【福音宣教】 十字架を語る宣教の旅路

2023年9月3日 ルカ22:35-38

イエス様の地上での残された時間は24時間を切りました。いよいよイエス様の十字架の処刑が明日の朝9時からと迫ってきていましたが、それを知っているのはイエス様だけでした。弟子たちは、誰が一番偉いかと肉的な争いをし、ユダはイエス様を裏切り、ペテロは「たとえ牢獄であろうと殉教の死であろうと」(33)どこまでもついていきますと肉的な力で豪語していました。そんなペテロだけでなく弟子たちに、そして現代に生きるクリスチャンたちをも視野に入れて、イエス様は「あなたがたの信仰がなくならないように、あなたがたのために祈った」(32)と語り、永遠の大祭司として今も祈り続けておられることを約束してくださいました。私たちが神に祈る前に、神にすでに祈られている、それが祝福です。そんな大きな恵みをすべての神の子たちは経験できるのです。

さて、続いてイエス様は弟子たちを新たに派遣するために「これからは財布を持ち、旅行用の袋を持ち、剣を買いなさい」(36)と不思議な命令をくだしました。

1. 初回の宣教旅行

・すでにイエス様は弟子たちを宣教の旅に遣わしました。ルカ93は12弟子を派遣し、104以下では70人を派遣しています。その時の心構えとして、「何も持たずに出かけなさい」と命じています。その時の派遣の目的は、弟子たちの神の力と権威を与え、「神の国を宣べ伝え、病気を治す」(92)ためでした。言い換えれば、「神の国の到来」を宣教するための旅と言えます。イエス様の言葉に従い、宣教の旅を歩む者たちに対し、父なる神は必要をすべて備えられることを弟子たちに経験させるためでした。「何も持たずに行きなさい」と命じられたイエス様は、その時を振り返って「何か足りなかったか?」とあえて尋ねました。弟子たちは欠けるようなことは「何もありませんでした」と喜びと感謝の言葉を語ったのでした。「主の山に備えあり」を実体験として弟子たちは味わいました。

・私たちの人生を旅にたとえるならば、イエス様抜きで歩んでいた人生の旅路とイエス様を信じてイエス様のことばに従って歩みだした新しい人生の旅路と二つに分けることができます。イエス様を信じて新しい人生の旅を始めるならば、父なる神様がすべての必要をご存じで、満たしてくださるという恵みを経験させていただくことができます。しかし、イエス様抜きの人生の旅路を振り返ってみれば、いつも何かが足りない、何かがまだ不足している、まだ満たされていないという不満と愚痴がいつもこぼれ出ていたのではないでしょうか。「我、足りるを知る」という気持ちにはなかなかなれず、たとえ豊かであっても、多くを持っていても、まだ不安を抱え、こころの安らぎからは程遠い日々ではなかったでしょうか。

ところが、イエス様とともに生きる人生、新しい信仰の旅路を歩みだした時から、私たちはどのような環境の中に置かれても「キリストにあって満ち足りる」(ピリ411)という安らぎを得ることができるようになりました。なぜなら、キリストの父なる神が必要をすべてご存じで、満たしてくれることを知り、実際に経験させてくださるからです。

「空の鳥をみなさい。・・・野のユリをみなさい。・・・あなたがたの天の父はそれがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(マタイ621-34

40年前、私も家内もアルバイトをしながら開拓伝道を始めたとき、老姉妹がよく食事に招いてくださり、祈ってくださいました。妊娠した家内に「赤ちゃんはみんな自分が生きていくうえで必要なものは目に見えませんが、ちゃんと背負って生まれてくるから心配しなくてもいい」と語ってくれた言葉に励まされました。二人の息子は健康で病気一つせず元気に成長し、やがて結婚した長男は3人の孫娘・姫君どのを我が家にもたらしてくれました。確かに人知を超えた大きな袋を背負って生まれてきてくれました。

2. キリストの十字架の宣教

さて、今度の宣教では、イエス様は、「旅のための袋も財布も剣さえも持って」準備をするように命じました(36)。一回目との違いはどこからくるのでしょう。イエス様と弟子たちをとりまく環境はこの3年間で大きく変化しました。今までのように「神の国が近づいた」というメシアによる神の国の到来を告げる宣教から、メシアの苦難による救い、すなわちキリストの十字架の死と復活を語り伝える宣教へと神のご計画が前進しました。おのずと、弟子たちが宣教するメッセージもアップデートしました。神の国のメッセージはユダヤ民衆が期待していた受け入れやすいメッセージでしたが、キリストの十字架の死と復活のメッセージは彼らには受け入れがたくむしろ反発を抱くものでした。そのため、「主の御名によって来る者に祝福あれ」と歓喜の声をあげてイエス様を迎えた群衆は、「イエスを十字架につけろ」と叫びだすほど一変してしまいました。ユダヤ教会からの反発はキリスト教会への迫害となり、やがてステパノの殉教、ついで主の兄弟ヤコブの殉教に至りました。

「財布も旅の袋も剣さえも買って用意しなさい」との教えは、十字架のメッセージを語る弟子たちに、反発や迫害といった苦難に直面するが、恐れることなく、前もって覚悟し対処しなさいという弟子たちへの配慮のことばとして理解することがふさわしいと思います。もちろん武装蜂起の勧めでは決してありません。

・事実、十字架による救いの宣教は、ユダヤ人社会ばかりでなく異邦人社会にとっても大きなつまずきとなりました。それゆえパウロは、「十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受けるわたしたちには神の力です」(1コリ118)、「それゆえ神はみこころによって宣教のことばの愚かさを通して、信じるものを救おうと定められました」(21)「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが」(23)と語っています。

・主の弟子たちが、世に向かって語り伝える「十字架の救い」は、自分の十字架を負って日々歩むという人生の旅路と切り離すことはできません。十字架のことばは、十字架を日々負って生きる者たちが語ることによって、より真実さを伴って証されていくのです。

3. それで充分です。

イエス様の言葉の真意を理解できなかったペテロは、「剣ならばわざわざ買わなくても、もうここに二振りあります」と答えました。イエス様は弟子たちの誤解をただすことなく「それで充分」と語りました。もう時間がなかったからです。なかなかイエス様の言葉を理解できず、誤解したり、ちんぷんかんな応答をする弟子たちをイエス様は、「こりゃだめだわ」とあきらめたのではなく、そのまま受け入れてくださったのでした。

大沢勉牧師は「誤解されたまま、その誤解を解くこともせず、誤解している相手を赦して受け入れる、これは愛というものであろう」(メディテーションp16)と書いています。私たちはいつでもイエス様のすべてを知り尽くすことはできません。人間の聡明な知恵をもってしても神のすべてを知ることはできません。

そのような私たちをイエス様はまるごと受け入れてくださって、裁くことなく導き続けてくださる寛容と慈愛に富んだお方です。わからないことはわからないまま、そのまま信じて従ってきなさい。

それで「十分だ」と顧みてくださる救い主イエス様と信仰の旅路という新しい人生を歩みましょう。御国に入る日まで。

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