【福音宣教】 私の父の家は祈りの家と呼ばれる

2023年6月4日(日)ルカ19:45-48 

いよいよイエス様はエルサエム神殿に入られました。神殿の中は厳格に区分けされていて、ユダヤ人以外の人々は、「異邦人の庭」と呼ばれている区域から中に入ることはできませんでした。したがって、その庭は外国人にとって唯一の「礼拝の場所」でした。ところがそこで「両替人」や「鳩を売る者たち」(マタイ2112)が、店を開いていたため、巡礼者たちでごった返しており、聖なる礼拝の場所、静かな祈りの場所とは呼べない状況でした。

イエス様はこの光景をご覧になり、「祈りの家を強盗の巣」にしていると叱責されました。

1. イエス様による宮きよめ

イエス様から「強盗の巣」と叱責された両替商人とはどんな仕事をする人々でしょうか。ローマ帝国がユダヤを支配していた時代ですから、皇帝の肖像画が刻まれたローマの貨幣が市内では一般に使われていました。しかし神殿で神にささげる献金や神殿税は純粋なユダヤ貨幣に限定されていましたから、両替をする必要がありました。外国人が日本に来れば、その国のお金を日本円に両替するようなものです。一方、鳩を売る者たちはどんな商売をしていたのでしょうか。神殿では感謝のささげものとして、あるいは罪の赦しを願うために、礼拝者たちが祭壇に牛や羊などの動物の生贄・犠牲を捧げました。その場合、神殿当局によって検査を受けて「傷がない」と保証された動物だけが祭壇にささげられました。裕福な人々は牛や羊を捧げましたが、貧しい人々は鳩を捧げました。本来は外国や地方から神殿に集う礼拝者たちのために、そのような便宜が図られていたのですが、暴利を貪る「強盗の巣」に変質してしまっていたのです。

第一に、両替人や犠牲の動物を売る商売人が店を出した場所は、外国人たちが礼拝や祈りをささげるために用意された特別な区域でした。異邦人たちが礼拝と祈りを捧げる唯一の場所を商売人たちが「奪って」いました。この点においてまさに強盗の巣でした。万民の救いを願う「神の愛と恵み」を奪い取ってしまうことにも通じます。こうした背景には、異邦人たちを軽視し差別する偏見や特権意識が存在していました。さらに、本殿とは離れた境内とはいえ、動物の糞尿で神殿の庭が汚され、悪臭が漂うようなことは、聖なる神にふさわしいことではありません。イエス様がそのようなことを許されるはずがありません。

第二に、両替商人も神殿で捧げる犠牲の動物を売る者たちも、商売を容認する神殿当局者たちも「暴利」を貪っていた点で「強盗の巣」と化していました。その暴利によって得た収入は、神殿の資産の蓄財にあてられたり、大祭司一族など神殿当局者たちの私腹を肥やすことにも用いられたようです。権力と富の癒着構造が存在していました。英国の聖書学者バークレーによれば、両替による年間利益は27億円にものぼったそうです。

イエス様は激しく憤り、彼らの台をひっくり返し、庭から追い出しました。おそらく神殿の警備兵たちが駆けつけるなど、境内は大騒動になったと想像できます。弟子たちもこの成り行きにおろおろしたのではないでしょうか。イエス様がこれほどまで激しい怒りをあらわにされたことは今までなかったからです。イエス様はこの時、確かに、感情をあらわにし、激しく憤り、手にむちを握って商売人を追放されました。イエス様の行為は一見「暴力」行為に思えますが、」イエス様が手にしたむちは、当たれば人が傷つく刑罰用の皮の鞭ではなく、たとえ人にあたっても傷つかない「縄で編んだ鞭」(ヨハネ215)でした。

「怒っても罪を犯してはならない。日が暮れるまで憤ったままではならない」(エペソ426)と聖書は教えています。怒りは罪ではありません。しかし怒りは多くの罪を生み出してしまいます。神への信仰は激しい感情の波さえも、神の愛をもってコントロールすることを可能にします。イエス様は身をもって教えてくださっています。感謝なことです。

2. イエス様の主張

イエス様は、「私の父の家は祈りの家でなければならない」(46)と主張しました。イエス様のこのことばに対して誰も反論できませんでした。なぜなら、神殿はすべての民の祈りの家、礼拝の家であるべきだからです。イエス様のことばを聞いた人々は、かつてソロモン王がエルサレム神殿を建設し、献堂式で祈ったことばを思い起こしたのではないでしょうか。ソロモン王は民を代表して神に祈りをささげました。(2歴代618-21)。さらに、神の宮は外国人にも開かれていることが明言されました(622-33)。神殿は万民のための祈りの家としてささげられたのです。のちに預言者イザヤを通して、神は改めて宣言されました。「私の家はすべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」(イザヤ567)と。

イエス様はなにか新しい特別なことをされたというのではなく、神の御心がどこにあるのか、原点に人々を立ち返らすこと、回復なさることを目的とされました。

1)イエス様は弟子たちに、主の祈りを通して、祈ることを教えました。ついで、神殿がすべての民の祈りの家であることを宮きよめを通して教えました。まず、個人的な祈りの回復が何よりも優先します。「祈りはひざまずく魂です」と、世界を変える祈りの学校では定義されています。「姿勢はどうであれ、魂がひざまずいているときがある」(ビクトル・ユーゴ)。つまり、祈りとは生ける神の御前に身を低くして静かに「私はあなたを必要としています」という心の姿勢を意味します。神を必要としているという渇きが祈りなのです。そして「主の名を呼び求める者は、誰でも救われる」(ロマ1013)のです。肉の力や知識や世の富に頼っていても真の救いは得られません。

2)現代に生きる私たちにとって、教会は祈りの家としての大きな価値と存在意義を持っています。教会は、仲良しクラブの集会場、趣味の会の集いの場、愉しい交わりの場ではなく、神を信じ、神に感謝の祈りと礼拝をささげる聖なる場であることが本質です。特に日曜日にささげる礼拝において、賛美と説教にならんで、祈りが深くささげられる時間が必要ではないでしょうか。現代の教会に欠けているものは「祈り」であると言われています。W・エバンスは「多くの教会には飲み食いするための部屋はあるが、祈りまた神を待ち望むための部屋はない」と指摘しました。アシュラム運動を主催した榎本先生は「朝の10分があなたを変える」と言いました。同じように、礼拝前の10分の祈りは、教会を変えるといっても過言ではありません。祈りの備えが整っているでしょうか。

エペソ4:11-18に、神の武具が記されています、真理の帯、正義の胸当て、福音の備えの靴、信仰の大盾、救いの兜、御霊の剣であるみ言葉、そして7番目に「御霊による祈り」が明記されています。祈りは、神から備えられた重要な「神の武具」です。武具なくして裸で戦う兵士はいません。祈りなき教会は世に勝利することは期待できません。

「私の父の家は祈りの家と呼ばれる」。私たちも謙虚に反省したいと思います。

礼拝の前にばたばたしている姿をイエス様はどのようにご覧になっておられるでしょうか。礼拝に出席するため、家を出る時間は今のままでいいのでしょうか。礼拝に臨む姿勢はいかがでしょうか。身だしなみはいかがでしょうか。献金の準備はいかがでしょうか。祈りの家に集うため、神の前にひざまずく魂の備えはできているでしょうか。

この朝、もう一度、自己検討してみましょう。

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