【福音宣教】 キリストの再臨を待ち望む

2023/02/05 礼拝説教 ルカ17:22-37 

群衆に向かって「神の国はもうあなた方のただなかに来ている」と言われたイエス様は、今日の箇所では、弟子たちに向かって、神の国の完成の日の前に起こるできごとをまとめて語っておられます。キリストの誕生と宣教の開始とともに、「神の国すなわち神の公平と正義と愛のご支配がすでに私とともに始まっている。私がいるところがすでに神の国そのものだ」と、イエス様は病を癒し、悪霊を追放し、罪人と呼ばれ差別されていた人々に愛のまなざしを向け、救いへ招きました。キリスト教会では世の終わりの時代を終末と呼び、キリストの再臨をとともに神の国が完成すると伝え続けてきました。

順番が入れ替わりますが、終末・再臨について、第一番目に、25節で語られているように、キリストの「十字架の苦難と死」が起こります。神から遣わされたメシヤをご自分の民であるユダヤ人が受け入れることができず、拒み、捨て去ってしまうことです。ヨハネ1:11-12に記されている通りです。ユダヤ民族の不信仰のゆえですが、神の永遠の救いのご計画の面からみれば、「ねばならない」とあるように、全人類を救うための必然的な愛の行為でした。こうして、第一段階はすでに歴史的に実現しました。イエス様は私たちの罪のために十字架で死なれ、私たちを死の力から解放するために復活され、天に昇られ神の右の座に着座されました。こうして「キリストは天においても地においても一切の権威を与えられた」のでした(マタイ2818 ピリピ29-11)。こうしてやがて再びおいでになる日の備えが整いました。

第2番目に、24節では、十字架で死なれ、3日後によみがえり、天に帰られ、神の右に着座されたキリストが、ふたたびこの世界に来られる日について語られています。「人の子の日」(22.24.26)とは、世界の終わりの時代におけるキリストの再臨の日を指しています。日は複数形ですから一連の出来事を指していると理解できます。

1)24節から30節では、まず弟子たちすなわち教会が備えをすることを教えています。

一般の人々はそれほど終末に関心がありません。教会でも再臨について語られることがない教会もあると聞いています。行き過ぎた過激な終末論には警戒しなければなりませんが、主の再臨について、「キリストがあらゆる権威と力をもって再びおいでになる」ことは、語り告げなければならない重要な真理です。

24節25節では、稲妻が一瞬にして起きるように、「突然」その日がくることが強調されています。稲妻の光は1秒の間に地球を7回半回ります。まさに一瞬にしてキリストが再臨されるというのです。ここでは「突然性」が強調されています。イエス様は旧約聖書の有名な2つの出来事から詳しく説明しています。まず、26節27節では、ノアの洪水(創世記6章)の時のように、「突然」洪水が押し寄せ、箱舟に入った者以外は「みな滅び去ってしまった」ことが強調されます。28節から30節では、アブラハムの時代、甥のロトが罪深いソドムの街から逃れ出たとき「突然」、火山の爆発と思われますが、火と硫黄が天から降り注いでソドムの街と人々を「滅ぼしてしまった」(創世記19章)ことが強調されます。

稲妻も洪水も火山の爆発も、突然で一瞬です。つまりその時になってはもはや対応する時間がないのです。ノアが全長135ⅿ、幅23ⅿ、高さ13ⅿに達する巨大な箱舟を完成するために要した日数は数年に及んだことでしょう。その数年はノアが人々に神の裁きと救いを知らせる十分な期間でした。しかし人々は飲んだり食ったり娶ったりというこの世的な楽しみと日常生活に追われ、まったく耳を傾けませんでした。「信じられないバカげた話だ!」と気にも留めませんでした。しかし、ついに箱舟の「後ろの戸を主が閉じられた時」(創716)つまり「終わりの時」に、たちどころに突如、大洪水が押し寄せました。

ソドムの町からロト一家が逃れる際、決して後ろを振り向くなと御使いから警告されていたにも関わらず、ロトの妻は家の中に残しておいた宝物に後ろ髪を引かれ、振り返ってしまいました。瞬時に彼女は「塩の柱」に(創1926)なってしまいました。同じように屋上で休憩している者も財産を取りに階下に降りるな、ましてや畑で仕事をしている者は宝物を取りに家に戻るな、そんな悠長な時間などはないぞ、瞬く間にキリストは来られるという警告になっています。つまり、今この時、、神の言葉に耳を傾け、その真理を素直に受け入れ、いのちの備えを十分しなさい、そして弟子たちに対しては、救いのことばを世の人々に伝えなさいというメッセージになっています。預言者アモスは「あなたの神に会う備えをせよ」(アモス412)と宣教しました。クリスチャン一人一人が、現代のノアになれと求められているのです。

2)続いて、31節から37節までは、教会が「無関心・無頓着」であってはならないことを教えています。31節以降、再臨の日には、救いを受ける者と救いを受けない者がはっきりと区別されることが強調されています。地上の生活においては、信仰をもっているか持っていないかは外見上見分けがつきません。クリスチャン以上に人間的には良い人や優しい人や親切な人が入り混じっています。しかし、突然、その峻別・ふるい分けがされる日が来ます。

その夜、二人の人が室内で眠っていたら一人は上げられ、一人は残されます。昼間、二人の女性がうすをひいて仲良く働いていても、一人は上げられ一人は残されます。どれほど親しい仲間であっても、家族であっても信仰をもって生きているかいなか、同じように一緒に生活していても、はっきりと区別される日がくることが強調されています。

イエス様は神の国は「良い麦と毒麦が一緒に植えられているので、土地の主人は無理に引き抜かない」という譬え話(マタイ13章)をされました。毒麦というのは、実が穂の中に結ばれていない麦のことです。外からは区別がつかないけれど、収穫の日にははっきり区別されるというのです。

イエス様が「再び来る」と約束されてからもう2000年が経ちました。いくら何でも遅すぎるのではないか、再臨などはあり得ないのではないか、神様がご計画を変更されたのではないか・・いろいろ疑いが生じてきます。しかし主の約束は真実であり、忘れられることも破られることも決してありません。紀元80年から100年ごろに書かれたヨハネの黙示録の最後の祈りは「しかり私はすぐに来る」「アーメン 主イエスよ、来てください」(2220)です。王の王なるキリストの約束と教会の祈りはいまも息づき持続しているのです。

どれほど地上の時計が時を刻もうと、2000年の月日が地上で過ぎ去ろうと、「神にあっては1000年も1日のごとし」(2ペテロ38)であり、教会はキリストの再臨を、目を覚まして待ち望み続ける唯一の存在であり続けなければなりません。無頓着・無関心であってはなりません。教会はこの時代にあって「神の時」を刻む存在として置かれているのです。

すでに「神の国」(神の公正と義と愛のご支配)はキリストの誕生と宣教の開始とともに私たちのただなかに到来しました。今や万物も教会もキリストの御再臨とともに神の国が完成することを待ち望んでいます。「すでに来た神の国」と「未だ完成していない神の国」のただ中に、大きな希望を抱いて私たちは生きています。教会は決して主の再臨に無関心・無頓着であってはなりません。ロトの時代の人々のように、「食い、飲み、買い、売り、植え、建て」(28)など、世の仕事と心づかいに動き回り、物や富にとらわれて「貪欲」になって、神のご計画を忘れ果ててはなりません。

目をさまして、待ち望みましょう。私たちの大きな希望の日々を!


  目次に戻る