【福音宣教】 人と比較してはなりません

先週は、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官に対して、決して失望せず祈り求めたやもめの祈りを学びました。神がおられるところ「決してあきらめてはならない、失望してはならない」ことを覚え、み言葉から励ましを受けました。さて、今週は、「決して人と比較してはならない」ことを学びましょう。イエス様はたとえ話の中で、神殿で祈りをささげる二人の人物を登場させています。いつでも自分は正しいと誇り、他の人を見くだしているパリサイ人。もう一人は自分が罪深い人間であると自覚し悔いている取税人。取税人とは、ユダヤ国民から不当な税金を徴収しローマ政府に納め、ついでに一部をごまかし、私腹を肥やしている人々であり、それゆえ同胞から嫌われ、軽蔑され、「罪人」呼ばわりされていた人々でした。

1. パリサイ人の祈り
パリサイ人は神殿に上り、祈りのかたちで自分の自慢話を披露しています。「私はゆする者、不正をする者、姦淫をする者ではありません週二度断食し、十分の一を捧げています」(11-12)と。しかも「この取税人のようではない」(11)と、自分と他人をくらべ優越感を誇っています。ある牧師は「私たちは神が見えない時、隣人のみが見えます。その人の大きさを見ると劣等感に陥り、その人が小さく見えると軽蔑がおこります」と。

神抜きの世界では「モノとヒト」しか見えません。物をみれば欲が出てくる。持つ者をうらやましく思う。人をみれば自分は正しい、自分の方が偉い、賢い、優秀だと、上から目線で人を見おろします。こういう人を「人の頭のつむじを見ている人」というそうです。

2. 取税人の祈り

一方、取税人は自分の胸を打ち叩いて「罪人の私をゆるしてください」(13)と祈っています。彼は自分の罪深さを深く自覚しています。このような自覚は他人とくらべて生まれるものではありません。自分と神との関係の中で、神の前に立った時の自分を見て、初めて罪深さへの自覚が生まれてきます。

パウロは「キリストイエスは罪人を救うためにこの世に来られたという言葉はまことでああり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人の頭です」(1テモテ115)と告白しています。キリストの十字架の前に立つとき、私たちの中に初めて罪深さへの自覚が生まれ、同時に罪の赦しの大きさ深さを実感し、感謝することができます。

パリサイ人の祈りは、自分のかずかずの良い行いを数えあげ、神様に言い聞かしています。一方、この取税人は自分の罪の数々を悔いるのではなく、「罪人の自分自身」に対する赦しを願い求めました。罪そのものよりは、罪を生み出す自分の存在への洞察、自己理解が彼にはありました。自分の業を誇り高くする者と、自分を謙り低くする者との違いが際立ってます。

しかし、ここでひとつ注意が必要です。神との関係性を抜きにして、自分を見てはなりません。神様抜きで人と自分を比較すれば、自分を誇るか自分をさげすむことになりかねません。自分の力のなさや愚かさや劣等感や過去の失敗ばかりを見て嘆き悔い続ける。こうした態度は決して「謙虚さ」とは言えません。自己憐憫、自己卑下と言います。こうした人を「自分のへそばかり見ている人」と言うそうです。

パリサイ人の傲慢さと真逆で、これもまた神を見ず、自分で自分を見てしまっている結果といえます。神様抜きで他人を見たり自分を見ても、結局は他人との比較の世界に押し流されてしまうだけです。ではどうしたらいいのでしょう。

3. 神の目を通して自分を見る

3つのタイプがあります。上から目線で人を見下し「人の頭のつむじを見ている人」、自分の劣等感ばかりに目を向けうなだれ、自分を低く評価し「自分のへそばかり見ている人」。そして、他人でもなく自分でもなく「神を見上げている人」です。

旧約聖書的には、私たちは神によって神のかたちに似せて創造された、唯一無二の尊い存在です。世界中どこにもスペアはありません。無くてならない存在です。

「私の目にあなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」(イザヤ43:4)

新約聖書的には、パウロが告白しているように、「すべての人が罪を犯したので、神の栄光を受けられなくなった」(ロマ323)罪人です。義人も善人も一人もいないのです。

そしてキリストのまなざしから見れば、キリストを信じる者は、「罪赦された罪人」であり、「御国を受け継ぐ神の子ども」です。キリストの十字架の赦しを受け、生まれながらの古い自分自身に代わって、キリストの御霊を内に宿し、新しいいのちに生きる者とされました。古き生まれながらの人はキリストと共に十字架で死に、神の前に新しい存在とされ、本来の神のかたちに回復された、神の作品(エペソ2:10)です。すべてのことは、神の恵みによる新しい創造であり、新しい回復の御業です。この3つの視点から見た自分自身を理解することが大切です。

まとめ

パリサイ人の祈りは結局、あれをしました、これをしました、神さまご覧くださいという「行いを誇る祈り」でした。祈りは、その人の生き方、生きざまそのものを表します。彼の生きざまは、DOINGに世界にとらわれていました。

取税人の祈りは、罪人の私を哀れんでください、赦してくださいという「自身の無力な存在に目を向けた祈り」です。人は「何をしたか」ではなく、「どう生きたか」が尊いのです。

DOINGの世界に生きれば、いつも他人と自分との比較と競争の空しい世界しかありません。優・劣と勝者・敗者に分断された世界しかありません。

BEINGの世界に生きれば、神と私との愛の交わりの中で平安と感謝と喜びに生きることができます。ある大きな総合病院で受診待ちをしていた時、掲示板に健康情報が映されていました。その時です、「生きている。それだけでもたいしたもんだ」という言葉が流れてきました。いいことばだな、病院の待合室では慰めになりな、いったい誰が語ったのだろうかと思ったら、ビートたけしと表示されていました。その通りですね。生きてるだけでたいしたもの、尊いこと、価値あることなのです。

結びの言葉としてイエス様は14節で「安らかに家路についたのはこの人(取税人)」でしたと語っています。パリサイ人は確かに家に帰りましたが、再び、不毛と不安の満ちた「比較と競争」の世界に舞い戻って行ったのでした。
あなたはどのような家路につきますか。

「なにごとも自己中心や虚勢からすることなく、謙って、互いに人を自分より優れた者と思いなさい。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい」(ピリピ23-4)。

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