【福音宣教】 神のものは神に返しなさい

2023年6月18日 ルカ20:20-28

律法学者や祭司長たちを中心とするユダヤ教指導者とイエス様との対立はいよいよ激しくなっていきました。ローマ総督にイエス様を訴えて引き渡すために、義人を装ったまわし者(間者)を送りました。彼らは「私たちがカイザル(皇帝)に税金を納めることは律法にかなっていることか、かなっていないのか」(22)とイエス様に問いかけました。イエス様は魂胆を見抜いて、「デナリ銀貨」を見せなさいと命じました。彼らが差し出したデナリ銀貨には皇帝カイザル・ティベリウスの肖像が刻まれていたからです。イエス様はそれを確認したうえで、「カイザルのものはカイザルに。神のものは神に返しなさい」と、語りました。 

ユダヤの国は当時、ローマ政府の属州でしたから、ローマ総督ピラトが立てられ、ヘロデ王家に属する領主が支配していました。14歳以上の男子、女子12歳以上のユダヤ人にはデナリ銀貨で納める人頭税が課せられていました。さらに1/10税と呼ばれる神殿税が課せられていました。律法学者やパリサイ人は熱心な愛国者集団で反ローマ派でしたから、異邦人の王が刻まれた銀貨を使うことは屈辱的と考えていました。一方、裕福な祭司階級はサドカイ派とも呼ばれ、親ローマ派で、納税賛成派という複雑な事情を抱えていました。この両派閥はイエスを処刑することでは利害関係が一致しており、手を結んだのでした。

イエス様が納税拒否と言えばイエス様を、ローマ政府への反逆罪として訴えることができ、納税せよと言えば民衆に「イエスはカイザルを恐れローマへの服従を勧めている」と主張することもでき、ユダヤ民衆の期待を裏切らせ、失望させ、かえって反感を高めることができるわけですから、悪意に満ちた質問だと言えます。

. イエス様の答え

イエス様は、質問に直接答えず、終末の時代に生きる「神の民の生き方」を教えたのでした。「カイザルのものはカイザルに」とは、民族主義に立って、ローマへの納税拒否を貫こうとする人々に対する「否」の答えです。一方、「神のものは神に」とは、ローマ政府の言いなりのままユダヤ人としての信仰や誇りやアイデンティティ-を投げ捨てて、妥協し同化してしまうことに対する「否」の答えです。両極端に走らず、置かれている時代の現実と現状をしっかり見極めつつ、なおかつ誇りをもって神の民として信仰に生きることをイエス様は呼びかけたのでした。これはそのまま現代におけるクリスチャンの生き方にも通じる普遍的な教えです。3つの分類ができます。

第一に、神を神として信仰に生きることは、この世から遊離し、この世に属するものをすべて否定し、狭い視野で閉鎖的に生きることではありません。当時の民族主義的なユダヤ民衆が期待していたように、ロ-マの支配を武装蜂起みよって打ち砕き、地上に理想的なユダヤ王国を再興するために生きることでもありません。この世を悪の世、穢れた世界とみなして否定し、この世に対しては徹底的に対決する「対決型」があります。しばしば熱烈な原理主義思想に立ち行動します。かつて原理主義的なイスラム教の一派が世界遺産である洞窟の石像を偶像とみなして破壊してしまった事件がありました。この対決型はしばしば良識ある社会からは孤立してしまい、社会的な証しを立てることが困難になります。

意外なことですが、ローマ帝国はパウロの時代、400万人が住む国際都市であり、政治・経済・教育・文化など最高度に発展し、秩序と平和が実現していました。基本的には、支配した属国の文化や宗教を尊重し自治権を認める理想的国家でした。ただキリスト教会だけが、皇帝を神と仰ぐ「皇帝礼拝」を断固拒否したため迫害に苦しめられました。ですからパウロは、善良な一市民として、政治的な迫害を受けたとしてもなお、社会の秩序と平和に貢献し、模範的市民として生きるようにクリスチャンを励ましたのでした。

パウロはロマ13:1-7で、「上に立つ権威に従い・・・貢を納めるべきものには貢を納め、税を納めるべき者には税を納め」と勧めたのはこのためでした。もちろん神が授けた権威に立つ者が、神に背く時には、必ず滅ぼされ退けられることが明らかにされています。

一方で、「埋没型」を挙げることができます。神の民としてのアイデンティティを失ってしまい、この世の中に完全に埋もれてしまう生き方です。この世の楽しみに熱中し、仕事に追われ、富を蓄えることに執着し、人の目や評価を恐れ、隠れクリスチャンのような生き方に陥ってしまうようなケースを指します。日曜日の礼拝も世事が優先し後回しになり、やがて出席もしなくなる、神様への感謝のささげものも滞ったまま、祈ることもいつしか忘れ、クリスチャンとの交わりもなくなり、この世の人間関係だけの付き合いになっている状態です。隠れクリスチャン、沈黙のクリスチャンとも言われます。

三番目には、「カメレオン型」があります。「あなたの宗教は?」と問われれば、「一応キリスト教です」と答えますが、宗教的にはごちゃまぜ、あいまいで、境界線もなく、何でもあり。カメレオンが状況に合わせて保護色で身を守るように、その場その場で色変わりする態度を指します。ある仏教系の視察団が海外に行きました。空港の入国審査で、「あなたの宗教は?」と訊かれた檀家代表が「何も信じていません、無信仰です」とうっかり本音で答えたため、入国ストップ!あわてた団長の僧侶が「私たちは、無を信じる宗教です」と、うまく取り繕ろったという話を聞いたことがあります

Ⅱ 肖像

聖書によれば、「私たちは神の形に似せて創造された」(創127)存在です。神のかたちが刻まれた尊い存在です。ですから創造主である神を、畏れ敬うことは、私たちの本分であり、すべての出発点なのです。信仰などどうでもよい、神などいなくても問題ないというのは、あまりに傲慢な姿勢です。

さらに、聖書によれば、イエスキリストこそ「真の神のかたち」であり、「御子は見えない神のかたち」(コロサイ115)、「神のかたちであるキリスト」(第2コリント44)と、教えています。目に見えない遠い星も望遠鏡を使えば見ることができます。目に見えない小さなウィルスも電子顕微鏡で見ればはっきり見ることができます。見えないからいない、存在しないのではありません。私たちの霊的な目が曇っているから神を見ることができないのです。そこで、あわれみ深い神は、私たちが神の御子イエスキリストを通して、神を見ること、知ること、御心を学ぶことをご計画されました。神などいないという人々に向かって、クリスチャンは「この人を見よ」と主イエスキリストを指し示すことができるのです。事実、キリストの言葉とキリストの愛の中に、まことの神を見ることができ、神を知ることができます。

このお方によって私たちはこの世から聖別されました。しかし同時にこの世に遣わされました。キリストにあってクリスチャンはこの世のものとは異なります。しかし、世の光、地の塩としてこの世に遣わされています。天に国籍を持ちながらこの世の市民として生きていきます。すべてのキリスト者はこのように、両者を共に生きる連続性と緊張性の中に生きる者とされています(泉田昭・断絶時代の倫理より)。それゆえに主イエスは祈ることを弟子たちに教え、もう一人の助け主である聖霊を遣わして、神の民を導き、励まそうとされたのです。


この世の者とは異なる神の御国の市民として、この世から遊離すのでもなく、埋没するのでもなく、「この世に派遣されている」ことを心に銘記しつつ、
歩もうではありませんか。

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