【福音宣教】 新年礼拝 御霊と共に

2023年1月8日 ロマ8:26

明けましておめでとうございます。 2023年の新しい年を迎えました。この新しい一年が神様の祝福の中に導かれる日々でありますように、お祈り申し上げます。

毎年、新年礼拝は、宗教法人日本バプテスト教会連合(以下連合)の年間標語をご一緒に学んでいます。連合は、北海道・関東・東海・関西・和歌山中南部地域など全国54の教会とチャペルを合わせて60以上の教会、信徒数2500名からなる包括宗教法人グループです。歴史的に見れば、戦後の混乱期の1948年7月に、アメリカ・ミネソタ州に本部をおくBGCから日本への最初の宣教師としてFB・ソーリー師が派遣されました。やがて日本人牧師と共に1965年9月に日本バプテスト教会連合が設立されました。宇治バプテスト教会は大阪府枚方市にある枚方バプテスト教会の開拓伝道所として宇治市小倉町にて、1976年5月に小倉キリスト教会として設立されました。1985年には連合に加入し、宇治バプテストキリスト教会と名称を変更し、神学校の卒業と同時に、二代目牧師として私が就任しました。今年で38年目を迎えます。連合の2023年度の標語は「御霊と共に」(ロマ826)です。

1. 御霊を与えられた神の子どもたち

キリスト教を信じ、キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受けた人々は一般的にクリスチャンと呼ばれています。クリスチャンの数は、世界中で約20億人、世界総人口の約32%をしめています。クリスチャンは聖書的には「神の子どもたち」(14)と呼ばれ、さらには御国を受け継ぐ「相続人」(17)とも呼ばれます。神の子どもたちの最大の特徴は「キリストの御霊」(9)、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」(11)を心の内にもっているという目に見えない霊的な特質です。

クリスチャンかクリスチャンでないかの識別は、御霊をいただいているかいなかにかかっており、それ以外にはありません。現代では、科学技術が進歩し、親子関係があるか否かは、遺伝子を調べる
DNA鑑定で99.99%正確にわかるそうです。遺伝子が親から子に受け継がれるからです。キリストを受け入れ信じた人々は、キリストの御霊が父なる神によって分かち与えられます。それゆえ、初代教会の伝道者であるペテロは「罪を赦していただくために、悔い改めて、イエスキリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます」(使徒338)と人々をキリストを信じる信仰へ招きました。ペテロはキリストの御霊は、神からの「最高にして最大の贈り物」ギフトプであると強調しています。ギフトですから、私たちが一生懸命努力して獲得する類の賞金や賞品ではありません。がんばりや努力と引き換えに手にするものではありません。感謝して無代価で受け取らせていただくことができる、神様からの恵みの贈り物です。

さて、いよいよ私たちは、新しい1年を迎えました。しかし本当の新しい一年とは、キリストにあって新しい人生を歩みだすことから始まります。日めくりカレンダーの上の新しい1年ではなく、キリストを信じ、神の御霊によって新しく誕生する「新生」の体験からスタートする革新的な新しい1年を指しています。「だれでもキリストにあるならばその人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなりました」(2コリント517

2. 御霊は苦難の時の祈りの支え手・導き手

ロマ8章では、御霊の実に多様な働きが次々と紹介されています。その中でも連合は26節、「御霊は弱い私たちを助けて・・御霊ご自身が言葉にならないうめきをもって、執り成して下さる」のみ言葉を通して、苦難のなかの祈りと聖霊のお働きに焦点をあてています。

背景には3年間にわたるコロナ感染禍により連合の諸教会も少なからずダメ―ジを受けている現状があります。感染防止の対策としての「.3密の禁止」は、人と人が出会い対面で伝道したり、ともに集って礼拝と賛美を捧げ、共に集って交わりを深めるという教会の生命線ともいえる伝道・礼拝・交わりを分断してしまいました。これから先も何をどう祈ったらいいのか、いまだにはっきりとした答えを誰も見いだせないままです。いまだに解決の道すじが見えない苦しい現実の中に依然として置かれています。教会がうめいているといってもよいかもしれません。

18節で「今の時の苦難は・・」とありますが、パウロがロ-マ人の手紙を書き送った時代はロマ皇帝によるキリスト教への迫害・弾圧が次第に強化され、教会を暗黒の闇が覆い始める苦難の始まりの時期でした。以後、キリスト教がローマ帝国の国教となるまでおよそ300年間にも及ぶ迫害の嵐の中で、教会とクリスチャンたちはうめき続けました。それでも目に見ゆるところによらず、神を信頼し、希望を抱きつつ歩み続けました。

わたしたちもしばしばどのように祈ったらいいのか、祈りの言葉さえ見つからないという危機的状況を迎える苦難の時、試練の時に直面する場合があります。それは私たちが祈ることさえできないほどの挫折や失望や無力感に陥ってしまうような時ともいえます。通常は私たちがキリストの名によって父なる神に祈るという「祈りの道」が備えられていますが、私たちが祈れないときにはその祈りの道が寸断され途切れてしまうことになります。祈りが途絶える、祈りの火が消えていく、そのような危機的な時に、私たちの内に住まわれる御霊が、私たちの弱さを共感しつつ同様にうめきながら、父なる神への執り成しの祈りささげてくださるというのです。このことはどれほど大きな慰めと励ましとなることでしょう。

父なる神様への祈りの道が閉ざされてしまう、この事態は私たちの生命や生活を支える電気やガスや水道と言ったライフラインが寸断されてしまうことに匹敵します。いわば、クリスチャン生命と信仰生活における深刻な危機的状況を迎えることに直結します。しかし、まさにこの瞬間に、非常電源が入り、内なる御霊が執り成しの祈りを開始し、父なる神からの癒し・赦し・折にかなった助け・力・救いをもたらしてくださるというのです。

結果的に私たちを決して一人置き去りにはされないのです。祈ることさえできないほどの無力感の中で孤独を味わう時でさえ、神は御霊のうめきと執り成しをもって、父なる神との交わりを保ち続けてくださるのです。私たちの信じる父なる神は、祈れ!祈れと命じるだけのお方ではなく、私たちが祈れなくなったその時に、御霊が祈り、執成すから安心しなさいと包みこんでくださるお方なのです。どこまでも私たちを、「子」として受けとめてくださる愛の神であることを私たちは知るのです。だからこそ、苦しい時、試練の時ほど、「忍耐して待ち望みなさい」(25)とパウロは励ましています。今、私たちと教会を苦しめているコロナ禍も、きっと近い将来には収束し、コロナ過と呼ばれるような過去の出来事になることでしょう。

2023年の新しい年も、御霊とともに、御霊に導かれつつ、歩んでまいりましょう。

御霊に導かれ、目に見えない確かな望みを抱きながら苦難の中を歩む姿こそ、神が願われる「神の子どもたち」の歩みではないでしょうか。

「神の御霊に導かれる人はみな神の子どもです」(14


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