【福音宣教】 主イエスを迎える喜び

20230402 ルカ191-10 

いよいよイエス様はエルサレムへと向かいます。エリコの町はエルサレムの東北24キロにあり、都までおよそ1日の道程です。ヨルダン川の谷に広がり、エルサレムに至る入口になっています。エリコの町には棕櫚の大きな森があり、棕櫚の町とも呼ばれていました。ローマ政府にとっては、パレスチナの中心的な課税地になっていました。

先週はこのエリコの町の入り口付近で、中途失明のため生活も心も闇に閉ざされていた盲人バルテマイが闇から解放された救いの出来事を学びました。今週は、まさにエリコのまちのど真ん中で、ザアカイと言う誰もが知っている悪名高い人物が、金銭欲から解放された出来事を学びましょう。

1. ザアカイと言う取税人の頭がいた(2

両親は生まれた子供の幸せを願って、ザアカイ(清く正しい人)と名付けました。大人になった彼はこのエリコの街の取税人の頭にまで出世しました。取税人とは、ローマ政府から請け負って、ユダヤ国民から税金を取り立てる仕事を生業にしている人々でした。しばしば不正な高額の税金を課し、過酷な取り立て行い、私腹を肥やしていましたから、たいそう恨まれ憎まれていました。「犯罪人」同様の「罪人」(ルカ529-30)呼ばわりされていました。その税務署の長官にまで上り詰めた人物でしたからそれなりのやり手で、多くの悪事も積み重ねたことでしょう。地位と財産を手に入れましたが、富と引き換えに失うものも少なくなかったことでしょう。晩年になり、取税人仲間はいてもエリコの住民からは冷たい目で見られ、親しい友もなく、孤立と孤独感をひしひしと感じ始めていたと思われます。彼の人生は金が中心、彼の人間関係も金銭関係、つきあいは表面と表面のみ。当然ながら、このようなさびしい人生はどこかで破綻します。だから、イエス様は「急いで降りてこい」とザアカイに呼びかけたのでした。

さらに、イエス様が後に、「今日救いがこの家に来た」と祝福されたことばの中に、深刻な家族崩壊、夫婦間のいざこざ、親子の断絶問題が隠れていた可能性も想像できます。

そんなザアカイでしたが、イエス様がエリコの町に来られたというざわめきを聞いて、事務所から大通りに駆け出して行きました。町の住民でひしめき合っていたため、イチジク桑の木によじ登って上からイエス様を見ていました。イチジク桑は背丈が低く下の方から枝が出ているので、背の低いザアカイには上りやすかったと思われます。「背が低い」という身体的特徴を医者のルカはあえて記していますので、何かの先天的な病気をもっていたかもしれません。そうした劣等感がいっそう、お金を稼いで権力を手にいれ、人の上に立つという野心の動機になっていたとも考えられます。 真偽のほどはわかりませんが、どういうわけか世界の偉人と呼ばれる人々は背が低いという特徴があるそうです。

2. ザアカイ、急いで降りて来なさい

ここで使われている動詞はすべて不定過去という確固たる意志が込められた自制が使われています。しかもイエス様が知らないはずの自分の名前まで呼ばれてザアカイは驚いたことでしょう。悪名がイエス様の耳に届いていたのか、かつて同じ取税人であったレビ、後のマタイの執り成しの祈りが背景にあったのか、イエス様がザアカイの心の中の孤独を見抜いておられたのか、いずれも可能性があります。

その上、「ザアカイよ」と親しく名を呼ばれたのは久しぶりであったことでしょう。「お頭」、「長官様」といううわべだけの敬語、あるいは陰口でさんざん「罪人」などと呼ばれていた彼にすれば、「ザアカイ」と、親しく名を呼んでくれたのは、幼い頃の両親以来だったかもしれません。

神の招きは招かれる人にとってはある日、突然です。神の呼びかけは予期せぬ時に予期せぬ方法で始まります。しかもそれはもう逃げられないほどの強い愛の必然性を伴って始まります。それが神の招きです。なぜなら人は見捨てても神は決して見捨てないからです。

イザ 49:16「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」 神の手のひらにあなたの名が刻まれています。それは、あなたを決して忘れないためです。

「あなたの家に泊まることにしているから」(5)これも驚きの言葉でした。「泊まらねばならない」という強い意味で、必然的行為を指します。泊めてもらえますか?泊ってもよろしいでしょうか?と許可を求めているのでもなく、泊まりたいのですがと、お願いしているのでもない。泊ることになっている(必然)という断言です。神のご計画が進むときの特徴です。もちろんザアカイは急いで木から降りてきて、喜んでイエス様と一行を家に迎え入れました。

意外な成り行きに驚いたのは街の住民たちでした。彼らは「罪深い輩の家にイエス様は泊まろうとしている」「考えられない!」「イエス様も金の力に屈したのか・・・」つぶやきと不信の声が湧き上がったことでしょう。

神の深い愛の御心を世の人々は理解できません。後にイエス様は「人の子が来たのは、失われているものを見つけ出し、そして救うためです」(1910)と言われました。

失われている者とは、「あるべきところから離れてしまった者」のことです。そのことにすら気が付かないゆえ、なおさら「失われた者」なのです。自分ではなく、神が見いだしてくださることが救いなのです。

3. 今日、救いがこの家に来た

イエス様を迎え入れ、食事をともにしながら、イエス様の語る神の国の福音に耳を傾けていたザアカイは、今までの生き方を悔改めました。そして償いをことばにしました。富の半分は貧しい人々に施し、不正な取り立てをしていた分は4倍にして返しますと。法律上の賠償は2倍(出エジプト2247)の償いで良かったのですが、4倍にして返しますとは、きっぱりと悪事と不正から縁を切るというザアカイの強い意思の表明と理解できます。金に依存していた人生からのまさに解放の瞬間でした。真に頼るべきお方、委ねるべきお方を知った喜びの結果でした。

イエス様は「今日救いがこの家に来た」と祝福されました。この家とは建物のことではなく、家族を指しています。ザアカイ自身の人生が破綻していただけでなく、ザアカイの家族もひび割れしていた、隙間風が吹いていた、崩壊していた可能性があります。ザアカイがイエス様に招かれ救いを得たことによって、ザアカイの家族関係も癒され、回復したのでした。「来た」という動詞もまた確かな神のご計画を指す不定過去形です。

イエス様が与えてくださる救いは、単に個人の救いだけではありません。その家族にも広がります。

ノアが信じ、その全家族が箱舟に入りました(創71)、カイザリアに住むイタリア隊の100人隊長コルネリオはペテロを迎え、「皆、神の御前に出ています」(使徒1033)と一家全員が神の言葉を聞こうとしました。ピリピの監獄長にパウロとシラスは「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」(使徒1631)と宣言しました。救いは一人から始まりますが、その一人から全家族へと拡大していきます。これが神のご計画です。

                      あなたの救いは、あなたを家族に遣わすため、あなたを祝福の基とするためです。始まりはあなたからです。


  目次に戻る