【福音宣教】 銅貨2枚のささげもの

2023年7月9日 ルカ21:1-4

神殿の中でイエス様は裕福な者たちが献金を献金箱に投げ入れる光景をご覧になりました。

神殿の中の献金箱は、トランペット型で上は広く中は狭くなっていたそうです。「婦人の庭」と呼ばれる場所に設置され、用途が指定された13個の献金箱が置かれ、それぞれの箱の傍には祭司が立っていました。献金者は自分の献金の使い道と金額を祭司に告げ、祭司は記録したそうです。以前にもイエス様はパリサイ人たちがこれ見よがしに仰々しく祈ったり、献金する様子を苦々しくご覧になられていたことが記されています。「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」(マタイ6:2-3)」とのことばに、このような背景があったのでした。

神への捧げものは、その人の神への愛と敬虔な礼拝への姿勢をそのまま表しているといってもいいでしょう。

さて、イエス様のまなざしは一人の女性に向けられました。彼女は夫を亡くし生活に困窮していた貧しい女性(寡婦)でした。その彼女がレプタ銅貨2枚を献金箱にささげたのです。レプタ銅貨と言うのは1日分の給与の約130分の1の額。日本円で言えば80円ほどですから、2枚で160円ほどを捧げたことになります。その時、イエス様は、弟子たちを呼び寄せて「金持ちたちは余っている中から献金をしたが、貧しい寡婦は乏しい中から生活費すべてを捧げた」「誰よりも多くをささげたのである」と教えました。

1. 「投げ入れた」という動詞は不定過去分詞で「ためらうことなく堂々とささげた」という意味です。裕福なものは余り物から堂々とささげたけれど、貧しい彼女の捧げものはわずかな金額でしたが、堂々とささげました。「恥じることも、卑下することもなく、人目を避けてささげた」わけではありません。まことの神への真実な献金にはこのようなさわやかさが見られます。他の人と比べて「引け目」を覚えるようなことはみじんもないことがわかります。イエス様は、いくらささげたかを問いません。どのような思いでささげたかをご覧になっておられるのです。高ぶった捧げものも、卑下したような捧げものも、神はどちらも喜ばれません。すべては神への感謝の捧げものだからです。

2. 「生活費のすべて」を彼女はささげました 生活費と訳された言葉「BIOS」は、いのち、生活、生涯をも指すことばだそうです。つまり彼女は神殿で神様に向かって、お金を捧げたのではなく、彼女のいのち、生活、全生涯を委ねてささげたのだと言えます。もし彼女の全財産がもう160円しか残ってなく、それを全部神様にささげてしまったとしたら、それはすごいことです。明日の朝のパンを買うこともできない。もし子供がいたら明日から飢え死にさせてしまうかもしれない。そんな親は世にいません。彼女が生活費のすべてを捧げたことは、「献金」と言うよりは、「すべてを神の御手に委ね切る献身と信仰の究極の姿」とさえ言えます。

パウロはロマ12:1-2で「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ロマ121)と語っています。神殿の中では、数多くの動物の犠牲の供え物が祭壇にささげられました。しかし、神に自らを委ねる、捧げる、明け渡すことこそが、真の礼拝、神の御旨にかなう礼拝であるとパウロは語っているのです。

献金の時間は確かに礼拝の中に組み込まれています。そして、「いま私たちは感謝と献身の思いを込めておささげいたします」と祈ります。しかし、献金だけが献身の時ではなく、礼拝そのものが神にすべてを委ねる、任せる、明け渡す、「献身」の時そのものであることを改めて学びたいものです。

・1800年代に活躍した南アフリカ大陸の冒険家であり宣教師でもあったリビングストーンの子供のころのエピソードです。教会の礼拝に出席し、献金の時間になりました。彼は献金を持ち合わせていませんでした。献金のお盆が回って来た時、献金当番の大人に「お盆を床においてください」と頼み、彼はそのお盆の上に乗って「イエス様、僕をささげます」と言ったそうです。神様はこの時からこの少年の上に目を注ぎ、導き、祝福してくだったのでした。

・毎週、日曜日の朝、私たちは礼拝に出席します。心の底からハレルヤと歌いながら礼拝に集うこともありますが、むしろ多くの悩みや葛藤やいまだに解決できない問題をこころの内に抱えながら、礼拝の場に坐っている場合が多いのではないでしょうか。み言葉を聴いて、イエス様と出会って、「あなたに思い煩いごとのすべてを委ねます。そしてなにより思い煩っている私自身を委ねます」と祈ることができたとき、誰もが心からアーメンハレルヤとなるのではないでしょうか。悩んでいる「問題を委ねる」だけでは半分です。悩んでいる「自分自身を委ねる」ことができたとき、まるごとアーメンとなるのです

カウンセリングでは、「何が問題となっているかを明確に、そのためには何ができるかできないか」を探っていきます。でも信仰の世界は違います。「悩んで苦悩している自分自身」を神にゆだねることを学びます。なぜならば、安心して委ねることができる確かな神の存在がそこにあるからです。「明日のことは明日自身が思い煩う」と語り掛けてくださる主イエスがおられるからです。

3. 私たちの感謝と献身の祈り

7月から献金の祈りを皆さんにささげていただきます。大人だけでなく中学生も小学生も親御さんと共にささげていただきたいと願っています。それは礼拝に御霊によって招かれたすべての者が、感謝と献身の生涯を歩むことの告白であり、うるわしい表現でもあるからです。ですから、人に聞いてもらうような長々とした祈りはいりません。祈る者の感謝と献身の思いをこめた率直なシンプルな祈りをささげてまいりましょう。

すべては主のもの、主から預からせていただいたものです。主から託されたものを使わせていただいているにすぎないのです。「ほんの一部をお返しいたします」という献金の祈りをよく耳にしますが、主の日の朝、 新しい一週間の始まりの朝ごとに、「あなたから預かったすべてをお返しいたします」「あなたに私の生涯をまたあらたな気持ちでお委ね致します」と祈ることが本来の献金の祈りではないかと思わされます。

「知れ、主こそ神。主がわたしたちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」(詩篇1003

  目次に戻る