【福音宣教】 友よと呼んでくださる主イエス

2023年8月13日 ルカ22:1-6 21-23

友情を物語る作品といえば、日本人の多くは太宰治の「走れメロス」を思い浮かべるのではないでしょうか。聖書中では4種類の愛に関するギリシャ語が用いられています。神の愛を示すアガペー、友情を示すフィリア、親子の愛を示すストルゲー、恋愛を示すエロス、
それぞれに心打つ多くの感動的な史実や文学作品があり、私たちの人生を意味ある奥深いものとしています。「愛」という言葉は日本人にはなじみが薄い言葉だったようで、明治時代の文豪二葉亭四迷は「私はあなたを愛します、ILOVEYOU」をどう翻訳するか考えに考え、「私、あなたのためなら死んでもいいわ」と訳したそうです。イエス様も「人が友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛を誰も持っていません」(ヨハネ15:13)とアガペーの愛を解き明かしています。イエス様を裏切ったユダに対するイエス様の変わらぬ愛を学びましょう。

1. イエスを銀貨30枚で敵の手に渡したユダ(1-5 2. 絶望的な後悔に陥ったユダ(マタイ273  3. ユダに対する変わらぬイエスの愛(47-48

1. イエスを銀貨30枚でユダヤ教指導者に引き渡したユダ(マタイ273-5

銀貨30枚とは奴隷一人の値段でした。マリアがイエス様に注いだナルドの香油の1/3の値段に過ぎないといわれています(中澤)。マタイ26:15では「引き渡したとしたらいくらくれるか」とユダは交渉さえしています。思ったより低かったが応じるよりほかありませんでした。これは明らかに意図的なユダの裏切り行為であり、神がキリストの十字架の死というご計画のためにあらかじめ裏切り者としてユダを選び決定づけていたわけではありません。当然ながらユダの中には迷いやためらいがあったことでしょう。

人は何かを決めるにしてもかならず最後まで思い悩み、揺れうごくものです。高い橋の上から投身自殺をする人は、暗い海の方向ではなく、必ず街の光が輝く方向に飛び降りるそうです。さらに最後まで携帯電話に目をやっているそうです。もし電話やメールがその瞬間に入ったら思いとどまるかもしれません。人はそうした命への希望、人とのつながりを最後までどこかで迷いつつ求めています。その人が迷いやためらいをふっきって死と罪と滅びを選び取ってしまう瞬間をルカは「悪魔が入った」と表現したのではないでしょうか。こうして、ユダはキリストに従う道を離れ、破滅と滅びの道へと「まっさかさまに」(使徒118)落ちていったのでした。

2. ユダの絶望的な後悔

ユダはまさかイエス様が十字架の処刑にされるとは想像していなかったようです。「イエスが罪に定められるのを知って後悔し、銀貨30枚を返して「私は罪を犯した。罪のない人の血を売った」(マタイ274-5)と絶望感と罪悪感に陥りました。そして、首をくくって自殺しました。「後悔」(メテメレセイス)と「悔い改め」(メタノエオー)とは異なります。後悔は「よくないことをした」という、人間的反省にすぎません。その後の人生に大きな影響を残しません。やがては忘れられていきます。一方、悔い改めは、神の前における祈りであり、「方向転換」ともれるように、その後の生き方に変化をもたらします。行動を変容しうる霊的な力を受けるのです。後悔と悔い改めとは似ているようですが、むしろ正反対にものと言われています。悔い改めには救いがあっても、後悔には救いはありません。道徳には後悔があり、福音には悔い改めがあります。

3. ユダに救いはなかったのでしょうか。

イエス様はユダが敵を引き連れてやって来た時、マタイ26:50で「友よ、なんのために来たのか」と呼びかけました。ルカは「ユダ、口づけで人の子を裏切ろうとするのか」(2248)とのイエス様の厳しい言葉を記しています。はっきりとイエス様にはユダの裏切りがわかっていました。すべてをお見通しのうえで、「友よ」とユダに呼びかけました。友(エタイレー)という言葉は親しさを表す言葉ですが、幾分距離のある相手に使うことばだそうです。しかし、それでも「友よ」という言葉には、ユダに対する愛があり、後悔の波間に沈むユダを、悔い改めに引き上げようとされるイエス様の変わらぬ慈しみの手が差し伸べられているのです。

このように、イエス様は「最後まで弟子たちを愛されて」(愛をあますところなく示されて)(ヨハネ131)、ユダに対してさえ最後までイエス様の愛は注がれていたのです。

ユダは確かに銀貨30枚でイエス様を敵に売り渡すという「裏切り」をしました。しかしペテロもまた3度も、イエスなど知らない、神に誓っても知らないとイエス様を裏切り、逃げ出しました。ユダもペテロも代わりがありません。そしてほかの12弟子たちもみな同じです。いつでもイエス様を否定し、裏切り、イエス様を売り渡していくような罪深さを内包しています。そのことを自覚してるかしてないかの違いといってはいいすぎでしょうか。

レオナルド・ダビンチが描いた最後の晩餐を書き上げるに際して多くの下絵を描き残しています。ユダのみを食卓の手前に置く構図をはじめは考えていたそうです。裏切り者のユダを他の弟子たちと区別するモチーフでした。ところが完成された作品においては、ユダは12弟子の間に置かれていました。なぜでしょうか。ユダの裏切りは12弟子すべての問題だったからであると、大沢秀夫牧師は解説しています。ユダ一人がイエス様を裏切り、売り渡したのではありません。

・イエス様はそれゆえに最後の夜、聖餐式を定められました。記憶や思い出というものは時間とともに色あせ、忘れ去られていくものです。イエス様は弟子たちに、夕食の席で、パンを裂き、葡萄酒を飲むたびごとに、私を記念してこれを行えと命じました。聖餐式を加わる度ごとに、主イエスの十字架の死のゆえに、無代価で指しだされた罪の赦しを信じ、深く覚え、感謝し、主の弟子として従い続ける生涯を歩むことを祈り続けるためです。

こうして、聖餐式のたびごとに、私たちはカルバリの丘の十字架の前に導き出され、主の手足が十字架に釘付けされる音を聞き、流されしたたる血潮を見、「父よ、彼らを赦してください」と祈られた主イエスの御声を聴くのです。そして十字架の赦しを、神のゆたかな恵みとして味わうのです。

・信仰の歩みを難しく考えがちですが、十字架で死なれ、身代わりとなって罪を償い、赦しと永遠のいのちを与えてくださったイエス様を救い主と信じることのみであって、いたってシンプルです。信じるだけで十分なのです。日曜日、家でごろごろしてたり、ぼーとしてるのではなく、また遊びほうけているかわりに、午前中、教会の礼拝に集い、神に感謝の祈りと賛美をささげ、信仰の仲間と交わり、励ましを受け、励ましを与える。そして新しい1週間を歩みだす。それがすべてです。

私たちは決して完全でもなく、聖人君子でもなく、イエス様を裏切ったユダやイエス様など知らないと否認したペテロと同じ弱さと罪深さをかかえながらも、「友よ」と呼びかけてくださるイエス様の御声を聴き、かわらぬ愛にとらえられて日々歩ませていただいているのです。  

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