【福音宣教】 黙せば、石が叫ぶであろう

2023年5月14日 ルカ19:37-40

イエス様はいよいよロバの背に乗ってベテパゲの村からユダヤの都エルサレムに入城されます。ローマ総督やユダヤ国王、ローマの名だたる将軍たちは軍馬にまたがり騎兵隊を率いて都に入城しましたが、イエス様は「平和の君」として入城されました。私たちはこれからイエス様の33年半のご生涯の最期の1週間の歩みをたどることになります。

イエス様がエルサレムに入城される日曜日、エルサレム地域の住民は歓喜の声をあげてイエス様を迎えました。人々は、イエス様が進む道に脱いだ上着を敷いたり、用意してきた棕櫚の枝と葉を敷き詰めて(ヨハネ1212)歓迎しましたので後に「棕櫚の日曜日」と呼ばれるようになりました。

神殿がま近に見えるオリーブ山のふもとに来た時、民衆と弟子たちはこぞって、「主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光はいと高きところに」(38)と、大きな期待を込めて大声で神を賛美しました。これに反発をしたのがユダヤ教の指導者たちでした。さらにこうした光景をにがにがしく思っていたのは、大祭司や祭司長、律法学者やパリサイ人といったユダヤ教の指導者たちばかりでなく、ユダヤの国の総督としてローマ皇帝から派遣されている総督ピラト、さらには自分の地位が揺るぎかねない国王アンティパスたちも同様であったことは十分、想像できます。群衆に交じってこの様子を見ていたパリサイ人たちが「お弟子たちを叱ってください」、黙らせてくださいと叫んだ時、イエス様は「この人たちが黙れば、石(複数)が叫びます」(49)と言われました。

「主の御名によって来る王に祝福あれ」この賛美を、この祈りを、この叫びを止めることは誰にもできない。誰も黙らせることはできない。「石が叫ぶ」とは、弟子たちを黙らせば、代わりに無数の道端の石ころを弟子たちの代わりに叫ばせるというほどの、強いイエス様の意志の現われです。

1. 誰もキリストの歩みを止めることはできません

2. 誰もキリストへの賛美を止めることはできません

3. 誰も福音の宣教を止めることはできません

1. 誰もキリストの歩みを止めることはできません

エルサレムに向かうイエス様の歩みを誰も止めることはできません。イエス様のエルサレムへの道はそのままカルバリの丘の十字架への道そのものでした。イエス様の十字架の死は、神が定められた人類を「罪と死と滅び」から救い出す、神の永遠のご計画そのものでした。神の救いのご計画、すなわち救済史という神の大いなる御業を、止める権威と力など誰一人もっていません。一匹のハエが新幹線を止めようとするようなものです。サタンでさえ力が及びません。中心でありクライマックスであるキリストの十字架の死と復活を誰がとめうるでしょうか。

神の御子キリストがお生まれになったとき、東方から三人の博士たちが宮殿に住むヘロデ大王のもとを訪れ、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」(マタイ22)と、ヘロデ大王にとっては自分の地位を脅かす新たな王の誕生という、不気味な質問をしました。恐れと不安から、ヘロデ王はベツレヘムに住む2歳以下の男子を皆殺しにするという残虐な命令を出しましたが、神様はヨセフ一家を守りエジプトへ避難させました。このときからすでに、サタンの妨げが始まっていました。ゲッセマネの園でも、イエス様の祈りをサタンは妨げ続けましたが、御使いがイエス様を支えました(ルカ2243)。

2.  誰もキリストへの賛美を止めることはできません

キリストを賛美することは、神をほめたたえることにほかなりません。救いと平和を求める祈りと賛美は地上から消え去ることはありません。地上では相も変わらず悲惨な状況、悪魔的な悲劇的出来事が絶えず起きています。けれども、イエス様の弟子たちと教会から、救いと平和を求める祈りと神への賛美はかき消されることはありません。祈りが無力に思えるほど悪の力が強烈であったとしても、それでも平和への祈りが世界から消え去ることはありません。何よりも、神への祈りと賛美は、キリストの十字架による罪の赦しを受けた一人一人の中から、神との和解を経験した一人一人の中から生まれ続け、決して絶えることがありません。

「神はキリストによって私たちをご自身に和解させ、かつ和解の務めを私たちにさずけてくださった」(2コリント5:12)

バングラディッシュに再び、看護師の姉妹が世界の医療医師団の一員として、先週2か月の予定で出発しました。「現地に無事に到着しました。お祈りください」とのメールをいただきました。姉妹はイスラム教徒であるがゆえに迫害され難民キャンプでの劣悪な環境下にある人々の保健医療に献身しています。「地に平和がなりますように」との祈りと賛美がそこには絶えることなく満ちています。難民キャンプの中でも宇治教会の皆さんがささげる賛美を聞いている人々がいます。言葉がわからなくてもハートは通じます。神への祈りと賛美はこうして国境を超えて広がります。

3. 誰も福音の宣教をとめることはできません

ユダヤ教の宗教権力が、「イエスの名によって語ることをやめろ」と命じても弟子たちはやめませんでした。ペテロとヨハネは逮捕され大祭司たちの前に引き出され強迫されましたが、聖霊に満たされ、「この方以外に救いはない」と大胆に証ししました(使徒45-13)。ローマ皇帝の政治的権力が迫害という暴力をもって、「イエスは主である」という告白をやめさせようとしたときも、教会は沈黙しませんでした。

かつて、一人の兄弟が救われましたが経済的には非常に困窮していました。学習教材のセールスの仕事をしていましたが全く売れず、生活にも困り果てていました。上司がある新興宗教の信者で、キリスト教をやめて回心したらいくつかお客をまわしてやると誘惑してきました。彼は誘惑を振り切り、その朝、祈って仕事に行きましたが、その日、飛び込み先で大口の契約を得ることができました。

「神様は生きておられる」と顔を輝かせて夜、私に報告をしてくれました。二人で喜んだ覚えがあります。小さな経験でしたが、霊的には大きな恵みの記憶となってとどまっています。

なぜ、イエスの名によって語ること、祈ること、賛美すること、イエスを主と告白することを止めることができないのでしょうか。黙らせることができないのでしょうか。

それはイエスキリストを通して、神が真実な愛を世に示してくださったからです。神が偽りのない愛を、明らかにしてくださったからです。人間は本能や欲望だけで生きている存在ではありません。すべての人間は愛を求め、愛を必要とし、愛を分かち合うことの中に真の幸福を見出しているからです。

イエスキリストの十字架の死、そこにすべての人が真実な愛を見出すことができたからです。逆説的ですが、すべての人がこの世の愛の限界を経験しています。人間の愛のもろさ、虚しさ、移ろいやすさ、計算高さを味わわされて、深く傷ついています。人生で傷ついたやぶれた愛のかさぶたを抱えています。愛に満ちた世界をではなく、憎しみや怒りや敵意が満ちた世界を知っています。愛なんてことばを安易に使ってほしくないとわかっているからです。そんな暗闇の中で、神は真実な愛をキリストの十字架を通して世の中に照らし出してくださいました。

それゆえヨハネは晩年に書いた手紙の中で、「ここに愛がある」(第一ヨハネ48)と語りました。誰も神を見たものはいません。しかし神の愛をカルバリの丘の十字架の上に、誰であっても見ることができます。

そして十字架の愛を見た者は、愛の冷えていく終末にあっても「生きる」ことができるのです。


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