲者の高田早穂美さんは「自分の罪意識に苦しんで、絶望感に襲われていた」時にこの作品に出会って、「ああこれは、わたしの為の詩だ・・・」と深く感動し作曲されたとのことです。こうしてこの名曲が世に出されたのでした。

・この曲に触れた多くのクリスチャンは、高田さんと同様に、「これは私のための詩だ」と深く感動したのではないでしょうか。ペテロだけではなく、井置さんも、高田さんも、そしてこの私自身も「主のまなざし」の中で赦され、励まされて歩んでいると感動し感謝の思いを深めたのではないでしょうか。

この世の中では、私たちはしばしば失敗する時、挫折する時、あるいは罪に敗北する時、情けない奴、だらしない奴、最低の奴と周囲から、冷たい目で見られたり、さげすまれたり、馬鹿にされたり、突き放されたりする、心が凍り付くような経験をすることがあります。だからといって世を恨んだり、憎んだり、怒りを覚えたりしても救いになりません。反対に自己卑下に落ちいったり、被害者意識を強めたり、自分はもうだめだと自己嫌悪に陥ってもそれも解決にはなりません

主イエスのまなざしが自分に注がれていることを信じましょう。信仰は主のまなざしの中で支えられているのです。私たちも主を見つめながら、天国への旅路を弱さの中にありながらも歩み続けましょう。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(へブル12:2) 

  目次に戻る