【福音宣教】 ふつつかなしもべにすぎません

2023年1月15日 ルカ17:7-10

新しい年を迎えました。今年もイエスさまのしもべとして仕えていく日々を歩ませていただきましょう。

「しもべ」のたたずまい(言動)に関する短いイエス様の譬え話が語られています。内容的には3部構成になっています。

1. この世のしもべが仕えるこの世の主人

野原で農作業をするしもべや羊を飼う仕事をしているしもべたちは、イエス様の時代は非常に社会的に身分の低い人々でした。一日中、働いて帰ってきても、どんなに疲れて空腹であっても、ご主人が「食事の用意をしろ、食べ終わるまで給仕をしろ。それが終わったら自分たちの食事をしろ」(8)と命令されれば、従わなければなりませんでした。それが、しもべたちの日常生活でした。しかも、言われた通りにしたからといって、ご主人から感謝されることなどありえません。期待もできません。そうして当たり前と思われていたからです。身分差別が激しかったイエス様の時代ではありふれた日常生活の一コマでした。支配する者ものと支配される者との格差が顕著に見られます。

しかし、ひょっとして現代の家庭状況もかわり映えしないかもしれません。夫婦共働きの家庭で同じように疲れているのに炊事家事は妻がする、あるいは家族旅行して夕方、家に帰れば、妻は台所に立ってさっそく食事作り、夫と子供はテレビの前に坐っている・・。身近な家族関係の中にもこのような性差別が入り込んでいます。

2. 神の国のしもべが仕える神の国の主キリスト

ところが、しもべたちが一日の労働を終え疲れと空腹を覚えて帰って来た時、なんと主人が食事を用意して、「さあ、ここにきて食事をしなさい」(7)と、食卓に招いて食事を提供してくれる。 ・・というようなことはまずありえないことでした。夢物語です。そのありえないことをしてくださったのが、私たちがお仕えするイエス様ご自身です。

二つの場面を思い起こしましょう。最初は最期の晩餐の出来事です。

イエス様は弟子たちを最期まで愛されました(ヨハネ131)。口語訳では「極みまでも愛された」とあります。では、どのように愛されたのでしょうか?

たらいに水を汲み、腰に手ぬぐいをまいて、弟子たち一人一人の前にかがんで、足を洗ってくださいました(134-5)。これはその家のしもべたちの中でも、最も卑しい奴隷がする仕事でした。ですから弟子たちもびっくりしたことでしょう。そして十字架の死を前にしたこの夜の食事では、パンを裂き弟子たちに分け与え、葡萄者の入った盃を交わしてくださいました(ルカ2219-20)。御国の前祝ともいえる祝宴を備えてくださいました。

次に、復活したイエス様が弟子たちに、ガリラヤ湖で待つようにと告げられた時です。

意のうちに弟子たちがガリラヤに戻り、夜通し漁をしても一の魚を獲ることもできず無力感と空しさの中で岸に引きあげて来ました。その時、岸辺で炭火で魚を焼いてパンとともに朝の食事を用意して(ヨハネ229)待っていてくださっていたのは他ならぬイエス様ご自身でした。

支配し支配されるという上下関係がこの世のルールだとすると、天の御国のルールは、仕えられるべきお方が仕える者となって救いと愛をもたらし、信頼関係を築いてくださるのです。イエス様は「私は来たのは仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マタイ2028)と言われました。主の弟子である私たちも、神と教会と兄弟姉妹に仕えることの中に喜びを見出す者とされましょう。さらに兄弟姉妹という枠さえこえて、この世と隣人に仕えるものとされています。これらすべては私たちにとって、もうすでにエス様とともに到来した神の国とその完成のために仕える奉仕そのものを意味します。

3. ふつつかなしもべにすぎませんと感謝しましょう

この世の中には自分のご主人の言うことを全く聞かない者もいます。言われたことに対して文句たらたら、ぐち不満をこぼす者もいます。命じられたことをしたものの必要以上に賞賛を求める者もいます。見返りを要求する者もいます。では、キリストに仕える私たちは、どのようなたたずまいがふさわしいでしょうか。

命じられたことをなし終えたとしても、10節にあるように、「すべきことをした(完了形)にすぎません」(10)とお答えしたいものです。ここでは3つ学ぶことがあります。

1.     第一は、謙遜さです。無益なしもべという言葉は、役に立たない(新改訳)、とるに足りない(共同訳)とも訳されています。私は「ふつつかなしもべ」という表現がふさわしい気がします。謙遜さは、自己卑下とは異なります。あまり自己否定につながるような「無益な」「役立たず」ということばはふさわしくないように思います。

神様がどれほどしもべたちを大切に思っておられることか思い起こしましょう。旧約聖書では「宝の民」(申命76)と呼んでおられます。神のみこころをこの地上で行う、なくてはならないかけがえのない尊い存在(イザヤ434)とみなしてくださっています。たとえ親が見捨てようとも私は決して見捨てないと言われるほど愛してくださっています。

わたしたちの存在がなければ神様も働くことができないのです。私たちがいなくても神様はご自身のなすべきことをなされるというわけではありません。私たちを必要とし、私たちとともに御国の完成のために働きたいと願っておられるからです。もちろん、だからといって傲慢になったり、自慢したり、自分を誇ったり、ましてや見返りを要求することがあってはなりません。

2.     第二は、目標がはっきりしていることです。私たちキリストのしもべがこの地上で、神の国のためになすべきことは多くはあります。なすべきことは御霊が語りかけ、示し、導かれます。つまり主イエスから個別に命じられた(第一過去分詞)こと(複数)を成し遂げることです。神が私に託されたことを受けとめ、それを丁寧に仕上げていくことです。あれもこれもではなく、雑にではなく、誠実にしあげ、完成させていくことです。

プロフェッショナルというテレビ番組で、数々の芥川賞を獲得した作家たちの最初の原稿(ゲラ刷り)の誤字御用脱落などを正確に校正するプロの校正家の大西寿男さんを紹介していました。小説1冊となると、数十万語にも及ぶ言葉の一つ一つを、全神経を集中させチェックし、背景まで地図や辞書や図鑑を駆使して正確に調べ上げ完成させていくそうです。そのために、著名な作家や編集者から絶大な信頼を得ています。それほど言葉を大事にする真摯な姿勢に感動しました。

3.     第三は、キリストの命令を聴くことができるように、祈りの時を持つことです。

イエス様は弟子たちの食事やお世話で忙しくしている姉のマルタが、いつもイエス様のそばに坐って話に耳を傾けて手伝おうともしない妹のマリアに対してイラっと来て、ぐちをこぼした時、「なくてならないものは多くはない。マリアはその一つを選んだのだ」(ルカ1042)と諭しました。

イエス様はひとりひとりに、御霊の賜物に応じ、多様で多岐にわたる働きを託してくださっています。その働きをしあげていくためには、まず一つのこと、すなわち、主イエスのみことばに聞くこと、祈りの生活、礼拝の生活を大切にすることを教えてくださいました。多くの働きを成し遂げるためには、一つの大切な働きが不可欠です。それは祈りの生活、礼拝の生活です。祈りなくして始めたことは多くは失敗していきます。祈りをもってはじめたことはすべてたとえ小さなことであっても、主が喜ばれます。御霊と共に始められた働きは、そのまま、神の国の完成に結び合わされていきます。私たちが地上で織りなす奉仕の一つ一つは、完成された姿を今、目にすることができませんが、御国の完成のための一部として決して無駄になることなく結び合わされています。ですから私たちがささげる奉仕は決して無に帰することはありません。

だからこそ「よくやった忠実なしもべよ」(マタイ2523)との言葉を、御国に入る日に、神のしもべたちは聞かせていいただけるのです。なんと幸いなことでしょう。


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