【福音宣教】 しもべのこころ・サーバンツシップ

2023年8月13日 ルカ22:24-30

感動的な最後の晩餐の最中の出来事です。弟子たちの間で様々な議論が湧きおこりました。「私をうらぎるものの手が私と共にある」(21)と、イエス様が語れば、「いったい誰がそんなことをするのだろう」と疑心暗鬼で議論をはじめ(23)、今度は「いったい誰が一番偉いのか」(24)という議論へと移っていきました。裏切るような弟子は最低の弟子だとすれば、最高の弟子はいったい誰だろうと論じだしたのです。名前が挙がった弟子はまあまあと得意げになり、名前が挙がらなかった弟子はあいつよりはまだ俺のほうができるはずなのにと心中穏やかでなく、苦虫をつぶしたような顔をしていたことでしょう。あるいは、イエス様は「誰のことを考えているのだろう」と推測する弟子もいたことでしょう。

彼らの議論を聞いていたイエス様は、弟子たちに明確な答えを示されました。

1. この世の論理

「この世では人々を支配する者は王とあがめられ、権威を与えられ、「守護者」あるいは「恩人」という特別な称号で呼ばれているが、あなたがのあいだではそうであってはならない」(26)と明確に否定されました。事実、エジプトのプトレミウス3世やロ―マのトラヤヌス皇帝には、「守護者」という称号が与えられた記録がのこっているそうです。いつの時代であっても、世の人々は、人の上に立つことにあこがれ、力と富と権力を追い求め、頂点を極めたこの世の権力者は、特別な栄誉と称号を受けることに満足を覚えます。しかし、主のしもべたちはそうではありません。

2. 神の国の論理

ところが神の国では、発想も価値観も全く異なります。「一番偉い者は最も若い者のようになりなさい、治める人は仕える人のようでありなさい」(26)とイエス様は示されました。年功序列の文化社会においては、「若者のように」とは、「自分はとるに足りない小さなものであるという自覚をもって、神と人に仕える」ことを指しています。マタイ184には「この幼子のように自分を低くする者が天国では一番偉い」と、イエス様はことばを変えて同じ趣旨のことを語っておられます。
「小さな者」との自覚は、「謙遜と柔和さ」を、弟子の中に創り出します。

ある伝道者は、多くの教会を巡回して、わかってきた共通の牧師像は、「柔和と謙遜」であると語っています。そして、この柔和と謙遜が、「仕えられることよりも仕えることを喜びとする」、奉仕の生涯を導くのです。このような、しもべとして神と隣人に仕える生き方は、すべてのクリスチャンに共通する姿ではないでしょうか。しかも何歳になっても変わらない姿といえます。

・仕えるこころは、英語で「サーバンツシップ」と呼ばれます。神の国には、ただ一人の王なるキリストと、王のみこころを喜びをもって行うしもべたちが存在します。しかしながら、仕えるこころ、「サーバンツシップ」という霊的な心構えと態度は、すぐに身に付くわけではありません。時間と忍耐を要します。ですから、この地上での人生において、神の子供たちは「仕える心」を学び続けるのです。人生は私たちがサーバンツシップを学ぶ稽古場です。偉そうにふるまい、まわりからあがめられ、人の上に立つことや、人を支配することを求める肉の欲や高ぶりを、すぱっと脱ぎ捨てることを学ぶ、道場のようなものです。イエス様はまさにそのお手本となってくださいました。

3. しもべのこころ

では、「しもべの心」とはどのような心のことでしょう。

イエス様は第一に「あなたがたは様々な試練の時にも私についてきてくれた人です」(28)と弟子たちに語っておられます。過去形で表現されていますが、むしろイエス様は、弟子たちのこれまでの歩みではなく、十字架の死後の弟子たちのこれからの歩みをも視野に入れて、この言葉を語っておられるようです。イエス様は弟子たちに、「自分の十字架を負うて、私に従いなさい」(ルカ923)と言われました。イエス様を信じ、イエス様についていく道は、12弟子たちだけでなく、現代に生きる私たちにとっても「十字架の道」であり、そこには様々な試練や苦難が伴うことは避けられません。したがって、上り坂であっても下り坂であっても、何があっても、どこまでもイエス様についていくという「信仰による従順な歩み」が、「しもべの心」の本質といえます。

時代劇では王様が「だれかあるか」と呼べは、隣の部屋や廊下で控えていた侍従が「ははあ、ここにおります」と、すぐに進み出てくる場面がよくあります。しばしば私たちは、「イエス様が私のそばにいてくださる」という恵みを強調します。しかし「私がイエス様のそばに、いつでもついているか」をも、自らに問うべきではないでしょうか。

4. しもべに対する究極の報い

しもべに対してイエス様は、究極の報いを約束してくださっています。「わたしもあなた方に王権を与えます」(30)という約束です。具体的には30節にあるように「キリストの御国」で、「キリストの食卓に着いて食事を共にし」、「イスラエルの12の部族を裁く王座に着く」と言われている約束です。地上における約束ではなく、世が改まって、キリストによる新しい神の国という世界が誕生する終末におけるスケールの大きな約束です。「与える」とも「ゆだねる」とも訳されたことばは、「契約する」という強い意味をもっているそうですから、間違いのない確かなイエス様の約束を示しています。

・食事を共にするとは、「祝宴」であらわされる神の国の喜びを示しています。食事を共にすることは、いつの時代でもどこの国でも、「親しい交わりと喜び」の象徴的行為とされています。教会で持たれる愛餐会の再開を私たちは待ち望んでいます。礼拝後は、おなかがすくから食事会が待ちどおしいというのではなく、食卓を共に囲むことが、喜びに満ちた神の国の交わりそのものだから待ち望むのです。聖餐式も愛餐会もそして洗礼式も「天の喜び」の前祝としての魅力を持っているから、感動するのです。

・イスラエルの12の部族とは、神の民全体を表しており、旧約時代のイスラエルと新約時代の教会の両方を含めた言葉と解釈するのがふさわしいとされます(中沢)。王位を与えるとは、イエス様と同じ支配と権威に預からせていただくことを指します。もっとも小さなものがイエス様と同じ権威に預かるとはもったいないほどの栄光であり誇りではないでしょうか。終末の日、どのような形で実現するのか大きな楽しみです。

イエス様にどこまでも従って歩んでいく「しもべ」の生き方は、決してやさしいものではありません。クリスチャンとして生きていく歩みの中には、様々な試練があり、サタンのゆさぶりがあり、つまずきもあることでしょう。人は大きな岩にはつまずきませんが、小さな石につまずき、こけてしまいやすいものです。また、生まれながらの肉なる人間の特徴として、「疑いと否定的な想像」(いわゆる思い込み)を拡大してしまう傾向があります。

それゆえに、人を見るのではなく、しもべは主人であるイエス様だけを見て、イエス様のそばに常にいて、イエス様のみこころを行うことを喜びとして歩みたいものです。

「試練に耐えた人は幸いです。・・いのちの冠を受けるからです」(ヤコブ112

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